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設立者の想い

FOUNDER

天野修一略歴

1890年6月現在の三重県鈴鹿市石薬師町で出生
1910年7月 大阪高等工業学校機械科卒業(現在の大阪大学工学部)
海軍奉職、海軍技手として横須賀海軍工廠附を命ぜられる
1913年7月はじめての特許「A式綴紙器」を得る
1931年11月天野製作所を東京蒲田に設立(現在のアマノ株式会社に至る)
1933年3月紫綬褒章受章
1961年3月財団法人天野工業技術研究所を私財にて設立
1976年12月静岡県浜松市細江町にて死去、享年86才
天野修一略歴一覧

鈍根運

著者 天野修一

第1部

  • 目次
  • 序章
  • 第1章
  • 第2章
  • 第3章
  • 第4章
  • 第5章
  • 第6章
  • 第7章
  • 第8章
  • 第9章
  • 第10章
  • 第11章
  • 第12章
  • 表紙
  • 仕事に生きる天野社長

    8時半には横浜市日吉の自宅をお孫さんや婦人に見送られて出る。9時前には会社に着いて仕事をはじめる。

    自宅を出発する天野社長

    毎月1日の朝礼では、必ず会社の方針や自分の考えを従業員に発表する。たまたま今回は社歌の指揮をしているところ。

    社歌の指揮をする天野社長
  • はしがき

     2年前『天野特殊機械三十年史』を発刊した時に、私は補足として、私の履歴を書くことを約束した。天野特殊機械株式会社といえば、アマノタイムレコーダーで、あるいは東京株式第二市場の上場株としてご存じの方もあると思う。昭和6年には従業員4名、資本金も3,000円ばかりであったが、いまは従業員700余名、資本金4億円の中企業である。この天野特殊機械は、良しにつけ悪しきにつけ、私という人間の反映であるので、それにこの本の意義もあると思い発刊した。

     私は役人、教師、官庁の嘱託、浪人等々の生活をへて、42歳で会社を自営し、経営者としてはまったくの中年者で、私の起業を知って、わざわざ北海道から訪ねて、思いとどまるように忠言してくれた友人もあり、商売のコツを教えてくれた知人もあり、浮沈にかかわる巨額の金を詐取されたこともあったが、幸いに今日に至った。

     会社の経営は、創業のころと戦後の一時期をのぞいては、この30数年の間私の陣頭指揮でやって来た。それだけに、いまだに資本金4億円程度の会社にしかならなかったともいえるし、また反面、いろいろな新しい施策も十分に行なうことができたともいえる。私のアイデアになる生産奨励金制度や役付登用試験は、世間に注目されている。また私が、タイムレコーダーの量産に対して行なった生産方式は、ハーバード大学(アメリカ)で「アマノシステム」の名称で学生の研究資料に用いられている。

     この30数年、私は他社の下請けはやらない方針で来たし、仕事は腹八分目にした。金融についても、ほとんど銀行に低頭せず、一業主義をつらぬき、全力を会社経営に集中することができた。そのほか、いろいろのことで当社は、きわめて特異性があるという印象を外部に与えているようである。そのことが良いか悪いかは、読者のご判断におまかせする。

     本書は第1部と第2部とに分かれており、第1部は、私が生まれた明治23年(1890年)から昭和6年(1931年)までの期間のことを書いた。すなわち、日本が東洋の一小国から世界の大国へとグングン力を伸ばして行った時期にあたる。第2部は、昭和6年に従業員4名で事業をはじめてから現在にいたるまでの私の事業歴である。一小企業が、いかにして戦争やインフレ、あるいは不況を切り抜けて来たか、事業の発展の記録を書いた。

     この書の前半は、クダクダしい一私人の生い立ちに属し、読者をして倦念せしめることが多々あると思うが、私の生い立ちが、私の「企業経営の理念」の発生であることを察せられ、忍んで素読あらんことを希望する。

     表題となっている「鈍・根・運」は、私の一生を通じての体験の表現である。思うに、私の学生時代は、ひたすらにまじめに勉学だけにすごした鈍の時代であり、海軍時代や自分で事業をはじめたころは、その場その場を頑張り通した根の人生であり、そして現在はいささかの運にめぐまれたとも言えよう。

     私は一介の技術者で、もとより文筆につたないが、善悪・功罪を併記した『天野特殊機械三十年史』の裏づけとしての役目をはたさせるために、事実を赤裸々に記載した。したがって場合によっては、知人に感謝し、知人をひぼう(誹謗)し、みずからの悪行を書かずとも、と思われることまで率直に記したが、すべては事実であることを断言する。

     以上の事柄を胸に、この本をお読みいただけるならば、私の本懐とするところである。この書の編集発行にあたっては、東洋経済新報社の方々、ならびに『天野特殊機械三十年史』と同様、川上良兄氏に多大の助言をいただき、また当社鈴木衛君の並々ならぬ努力に、いずれも感謝する。

     昭和37年10月

    天野 修一

  • はしがき
    i

    第1部

    序章頑張りつづけた人生
    3
    第1章私の少年時代
    5
    〈座談会〉1少年時代の思い出
    20
    〈座談会〉2中学生時代の同級生と
    25
    第2章大阪高等工業時代
    29
    〈座談会〉3大阪高工時代の友人と回顧
    39
    第3章社会人1年生
    43
    〈座談会〉4横須賀工廠勤務のころの同僚と
    56
    よそながら50年…(広瀬広八)
    59
    第4章三菱長崎造舩所監督助手として
    61
    第5章ふたたび横須賀工廠へ
    70
    第6章私の海外生活――アメリカ
    79
    第7章私の海外生活――フランス
    94
    フォッシュ元帥と私
    106
    第8章海軍航空試験所時代
    108
    〈座談会〉5海軍航空試験所時代を語る
    120
    第9章名古屋駐在監督官時代
    120
    第10章海軍思い出すまま
    131
    第11章退官後の生活
    139
    第12章天野製作所設立まで
    148

    第2部

    第1章天野製作所草創のころ
    159
    第2章軍需生産に乗り出す
    171
    第3章蒲田時代の思い出
    179
    〈座談会〉6アマノ昔話
    190
    明石照男さんの思い出
    195
    第4章横浜工場建設から敗戦まで
    198
    第5章敗戦のあと始末
    217
    第6章会社経営を離れて
    232
    落選者のことば
    239
    第7章ふたたび会社経営へ
    242
    第8章30年ぶりのアメリカ・ヨーロッパ
    252
    〈欧州の旅先から〉日本機械工業の反省
    259
    〈ニューヨーク通信〉アメリカ雑感
    262
    第9章新会社の設立から今日まで
    264
    〈座談会〉7女子従業員、社長を語る
    279
    〈座談会〉8会社幹部からみた天野社長
    282
    第10章私の回顧談
    287
    〈座談会〉9家族と語る
    298
    〈天野社長の横顔〉涙もろさ他
    307
    第11章これからは
    313
    層かごから
    321
    成功する企業家魂はこれだー(本田宗一郎氏との対談)一
    340
    出光佐三氏にもの申す
    351
    天野修一氏との結びつき(川上良兄)
    354
    天野修一略歷
    355
    索引
    359
  • 序章 頑張り続けた人生

    私の一生をふり返って

     少年時代から会社を経営している今日まで、大ざっぱに私の一生を反省してみると、私は家の事情で、ふつうの人より相当年若くして学校へ進んだので、学校時代は、他の人に追いつくために勉強一点ばりにすごした。何とかして人に遅れまいと一生懸命に勉強して来た。学資も十分ではなかったので、アルバイトもしなければならず、眠る時間さえも1日4時間くらいにして勉強して、ようやく人とともに卒業することができた。

     私は明治43年、20歳の時に大阪高等工業学校を出て海軍に入った。すると高工卒業者と大学卒業者との待遇に非常な差があった。大学を出た者はすぐに高等官になるのに対し、高工卒業では日給者か、判任官(高等官が天皇より直接委任をうけた官吏であるのに対し、天皇の委任をうけた行政官庁――すなわち海軍より任免される官吏)になるかであって、給料も10円(いまの金で5,000円くらい)は低かった。

     実際にする仕事では、それほど高工卒が劣るとは思わなかったが、それにしても、海軍がこのような差別をつけるということは、何か理由があるのではないかと、いろいろ考えた。その結果、当時の高等学校というものの3年間の生活、いまの大学教養学部に当たるのであろうか、その間ホウ歯の下駄をはき、手ぬぐいを腰に下げて歩いたあの時代に習ったことが影響しているのではないかと思った。

     そこで私は、高等学校3年間の物理だとか語学、その他いろいろのものを取り寄せて、勤務のかたわら5年かかって独学した。海軍工廠の沖合に停泊している軍艦へ行く船の中で、また下宿に帰ってからの余暇を利用して、これらの教科書を読みふけった。

     その後、いろいろな仕事をへて、現在は会社を経営しているが、いまもって経営についての研究や勉強は怠っていない。家庭にあっても、寝る時には枕元にスタンドを置き、ノート、鉛筆をそばにおいて、夜中に何か思いつくと、それを書きつけたりした。このために、スタンドをつけたり消したりするので、妻から眠れないとしばしば抗議された。私の事業の基礎となっているタイムレコーダーの数ある特許の中にも、この夜中にフト思いついたものもいくつかある。

     これから私の人生を書くにあたって、思い出をめぐらせてみると、これまでの私の人生は、学生時代は勉学に集中し、海軍に勤めたのち自分の仕事をはじめるようになってからは、事業の経営に一身を打ち込んで来た。それはただ無我夢中で、その場その場に心身を投げ出した頑張りの連続であった。他の人から見れば、私は一風変わったもの好きな人間とか仕事の鬼とかに思えるかも知れないが、私には、これまでの人生が、何かこうなるものであったという気がしてならない。これからもまだ、私の一生はつづいて行くことであろう。まだしたい仕事、しなければならない仕事が、つぎからつぎと、私の心のうちに浮び、私のまわりに起こってくる。きりがないが、これも私としては、こうなって行くほかないような気がしてならない。

     こんな気持を持って私は、いままでの一生を顧みて、世間でよく言う「これもまた一生なり」という心持が抑えられない。私のこのような生き方もあるものだということが、みなさんの心にとまるならば幸いである。

  • 第1章 私の少年時代

    5人兄弟の長男として

     私は明治23年6月15日、三重県鈴鹿郡石薬師村(いまの鈴鹿市石薬師町)に、農家の長男として生まれた。石薬師という所は、むかしの東海道五十三次の宿場町で、私の生まれた家も街道ぞいにあったが、そのころには、すでに街道筋の繁栄も鉄道(関西本線)の開通とともに消え、さつま芋と大根とが名産の寒村となっていた。

     私の兄弟は男ばかりの5人で、私のすぐ下に弟がつづいていたので、小さいころから子守と家事の手伝いをさせられた。子守をしながら、弟の小便を背中にかけられたこともしばしばあった。そういう環境の中で私は、祖母にとくに可愛がられて育った。

    生家の写真
    格子戸の家が生家:前の道は旧東海道

     父は、男ばかりの5人兄弟の養育にはとくになやまされたらしく、私を普通より1年早く尋常小学校に入れ、弟を1年遅く入学させて、少しでも負担を軽くしようとしたらしい。

     私の家は、祖父の代まではゆたかでもあり相当の資産を持っていたらしいが、祖母が家を仕切るようになると、持前の人のよさから方々の借金の保証人に頼まれては損害をこうむって家産をかたむけた。

     だから長男として生まれた私は、祖母より「天野の家を立ててくれ」と、幼いころからはげまされた。その祖母は、いまも石薬師近在で語りつがれるほどの好人物で、私の幼いころの記憶は、祖母に関するものが多い。

    わが祖母

     私が少年時代に最も感化をうけた女性と言えば、わが祖母である。祖母は、私が3歳のころから私の手を引いて先組の基参りに行き途中で私に菓子を買ってくれるのが日課のようであった。それも途中で近所の貧しい子供に出会うと、その菓子を分けてやるようにいつも言うのであった。「婆育ちは三百安い」と、私は小さい時近所の人から、からかわれたことを記憶している。

     安いが高いか知らないが、祖母は思うに人格の高い人であったと信ずる。私がいままで接した婦人の中で、彼女よりも人柄の良い人は見当たらない。祖母のことを思うたびに、いまでもなつかしさの念を禁ずることができない。

    祖母の写真
    祖母こたき

     私は祖母からいろいろのことを教えてもらった。御飯をたくこと、わらじをつくること、柴を取ること、甘酒をつくること、餅をつくことなど田舎ですることを一切、一緒にやりながら教わった。記憶にはないが、おそらく自分で大小便をすることも教えてもらったのかも知れない。

     現在、私がささやかながら多くの人をひきいて会社を超営しているのも、祖母の教訓に負う所が大きい。祖母ほど私の体内深くに巣食っており、また私にいまも敬愛の念を起こさせる人はいないであろう。祖母は私が22歳の時に76歳で死んだが、いまでも時々祖母を思い出すと、自然に涙が出てくる。

  • 中学進学への道

     このような少年時代をすごして私は、人より1歳早い6歳で尋常小学校へ入学した。とにかく日清戦争が終わったばかりのことで、6月生まれを4月生まれにして小学校へ通わせることが案外簡単にできたらしかった。

     そのころの小学校は尋常科4年、高等科4年、合計8年の課程があり、その上に中学校があった。私はごく普通に尋常科をおえたが、年が1歳若いために、人に負けまいとする気持だけは異常に強かったようである。そして高等科に入るころから、私はぜひとも中学校へ進学したいという気持にかられた。

     私の生まれた石薬師近辺には、中学校へ行く者はきわめてまれで、ほとんどの者が高等小学を出て、家業、それも多くは農業をつぐか、二、三男は大阪方面へ奉公に出されるのが慣いであったと思う。私は中学校へ進みたい気持をいつも持っていたので、父に「中学校へ行きたい」と思い切って言った。父ははじめのうち私のこの言葉を問題にしていなかったが、私があまりにせがむためか「高等科2年で中学、しかも県立第一中学(いまの津高校)へ入れたら、中学へ行かせてやる。しかしそうでなければ商家へ奉公に出す」と、条件つきで賛成してくれた。

     当時の中学校は、高等小学2年終了で入学できた。しかし、高等2年で入学する者は少なく、たいていの者は高等4年終了か、またはさらに1〜2年予備校へ通ってから入学するのがふつうであった。だから父は、おそらく本当に私を中学校へ行かせる気持よりも、難関突破の気持を持たせるために、そう言ったのであろうと思う。しかし私は、その目標に向かってぶつかって行った。

    中学めざして猛勉強

     私が中学をうけるために勉強をはじめた時、祖母は私に家事の雑用をすることを禁じた。私はそれまでやっていた子守からも解放され、弟たちから背中に小便をかけられることもなくなった。私は学校から帰ると、近くの須原という人の所へ漢文を習いに行ったりして、猛勉強をはじめた。とくに祖母は、一生懸命に勉強せよとつねに激励してくれた。

     田舎のことであり、また昔のことであるからソバねり、餅ぐらいで、せいぜいよくて鶏卵程度ではあったが、私に滋養をつけさせるために、自分の小遣からこれらの品々を買い与えてくれ、「お前はよく勉強して家を再興せよ。お前は長男であるからしっかりして弟の手本になれ」としばしば私に言ったことを記憶している。

    尋常小学校卒業写真
    尋常小学校卒業写真:後列左端が筆者、前列右から4人目が須原先生、さらに2人おいて松本先生

     そういう勉強をつづけていたある夏の夜中、私は寝苦しくてフト眼をさましたら、祖母が私の足に唾をつけてうちわであおいでくれていたことがあった。祖母は「勉強盛りのお前が夏病みすると先祖さんに申し訳ない。こうすれば夏病みしない」と言って、また睡を私の足の裏につけてくれた。そんなことが、夏中しばしばあった。

     私はその時にはあまり愉快に思わないで、足を引っ込めたりしたが、いまこの歳になってそのことを思い出すごとに、眼頭の熱くなる思いがする。

  • 高等2年で中学に合格

     私は高等科2年終了と同時に、三重県立第一中学校の入学試験をうけた。石薬師から津までは24キロも離れており、その3〜4年前に12キロほど離れている富田(四日市)という所に、県下で4番目の中学校が新設された。近所の進学者はみなこの富中に入ったが、父が私に富中の方をうけさせず津中をうけよと言ったのは、私に難関突破の気魄を生ましめるためであったと思う。

     試験の日がやって来た。私はたまたま、同じ受験生の山口万蔵君から「君、記事文というの知っているか」と問われた。私はなにぶん田舎者なので、その当時は記事文などは知っていなかった。しかし幸いにも試験問題は「入学を祝う文」であったので、ホッとしたことを覚えている。

     いよいよ発表の日、私は胸をドキドキさせながら掲示板に見入った。とにかく中学校へ行けるか奉公に出されるかの境目でもあった。しかし私の名前はあった。「天野修一」という4字が私の目に飛び込んで来た。私は宙を飛んで家に帰り、父に「合格したから中学へ行かせてくれ」と言った。

     しかし父も、私の合格を本気にしなかった。それは無理のないことであった。というのは、前にも言ったように、高等小学2年で入学できる者がめずらしく、しかも農村出のものが合格することは父でなくとも本気にできなかったであろう。父はわざわざ津まで発表を見に行ったくらいであった。

     こうして私は、中学校へ進学する道を切りひらいた。しかし父は、「約束通り中学へ行かせるが家から通え」と言った。ふつう県立第一中学へ通うには、24キロの道のりがあるので、津に下宿して通学するのであったが、父の言葉で私は、津まで24キロの道を通うことになった。

    往復48キロの道を

     私が家から津まで片道24キロ、往復48キロもの道を通学したというと、ほとんどの人は信用してくれない。私が12歳から15歳の間に通ったのだが、ふつうでは、とても子供の足で毎日通えるものではない。人が信用しないのも無理はない。

     実際のところは、時々山の中で寝て帰るということもあれば、石薬師と津のちょうど中間あたりに、私の母方の在所である白子という村があったので、そこへ泊まってくるということもあった。私は自分の家にいる時は、朝の3時ごろになると祖母に起される。そして風呂敷を筒にしたような背負袋二つを十字に背中にかけて、つき出されるようにまだ暗い中を学校へ出かけた。背負袋の一つには学校の本や鉛筆などを入れ、もう一つには大きなオニギリが三つ入れてあった。

     そして田圃道や山道をななめに横切りながら目をこすりこすり飛んで行くと、ちょうど8時半ごろに学校へ着くというような状態であった。そして午後2時半の放課を待ちかねて家に帰った。持たされたオニギリも、食べ盛りであったので、つい三つとも平らげてしまうと、祖母に必ず「もし何かの場合に、山の中に寝なければならなくなった時に、どうしても予備のオニギリが必要だから、一つはしまっておかなくてはいけない。なぜーつ残して帰らないか」と注意された。

     私はまだ子供のころであったが、この祖母の教訓をよくおぼえていて、いまでも仕事をするたびに準備を忘れないのは、祖母の教えのたまものであると思っている。こればかりでなく、私が多少でも現在まで仕事をつづけて来られたのは、小さいころの祖母の教訓に負う所が多かったと思う。

  • 入学早々のストライキ

     中学へ入ったのは明治35年4月、私が11歳の時で、三重県立第一中学校では最も年少であった。私のクラスでは、高等小学4年まで進み、さらに予備校へ2年ほど通っていた者もかなりいた。私のように高等2年修了で入学して来た者は、クラスには2人しかいなかった。おまけに私は、人より1年早く小学校へ入ったから、まことに小さな中学生であった。

     私が入学してすぐに、学校に大きなストライキがあった。そのストライキの原因は、県の方で、もと藩士であった先生を新しい先生に変えたことにあった。これに対して津市の父兄が反対し、生徒のストライキで抗議するということになった。この県立第一中学のストライキ事件は、津では有名なもので、いまでも語り草になっている。

     私も入学したばかりで、学校へ行くのがうれしくて仕様がないころであったが、学校へ行こうとすると、校門の所に上級生が待ち構えていて、短刀などをチラつかせては、学校へくるな、ストライキに参加しろなどと、おどかしていた。私はとにかく、先生の良い悪いを知らないから、ストライキには加盟できないと反対して、排斥されていた校長の甥にあたる岩村清一君(のちに海軍中将)と2人だけは、最後まで通学した。

     この時に、数学の川ロ千鶴之助という先生が、小さい私を人力車の前に坐らせて一緒に学校へ行かせてくれた。そして聞もなく、川口先生の家から学校へ通うようになった。川口先生は学校から帰ると私にいろいろ数学の話などをしてくれた。これがのちに、私が数学についてはいくらかでも他の人よりぬきん出た原因となったのかも知れない。

    ウズラ豆になやまされる

     間もなく学校ストライキも終わり、授業の方も平静にもどった。私も川ロ先生のお宅にいつまでもご厄介になっておられず、また石薬師から通学することになった。しかしそれも大変であったので、しばらくしてから津市内の丸の内に下宿することになった。

     しかし下宿料が1日米1升であったので、あまり良い待遇はされなかった。朝食はご飯に味噌汁、新香、ウズラ豆少々、昼の弁当にもウズラ豆が入り、夕食にもウズラ豆という具合にくる日もくる日もウズラ豆が顔を出した。しまいにはもうウズラ豆を見るのもイヤになり、卒業して下宿を出る時には、卒業の喜びよりウズラ豆から解放される喜びが大きかったとおぼえている。

     私は家計の都合で、中学校在学中も小遣が足りなかったので、師範学校を受けるために一緒に下宿していた弟の勉強をみるかたわら、近所の子供とか下宿の子供を教えてやって、若干の足しにしていた。いまで言えばアルバイトであったが、子供のことだから完全なものでなく、多少自分の生活に役立てた程度であった。

     私は、弟や近所の子供を教える一方で、自分の予習、復習もしなければならなかったので、教える方を夜の10時ごろまでに終えてひとまず眠り、夜中の2時ごろに起きて、4時か5時ごろまで予習、復習をした。それからまたひと眠りして学校へ通った。

     育ち盛りであった私は、この夜中にめざめることがなかなかできなかった。そこで、その時間に自然と目をさます工夫をした。それは石油缶を二つ並べて、戸板をその上におき、そして掛ぶとんを二つに折って敷ぶとんをかけて寝ると、夜中に体が動いてふとんがずれ、寒くなって自然にめざめるという方法であった。

     このように、1日の睡眠時間を4時間くらいにしないと、当時の私は、人より年も若かったし、何事においても人に遅れを取るようなことになってしまう。この夜中にめざめて勉強するという習慣は、つい最近までつづいた。

  • 愉快だった中学時代

     私の中学時代は学資が十分でなかったことをのぞけば非常に愉快であった。中学の5年間ずっと一着の制服で通したが、津で父に小倉の制服を買ってもらった時のうれしさはいまも忘れない。肩あげした制服を私が大きくなって行くにしたがって肩あげを下ろして行き、卒業するころにはもうツンツルテンになってしまった。靴も入学した時に大きなものを買ってもらい、先の方に紙をつめて足に合わせていたが、これも年月がたっとともに修理に修理を重ねたために、最後には半張りも利かなくなってしまった。

     中でもつらかったのは体操の時間であった。この時間にはどうしても靴をはくことが必要であったが、私には底の取れた靴しかなかったので、足の裏に墨をぬって体操に出た。その当時はまた、そんなことをしてもクラスの者に笑われるどころか、かえって得意になっていた時代でもあった。

     愉快であったことと言えば、津の岩田川にボートをこぎに行ったり、またとんでもないことではあったが、学校のすぐそばを通っていた参宮線の線路に寝て、10数人で列車を止めたこともあった。もちろん、あとで大問題になったけれども、その当時の中学生というものは、まことに稚気愛すべきものがあったと思う。

     また私は、同級生の朝川猷夫君と校庭でふざけ合っていた時に、たまたま彼に投げ飛ばされたことがあった。彼は柔道の心得があり、私は田舎もので腕力はあったが、そんな心得がなかった。私には朝川君に投げ飛ばされてから、つくづくわが身を守るためには柔道の多少の心得は必要であると感じ、それ以後柔道のけい古をはじめるようになった。

     このほかに当時『秀才文壇』とか、『中学世界』という雑誌が博文館から出ていて、それに投書すると10回か20回のうちには入賞して、5円か2円かが時には入った。それが非常にうれしく、せっせと書いたものであった。私が、エンジニアでも多少文章が書けるのも、この当時一生懸命になって書いたことがみのっているのではないかと思う。

    特待生を逸す

     私は前にもふれたように学資がとぼしかったから、何とかして、授業料免除の特典がある特待生になろうと努力をかたむけた。しかし、倫理という科目の点数が悪くて、どうしても特待生になれる資格が取れなかった。もともと私は暗記ものが不得意で、いまの修身(道徳)にあたる倫理は、どうしても良い点が取れなかった。私はこの倫理で良い点を取ろうと努力した。その努力がみのってたまたま良い点を取った時に風邪をこじらせてしまった。それでも無理に体操の時間に出たが、体がフラフラで行進の時に足が上がらないという始末であった。体操の先生が「天野、どうした」と注意してくれたが、こういうことで今度は体操で十分な点をもらうことができず、また特待生を逸してしまった。

    中学生時代の筆者
    中学生時代の筆者

     この状態を見かねて、学校ストライキの時にお世話になった川口先生が、あまりに気の毒だからと、四日市の小管劔之助という資産家に、学資の援助をしてもらうよう私を紹介してくれた。この小菅氏はのちに将棋の名誉名人になった人で、関根名人の兄弟子にあたる人であった。将棋は相当強かったが、かけ将棋をやって小野吾平という師匠から破門された。しかし、その後桑名で米俵の運搬人足から財をなし、四日市の近くの室山という所に相当大きな邸宅を構えて、困っている学生に学資を与えていたりしていた。

     私は川口先生につれられて小菅氏の邸宅へ行った。そこで大変ご馳走になった。小菅氏は、「私はいままでずいぶん学生に学資を出した。中には博士になった人も何人かいる。しかし学資を出している間は、正月とかお益にあいさつにくるが、卒業してえらくなると音信もなくなる」と言った。

     そこで私は「金持が困った人に金をめぐむのは、それだけでも満足すべきであって、その上に感謝されようというのはおかしいのではないか」という意味のことを言った。川口先生がそばで私の袖を引っぱるのを感じたが、そんなことを言ってしまった。小菅氏は「若僧何を言うか」と言って席を立ってしまった。これで川口先生の折角の好意が無になってしまい、学資の援助もうけられず卒業まで苦労した。

  • 弘田竜太郎君をなぐる

     ストライキで新たに赴任した校長は、有名な作曲家であった弘田竜太郎君のお父さんである弘田正郎氏であった。この人は高知の出身で古武士のおもかげがどこかに残っていた。

     弘田竜太郎さんは私より2年下のクラスであったが、そのころから、校舎の裏にあった公舎でよくバイオリンを弾いていた。ちょうど物理の講義の時に、私はクラスの副級長をしていた関係上一番うしろの席にいたが、そのバイオリンの音が邪魔になって仕様がなかった。

     そこで隣の席に坐っていた級長の中堀理君に、君が行ってパイオリンを弾くのをやめてもらって来てくれと頼んだが行こうとしなかった。そこで私が教室から出て行って、弘田さんにやめろと言って、なぐってしまった。そしてフトうしろを見ると、そのお父さんである弘田校長がニコニコ笑って見ていた。私は大変びっくりしたが、その後何のとがめもうけなかったところを見ると弘田校長は実にえらい人であったと思う。

     私は前にも言ったように暗記力が弱かったために、倫理の時間に先生が話したことをすぐ忘れしまうので、試験の成績はいつも悪かった。当時の倫理は学科が半分、品行点が半分になっていた。

     その倫理の担当が弘田校長であった。私は学科が悪いから、せめて品行点が良くないと進級できないはずであった。それでも落第することなく倫理をパスさせてもらったところをみると、弘田校長は、自分の息子をなぐるくらいの生徒に、良い品行点をつけたことになる。私は弘田校長の影響をうけて、坐禅などもしたことがあるが、弘田校長にはいまも非常に感謝の気持を持っている。

    年齢不足で兵学校入学取消さる

     こうして私の中学校時代は終わりに近づき、そろそろ自分がどの方向に進むか考えるようになった。私の家の実力としては、中学卒業までの5年間の学資が精一杯であった。そのころの石薬師あたりでは、中学を卒業するだけでもめずらしく、まして中学から上の学校へ行くことなどは、めったにないことであった。

     私が中学校を卒業した明治40年と言えば、日露戦争で快勝を得たわが国は、軍国一色であった。その当時学資がいらずに出世できる方法は中学校から陸軍士官学校か海軍兵学校、あるいは海軍機関学校へ進むのが最善の方法であった。したがって、中学生で身体が丈夫だとか学力に自信のある者は、そのいずれかを選んだものであった。

    中学卒業写真
    中学卒業写真:3列左から5人目が筆者、前列中央が弘田校長

     私は家の都合も考えて、海軍兵学校と機関学校を受験しようと思った。田舎者で自信はなかったが、先輩も何人か入っており、同級生にも受験する者がいたので、私も三重県で最良と言われた県立第一中学校で95人中10番以内の成績を取っていたから、まず海軍兵学校の試験をうけた。

     幸いに体格検査も学科試験も合格して、あこがれの江田島に行くことが決まった。私は前途の希望に胸を熱くしていた。父も友人も郷里の人たちもみな私の合格を祝福してくれた。ところが私の入学は突然取消された。

     私はおどろいて、その間の事情を先輩に頼んで調べてもらったところ、私の生年月日が学校の証明と村役場の戸籍謄本と違っていたことが原因であるとわかった。これは、私の次にすぐ弟がつづいているので、父が子供の教育費用を平均化するために、私の生年月日を3ヵ月早くして小学校へ入れたからであった。

     私はやむをえず、海軍兵学校入学をあきらめなければならなかった。

  • 海軍機関学校も失敗

     私は、この海軍兵学校に惜しいところで入れなかったことが非常に残念であった。そのうちに中学校を卒業して、今度は海軍機関学校を受けるつもりで、郷里に帰って来た。石楽師では、県立第一中学校を出た人はめずらしく、親戚、知人が私の卒業を祝ってくれた。しかし正直な話、私は中学校を卒業したことよりも、下宿のウズラ豆から解放されたことの方がうれしかった。

     そして私は生年月日を正しくして学校の証明をもらい、今度は海軍機関学校を受験した。しかしこの時は、近眼のために第1日目ではねられてしまった。私の眼は大した近眼ではなく、そのころまで眼鏡をかけなくとも細かい字が読めていたから、いまならば目を治してでも志願したであろうが、そんな知恵も当時はなかった。

     私は重なる不運に打ちのめされ、出世の夢も空しくやぶれてしまった。郷里では、これから私が何になるのがよいか相談しても、中学を出たらそれ以上に行くこともないだろうくらいの返事で、まるで相談にはならなかった。

    異性からうけた印象

     このころ私は、もう一つ強烈な印象を女性から受けたことがあった。それまでも、少年時代に近所の女の子が私にとくに親切にしてくれたり、中学校時代に女学生とすれ違うのを楽しみにした経験はあったが、そういう淡いものではなかった。

     それは海軍兵学校の試験につづいて名古屋で海軍機関学校の試験を受けるために、駅前の舞鶴旅館に泊まった時のことであった。私は同級生と一緒に泊まっていたが、みんなが夜の散歩に出たあと、私はどういうものか1人で旅館に残っていて、もう寝床の中に入っていた。そこへ旅館の女中がいきなり私のふとんの中へ入って来たので、びっくりしてしまい、それなり旅館に帰らず、あとから荷物を送ってもらったことがあった。

     これが私の異性に関する記憶の2番目のもので、はじめての記憶は、やはり小学校時代に中学の入学試験を受けようと真剣になっていたころのことであった。同級の女生徒が、私にとくに好意を持ってくれた。別に悪い感じはしなかったが、幼馴染の子供の好意ということで、その時のことは淡い記億となって、いまも私に残っている。しかし名古屋の旅館の時のことは、驚きの気持の方が強く、非常に強烈な印象となっている。

    しかし入学していれば

     このように私は、不運にも、以前から熱望していた海軍兵学校と機関学校のいずれかへ入学するという希望は絶たれてしまった。非常に残念であった。できるならば、来年また受験したいとさえ思っていた。明治40年7月私の17歳の時であった。

     しかし、このまま私が海軍兵学校か機関学校へ進んで、順調に昇進して行ったなら、戦時中にはちょうど少将か中将ぐらいになっていたので、おそらく私の生命があったかどうか、きわめて疑問である。

     よしんば生命があったとしても、いまごろは現在のように自分の好きな会社の経営にたずさわっていることができたかどうか。思えば、人間の運命はどこで何が転機になるかわからないものである。事実、私の同級生で海軍兵学校へ進んだ草川淳君は、戦艦「大和」の艦長となり沖縄へ片道の燃料を積んで出撃する途中で攻撃をうけ、艦と運命をともにしたという。

  • 座談会写真
    正面左端が筆者夫妻、その右隣りが松本幹三先生

    〈座談会〉 1

    少年時代の思い出
    とき
    昭和37年4月9日
    場所
    三重県鈴鹿市石薬師町、生家近くの園田家で。
    出席者
    松本幹三(高等小学校時代の恩師)
    犬飼重信
    岡田恭三郎
    加藤敬次郎
    川北新吉
    杉崎仙太郎
    園田伝次郎
    園田はし
    須原きね
    呉谷うめ
    藤田あや
    野田とき

    天野 松本先生お久しぶりです。天野でございます。

    松本 おお、天野君か。えらい立派になられて何よりです。もう60年も前になりますなあ。

    天野 そう、60年も前になります。先生もお選者で何よりです。

    須原 天野さんは7つで学校へ行きましたな。

    天野 いや私は6つで行きました。年をゴマかして入ったでしょう。1年早く行ったんです。

    犬飼 たしか高等2年で第一中学へ入られたな。すぐ同盟休校があったでしょう。

    天野 ウンあった。私はすぐ下の弟と1つしか年は違わないんですが、学年は3つ違っているんです。おやじが私を1年早く学校に入れ、弟を1年遅く学校に入れたんですよ。

    園田はし 天野さんの所は男ばかりの兄第でしたね。

    須原 それがみんなよく出来て。

    天野 おきねさんにはよくお世話になった。お父さんに漢文を習って。

    加藤 天野さん。今日は。

    天野 今日は。誰かしら、私おぼえないが。

    犬飼 加藤敬次郎さん。酒屋のおじいさん。

    加藤 お変わりなく元気ですなあ。

    天野 ええ、久しぶりですね。須原さんはもっとやせていたでしょう。藤田さんは「おあやさん」と言って、なかなか美人でしたよ。こうして会ってみると、幼な顔が残っていますな。

    藤田 天野さんは私と近所で、家の角から女の子が通ると、長い行竿をすっと出して、トウセンボをしましたよ(笑)。

    天野 いや私は小さいころから女の子をいじめたおぼえはないですよ。

    野田 私もトウセンボをされました。

    天野 それは本当に小さい時のことでしょう(笑)。

    園田はし もう学校へ行っていましたよ(笑)。

    呉谷 それでお使いや学校の往き帰りに、天野さんの家の前を通らなければならないので、ずいぶんこわかったですよ(笑)。

    天野 それでも高等小学に行ったら品行方正だったですよ。ねえ先生、おとなしかったでしょう(笑)。そしてよく出来たでしょう。ここには家内もいるし、少しはよく言ってもらわんと(笑)。

    松本 天野さんは、とにかくクラスの中でも目立って出来た方でしたな。高等2年から中学へ行く人はめずらしかったのに、天野さんが入ったというので、いまでも記憶に残っています。そのころは、特別な教育もしなかったが。

  • 天野 その代わり、須原さんのお父さんに漢文を教えてもらいました。

    岡田 高等1、2年の時ですか、級長の選挙があって、天野さんが級長になった。

    天野 そうそう、松本先生が級長を選挙せいと言われた。そして私が選ばれた。あの時、女性は全部私に投票してくれましたね。男性は1人だけ投票しなかった。それからみると、私は女性には人気があった(笑)。

    藤田 この間、テレビで天野さんの会社が出て、一生懸命見とりました。その時に、会社では女の子さんを男子と一緒の待遇をして、非常に大切にするとおっしゃっていましたな。

    天野 ええそうですよ。

    藤田 私、それを聞いてまして、やっぱり女の子は大切にすると(笑)。

    天野 それは級長に選挙された記憶があるからですよ。

    藤田 日本ではこういう会社はないと言って、えろうほめていました。

    加藤 天野さんの会社は、何を主に作っていますか。

    天野 タイムレューダーです。

    川北 全国の7割を占めているとか。

    藤田 株がえろう上がって来てますな。

    天野 あなた方株を買っていますか。

    加藤 わしゃ「オール生活」の記事を見て、それからあんたを知るようになった。それから毎日株の欄を見ていますよ。しかし天野さんのお父さんは教育に熱心だったですなあ。

    犬鍋 子供は全部仕込んだやな。

    須原 それは教育熱心でした。

    犬鍋 毎日のように学校へくる(笑)。

    藤田 しじゅう小学校へ来て。

    杉崎 とにかくお父さんは、失礼だが頭の良い人で、教育はうまくやりましたね。

    天野 ウチが貧乏でしたからね。

    藤田 お母さんにそっくりですな。

    加藤 お宅のお父さんは、子供さんの名前を上から順に一、二、三とつけて行った。そのことをある日聞いてみると、それは一、二、三は数の順序であるから何人子供が出来てもつけられると言っていました。

    天野 へえ、それは初耳です。

    園田伝次郎 そのお父さんの逸話を披露しょう。なかなか頭の機敏な人で先のよく見える人だった。私が郵便局長をしていた時に、「子供は何人あっても、嫁をもろうたら自分の子やと思うたらいかん。遠い親類が出来たと思え。子供の所へ行っても、魚の切身が少し小さくなったらもう帰らなあかん」と(笑)。なかなか達観しておられて、割り切ったことを言いなさる人だと思った。

    天野 それは初耳ですな。クラスの中で喧嘩は川北君が強かったな。

    呉谷 川北さんは横着だった。

    藤田 背も高かったし。

    天野 あんたは行儀悪かったよ。昔校舎の南に柳の木があって、女の子が輪をかいて遊んでいると、川北君が行って滅茶苦茶にしたりしてね(笑)。

    川北 天野さんの頭を一つ二つはったことがある(笑)。

    天野 私はみなさんより年下でしたろ、大きければ負けはせんよ(笑)。

    園田はし 天野さんは元気にあふれていて、小さい時から丈夫でしたね。

    藤田 小さい時は肥っていて、小柄でした。

    天野 杉崎さん、あんたも横着だったよ(笑)。

    杉崎 そんなおぼえがあるな。あんた教室の窓飛び出しよって、ウチへ帰ったことがある(笑)。

    天野 オレはそんなことせんよ。

    杉崎 それで2人立たされたことがある。あんたをいつかなぐったことがある。するとお父さんが怒って来て、ワシをどやして、「どんな気がする。お前もイヤーな気がするやろ。ウチの子もイヤーな気がするもんや。ありがたいと思うとるか喜んどるか。これからやめい」と言って叱られた(笑)。

    天野 私はあんた方はしあわせだと思うな。腕白ができたから。私は高等2年から中学へ行ったから、腕白があまりできなかった。腕白は高等3年、4年のしまいごろがひどいんだろう。私には腕白時代がない。

    川北 いじめられてすぎてしまった。

    天野 立たされたことがあって、みんなの硯に水注しで水をついで回ったことがありますよ(笑)。岡田君も腕白だったよ。

    岡田 子供のころは腕白ぐらいでなかったらあかんわ。

    天野 体操がうまかったね。

    岡田 背は一番高かった。あの級長選挙のときにな、わしゃあんたに投票した。

    天野 ありがとう(笑)。

    岡田 あんたはすばらしい頭をしていた。

    加藤 修一やなくて「秀一」やった。

    藤田 兄弟そろって頭がいいので、石薬師では有名でした。

    園田はし この人は学科の方はみな10点やったけどな、品行だけはちょっと悪かった(笑)。

    天野 このごろは品行が非常にいいんです。家内の監督がきびしいから(笑)。

    園田はし おばあさんという人が良い人でしたな。

    藤田 小たきさんとおっしゃって、しっかりしたおばあさんでした。

    野田 本当に人の良い人やった。

    呉谷 親切な人で、今度は男の子さんばかりだから、しあわせになるやろうと話していました。

    藤田 気丈な方で、シャンとした人でした。

    天野 私はね、学校から帰ってくると必ず家の用を手伝わされ、それが終わると子守だ。末の子に何度小便をかけられたかわからない(笑)。それから桑つみね。あのクキを入れると怒られるんだが、クキも一緒にもいじゃって、籠の下の方へ入れて出したこともある。それをひっくり返して調べられるからクキを底と上との中間に入れた。

    川北 細かなことをよう知ってますなあ。

    天野 私の母方のおじいさんが、神戸(かんべ)までラムネを仕入れに行く。そのラムネ1本ほしいために、荷車の先をひいて行ったものだ。神戸まで行って帰って来て、ラムネ1本もらう。そのために一生懸命働いた。神戸へ着くとおじいさんはサシミで酒1本飲む。「修一、サシミを食べてみろ」と言われて食べたら、変な味で吐き出したことがあった。

    川北 そのおじいさんが鎩治屋をやっていて、作ったクワが2丁まだありますわ。柄に手型がついていてね。100年以上前に作ったものらしい。

    天野 そのクワ、私に記念にくれませんか。

  • 座談会写真
    左より大野善隆君、近藤亀之助君、筆者

    〈座談会〉 2

    中学時代の同級生と
    とき
    昭和37年4月23日
    出席者
    大野善隆(元海軍軍令部参謀・元東郷元帥副官)
    近藤亀之助(元地方農業技師)
    天野修一

    天野 大野君とはよく柔道をやったな。

    大野 ウンよくやった。あんたとはよく遊んだよ。オレの家へもよく来た。ずっとクラスが一緒だったものな。

    天野 オレが海軍にいたころ、海軍の軍令部にいたんだろう。

    近藤 もう名参謀だものね。

    天野 戦争の時はどうした。

    大野 インドでつかまっていた。ビルマの大使館で外交官に化けてね。反英運動の元締めをやっていた。それでつかまってインドへ送られた。

    天野 大野は中学を出てから海軍兵学校へ行ったんだな。オレは、おやじが戸籍をごまかして1年早く小学校へ入れたのが、受験のときにばれて、合格するところを合格しなかった。

    近藤 しかし物は考えようで、兵学校へ入っていたら、いまごろは生きていないかも知れないよ。

    天野 そうかも知れない。大野みたいに悪運強く(笑)生きのびられないかも知れない。

    大野 ふつうに行ったら少将か中将に行っているものな。

    天野 中学時代、長岡という講道館で8段の人が来たとき、カニのようになってがんばったけれども、ポンポンと投げられてね。

    大野 天野は原子(はらこ)というアダ名だったな。原子という先生に似ているんで(笑)。

    天野 あの先生にはよく可愛がられたよ。

    近藤 しかし半世紀をへだてても、どこかに当時のおもかげが残っているな。

    大野 はじめはそれほどじゃないが、会って話しているうちにだんだん出てくるんだよ。

    天野 しかし僕らのクラスは、みな良くなっているね。

    大野 死んだって、いい地位で死んでいるよ。

    天野 僕はね、とくに数学の川口先生に可愛がられて、ホラ入ったばかりのときに学校でストライキがあったろう。あのときに下宿させてもらった。僕は家が苦しかったから、特待生になろうと思っていたが、どうしても倫理の点が悪くてなれない。たまたま倫理の点がいいと、風邪で体操の点が悪かったりしてね、先生が口惜しがっていた。

    大野 田舎から出てくる者は、たいてい大地主か医者、旧家の出だものな。

    天野 大野はオレたちと一緒に参宮鉄道を止めた仲間じゃないか。

    大野 さあ知らんな。レールの上に釘を乗せたことはあるが(笑)。ずいぶん悪いことをしたもんだな。

    天野 えらいこと怒られて、一ぺんに品行方正になった。いまあんなことをしたら大変だね。

    大野 当時のあばれ方というのが、いまのように深刻な悪さというのがなかったね。どうかというと、稚気愛すべきところがあった。

    近藤 その点当時はノンビリしていた。

    天野 よくドアの上へ、黒板ふきをのせて、先生が入ってくるとそれが落ちるようにしたり(笑)。

    近藤 タン壺をひっくり返したりね(笑)。

  • 大野 あの中に小便したことがある(笑)。

    天野 大野は相当な暴れん坊だったが、オレはおとなしかったよ(笑)。

    大野 何言ってる、そんな(笑)。

    近藤 それは覚えとらんから、わからん(笑)。

    大野 天野なんかもね、大人しかった、表面的にはね。生意気な方ではなかった。

    天野 そう生意気なことをやってはおれなかったよ。年が若かったから、勉強せにゃならなかったからね。よくボートこぎに行ったろ。

    大野 岩田川だ。君なんかとよく行ったよ。川ぷちで話したりして。

    天野 その帰りに甘酒屋へ寄るんだよ。その甘酒の茶わんを袴の下にかくして持って来て(笑)。あのとき甘酒が一杯2銭くらいだった。

    近藤 それから、女学生によく会ったろう。

    天野 土井という美男子がいたろう、あれは女学生によく追っかけられていた。また大野君もよかったな。

    大野 天野なんか見向きもされなかった(笑)。

    天野 帰りによく高等女学校の生徒と会ったものだね。会う場所がきまっているんだ。それが楽しみでね(笑)。

    大野 あれ、向うも時間をきめてくるんだよ。そのころは、中学生しか対象になる男はいなかったし、それでまた、こちらは女学生以外にはないんだから(笑)。

    近藤 しかしお互い丈夫で結構だなあ、腰も曲らないで。天野さんは、それだけ忙しくても丈夫なんだから、なお結構だ。

    天野 いやいや。

    近藤 仕事に生命があるし、生き甲変があるよ。しじゅう頭を使っているから、老化しないのがいい。

    天野 自分でもこんなことをする気持はなかった。しかし幸福かどうかはわからないぜ。

    大野 結局、魚雷とか精密なものをやっていたからな。津へはよく行くか。

    近藤 行かない。いまさら行っても仕様がないもの。

    天野 そう、仕様がない。

    大野 僕が海軍に入ったのは、海岸に育ったことと、軍艦がよく入って来た影響だよ。

    天野 僕もそうかも知れん。しかし大野はいいよ。僕が軍艦のマストに上がったりしているとき、国民の税金でいいことしていたんだから。

    近藤 ちょうど中学3年の1月2日に旅順が開城して、歌を習ったね。

    大野 提灯行列をやってな。

    天野 あのころ、軍へ志願したのがだいぶいたろう。

    大野 そうかな。

    天野 柔道の寒げい古に行ったことがあるか。

    大野 行ったよ。

    天野 オレはワラジ汁を飲まされたよ。

    大野 牛メシはあとでよく食ったが…。

    天野 君らは中学で服は何着買った。

    近藤 2着ぐらいだな。

    天野 僕は5年間1着ですごしたよ。

    大野 そんなに大きくならなかったか。

    天野 いや1着しか買ってくれなかった。丁字屋という洋服屋があったろ。

    大野 ウンあった。

    天野 そこで3円か何かで、おやじに買ってもらった。それが肩上げがすごいんだ。それが年とともにだんだん伸びて行って、5年のときには1/3くらい腕が出ている始末で(笑)。それから靴も1足だった。

    近藤 近いから。

    天野 そうじゃないよ。はじめ新聞紙か何か入れてはいていたやつが、だんだんすり減って、修理また修理で、とうとう最後には靴屋に見放された(笑)。それからは、体操のときだけ足の裏にナベ墨をぬって出たよ。

    大野 そうか、そんなに苦労したのか。

    天野 下宿は丸の内にあった。あの付属の裏門の所。

    大野 近藤は付属だったな。

    天野 川口先生に厄介になったときも、おやじがお礼に持って行けと言って渡されたのが、酒1升(笑)。なんてケチなおやじだと恥かしくなったことがある。

    大野 しかし昔話はつきないな。

    近藤 もう5〜6人も集まれば、まだ面白い。

    天野 今度また同窓会をやろうよ。

    近藤 津でね。

    大野 うん津でやろう。早くやらないと、だんだん人が減ってくる(笑)。

  • 第2章 大阪高等工業時代

    友人に誘われて大阪高工を受験

     こうして私は、郷里の家でくさっていた。そこへ友人の川合重三郎君(故人・のちに東洋紡の工場長となった)がたずねて来て、大阪高等工業学校の入学試験が6月にあるから一緒に受けに行かないかと誘いに来た。私は、一度そういう試験を受けておけば、来年海軍兵学校を受験する時の参考になると思って、試験を受けることにした。

     明治40年6月小雨の降る日に、家から4キロ離れている関西鉄道の小駅高宮(いまの関西本線加佐登駅)から、いまの人々に想像できないむしろ敷きの旧式列車に乗った。その時亀山から私の前後の席に、宇治山田中学の卒業生が4〜5名乗って来た。そのうちの1人の池村君(のちに汽車製造会社重役)と車中のつれづれに、雨の降るのを見て降雨の方向は汽車の進む方向と相反するようにみえるが、その理由は何だろうと論じ合った。それがたまたま試験に出たので、きわめて印象深かったことを記憶している。

     この池村君は、汽車製造会社でのちに有力な人物の一人になったが、彼とは以後3年間机を並べたことも面白い機縁であった。

     大阪に着いた私は、雨の降る中を、上福島の福島紡績に勤めていた同郷のお糸さんをたずねた。紡績会社の守衛所の脇にある小さい粗末な部屋で、2時間以上も待たされて、やっと青白い顔をした背の小さいお糸さんに面会できた。そこでまた1時間近くもいろいろ話をして、お糸さんの案内で、近くの三笠館という名前は良いが小さな学生旅館の3畳の部屋に落着いた時は、もう電灯のともる時刻であった。

     小学校の時に茶良へ修学旅行に行って猿沢池のそばの宿屋に泊まった時に、沢庵漬と何だかわけのわからない悪息になやまされた記憶が、この時によみがえり、その上どぶ川の臭気がまじって何とも言えない気分であった。大阪という町は、田舎ものの私にとっては、さぞ大きな街として映ったであろうが、その時の私には、いかにも汚ない街に感じられた。

     私の大阪高工の第1志望は機械科で第2志望が舶用機関科であった。試験の時の私は、数学と物理とは大体できたつもりであったが、英語の書取りの試験があった。その時は一番前の席に陣どっていた。その先生は非常に背の高い人で、その上に後の方まで声を通すために演壇に上がり、私の頭の上で英語をペラペラしゃべった。先生の声が自分の頭の上を通って行くし何を言っているのか訳がわからなかったので、持っていたコンパスで答案用紙一杯に丸を書いて出て来た。

     私自身、多分に来年の練習にという軽い気持もあった上に、英語の書取りで何も書けなかったので、この試験はまあ合格はしないだろうと思って郷里に帰った。

    大阪高工へ幸運の入学

     私は大阪高工にはあまり気乗りしない上に、あの悪臭とゴミゴミした下宿屋の3畳では、むしろ青天井で毎日日光浴をする方がどれほど幸福かと思うと、なおさら入学する気になれなかった。まあ郷里でお百姓さんにでもなろうと思っていた。

     郷里へ帰って1週間ほどしてから、友人の川合君が、私もともに合格したという知らせを持って来てくれた。とにかく、数ある試験科目の中で一つでも出来の悪いのがあれば、合格するはずはなかった。私も合格が本当なのかどうか疑いを持ったが、川合君に聞いてみると、たしかに合格者に入っているから一緒に行こうということであった。そこで私は、海軍兵学校へ入る希望を捨てて、大阪高工機械科に入る決心をした。

     この大阪高工入学には、実は裏話がある。私は後年山梨高工(いまの山梨大学工学部)に精密機械の講座が出来て講師を依嘱され、2年ほど講座を持ったことがあった。この山梨高工の校長は私が大阪高工入試の時の英語書取りの先生であって、松田清次郎という人であった。そこで入試の時の私の答案についてたずねたところ、私の丸の書きっぷりが大胆で気に入ったから、50点をつけたということであった。昔はそういう大ざっぱな所があり、総体的に社会ものんびりしていたのであろう。そういうことで、ふつうなら落ちるところを幸運にも入学することができた。

  • 下宿を転々

     私は大阪高工に入学できたものの、ふたたび学資になやまされた。私の1ヵ月の生活費は極端に切りつめられ、月12円50銭で下宿の支払と日用品を買わなければならなかった。当時は、いまから見れば嘘のように物価が安く、下宿料は月10円を払えば上等の待遇をしてもらえたが、それでも月12円50銭の送金では十分ではなかった。

     父も5人兄弟をそれぞれ十分に育てなければならなかっただろうから、その苦労のほども察しられるが、ここでも私は、郷里を出る時父からもらったインバネスを羽織り、下は羽織、袴で、中味をかくすようにして大阪に出て来た。そして6円で買ったセルの制服を大切に着て高工の3年間をすごした。

     私の大阪の下宿は、お糸さんの紹介でなじみとなった三笠館であった。しかしそこは環境が悪い上に、女主人が経営しており、この人が私を大変可愛がってくれた。しかし私にとっては、何か気味が悪かったので半年くらいで引き揚げた。

     そして二度目に移った先が、娘2人が芸者をやっていて、そのかせぎで親子が暮らしているような家の玄関わきの三畳であった。同宿の人に大阪高工の先輩がいたが、この人をまじえて毎夜のように遅くまで花札をやっているのが聞えて来た。人がその家をたずねてくれば、私が顔を出さなければならず、なぜ私がそうまでしなければならないのか、つくづく情けなく思った。そういう環境であったので、私も間もなくその下宿を出て、学生だけでつくっているキリスト教青年会の寄宿舎に入った。

    キリスト教にふれる

     ここは、キリスト教を志す人たちが集まって寄宿舎を作り、その経営一切を学生の自治制で行なっていた。そのために生活費が安くてすみ、私も大いに助かった。

    キリスト教青年会宿舎の人たち
    キリスト教青年会宿舎の人たち:後列中央筆者、前列左端が八田志津馬君(日刊工業新聞創立者)、右端が鈴川巖君(中国塗料創立者)、中列左端高木益弥君(元久保田鉄工所副社長)

     ここに入っているうちに、私はだんだんキリスト教についての知識を持つようになり、当時の大阪で有名な宮川経輝氏が、私に熱心に洗礼をうけるようにすすめてくれた。私は元来が無宗教で、特定の宗教を信仰する気はなかった。

     私は宮川牧師に「石をパンにして見せてもらえば、いつでも洗礼をうける」と言いつづけた。しかし、キリスト教の寄宿舎に入っている関係もあり、周囲の人々がいずれも信仰に熱心であり、日曜ごとに数会へ通っているのを見ているうちに、宮川氏から「洗礼はキリスト教研究の入門式だ」と言われて、洗礼だけうけた。しかしこのことが、それからの私が、曲がった道を歩かなかった一つの支えにもなったので、私は宮川牧師に厚く感謝している。

  • 当時の学生気質

     この辺で、当時の学生気質にふれてみよう。学生は二派に分けられた。一派はほとんどまじめに講談を聞かない。もう一派はまじめな勉強家ぞろい。もちろんその中間派もあるが大体勉強するしないによって分類できた。

     前者は一般に要領がよく、就職先もいい所で順風に帆を上げてドンドン出世するが、中年後にある程度の所でつまずいてしまって、あまりいい生活はしていない。後者は学校を卒業したあと進度は遅いが、最後まで進歩があって、運不運、健康不健康という要素はあるにせよ、比較的いい環境にある。

     当時の大阪高工は北区玉江町にあった。校舎の間に公道があって、時間の変わり目などは、これを横切って別の校舎へ行くようになっていた。雨の日など1人が傘をさして、うしろから2〜3人くっついて行く。その時にまじめでない者は門番の目をごまかして近くの寺西というアンパンを売っている生徒のたまり場へ逃げて行って、アンパンをかじったり将棋をさしたりして遊んでいた。

     また製図の時間などは、先生もそれほどまわって来ないので、熱心にやるグループと分業でやるグループとがあった。しかし実習には一同熱心であった。実習の指導員は英国人であったが、私たちはあまり英語ができなかったその一例として、数年前昔の本を整理していた時にその当時の本が出て来たのを見ると、コネクティング・ロッドというのを、わざわざコンネ・ロッドと仮名で書いたのを発見した。こんなおかしなことを、当時はやっていた。

     私は比較的まじめに勉強もし、実習もやっていた。ことに鋳物は得意で、先輩の小川という人から木型を借りてエンジンを作ったことがある。そのころの体操は大体柔道、剣道が主で、雨が降れば腕押しするくらいが関の山で、私はこの腕押しと柔道は人にすぐれて強かった。

     しかし高工に入って一番困ったことは、河合清次郎という先生の力学の講義が非常にむずかしかったことで、毎年合格しない学生がたくさん出た。この授業には機械、造船、舶用機関の三つの科が合作して、約150人が一度に講義をうけた。入学して3ヵ月後に第1回の試験があって、私はこれを一生懸命に勉強してようやく合格した。この試験で及第したものは150人のうち7人で、私は幸いにその7人の中に入ることができたが、入学早々にぶつかった試練として私には思い出深いものである。

     当時の大阪高工は「黒門健児」と称して、大阪医大、大阪高商との3校対坑のテニスや相撲の応援に力を入れ、またボート・レースは年中行事として玉江橋の下をにぎわした。

     クラスの中でも年少であった私は、自分では賢いつもりでも、ちょうど生意気盛りであり、また幾分得意の時代でもあったので、私より年上の同級生の眼からは、ずいぶん子供にみえたことと思う。しかも、県人会で先輩が芸者にたわむれたというので、彼をなぐったほど蛮骨隆々、言行率直にすぎて何らの艶なく、しかも向かうところ自説に動かざれば面白からずという元気かつ無謀の時代であった。

    私の同級生

     私の同級生には、かなりすぐれた人たちがいたように思う。八田志津馬君は、のちに日刊工業新聞社を作って、日本工業の発展に寄与したが、在学中はどちらかと言うと軟派に属していた。また堤和夫君は、若くして大倉商事の有力者になって、戦時中は昭和飛行機や箱根登山鉄道の専務をしていたが、早くから職をしりぞいて田舎に隠棲している。福元稔君は、かつて日立製作所の常務取締役として技術面で活躍し、いまはトキコの会長から相談役になっている。

     私が入ったYMCAの寮は、15~6人が民家を借りて自炊していた。寮生はいずれも優秀な学生ばかりで規則もなかなかやかましかった。私の先輩、仲間には三菱電機の社長をしていた本間亀吉君だとか、慶応義塾大学の教授をしていた島原逸三君だとかがいた。私の同級生には、のちに大隈鉄工の顧問となった並河恒雄君、久保田鉄工の副社長であった高木益弥君、さきに紹介した八田志津馬君、こういう人たちと一緒に起居していた。

     しかしこの寮も、私が高工3年の夏に呉海軍工廠へ実習に行っている間に、大阪北区の大火で全続してしまった。その時に私の留学中の荷物を、一級下の山本次君が神戸からわざわざ出て来て出してくれたので助かった。山本君は現存しているが、いまも感謝の念にたえない。

  • 海軍造兵生徒に合格

     大阪高工在学中も、相変わらず学資が不足であったことは前にも書いたが、そんな私によかったことには、明治41年にはじめて海軍造兵生徒の募集があった。

     これは、将来海軍の造兵部門で活躍することを条件として1日46銭を支給してくれる制度であった。私はこの募集に応じた。何よりも1日46銭の支給をうけられることが魅力であった。幸いにも選考には合格した。

     この時に選考にあたった教務係が体操の先生で、私が柔道や腕押しが強かったことが、この先生の印象を良くし、ひいては選考にも有利であったのではないかとも思っている。このようなことで、私の将来の道は自然と海軍につながってしまった。海軍兵学校や機関学校には入れなかったが、そのころもまだ私の心の奥底に、海軍に入りたい気持は強かったものと思われる。

     明治41年といえば、日本が日露戦争に快勝を収め、これから世界の強国にのし上がろうとする時であり、日本海海戦で日本を救った時の総司令官東郷平八郎元帥は、日本の英雄、いや世界の英雄となっていたのだから、まだハイティーンであった私にも、海軍へのあこがれは異常に強かった。

    実習で脚気にかかる

     海軍造兵生徒に合格し、1日46銭の支給をうけるようになってからの私の日常生活には多少のゆとりが出て来た。私が実習に行っていた呉の海軍工廠では約60日くらいいた。それを終えてから八幡製鉄に行き、さらに三井三池鉱山にも石炭掘りに行った。

     八幡製鉄所の日給は1日46銭であり、三池鉱山では50銭か55銭くれた。その当時三池鉱山で体験したことを書くと、堅坑を降りて横坑に入り、カンテラを下げて掘って行った。坑の高さが低いので、這って奥へ入って行くのであった。背中にパイスケを背負い、右手にツルハシをにぎって石炭を掘り、掘った石炭をパイスケに放り込むという有様で、坑を出る時はそのままあとずさりする状態であった。

    高工3年頃の筆者
    高工3年頃の筆者

     坑では男も女もパンツーつ、腰巻一つであって、私の19歳ころの経験であったが、この時の無理がたたって、私は脚気にかかってしまった。三池鉱山へ来たころから体力負けして気分がすぐれなくなり、それがひどくなって来たので、私は急に郷里へ帰りたくなった。大牟田から石薬師まで長い間汽車にゆられてやっとの思いで帰って来た。この時ほど体力的に苦しい思いをしたことはない。

     郷里で医者にみてもらうと脚気と診断され、2ヵ月ほど家で静養していたが、ある日祖母のすすめで灸をすえたら急によくなった。これは私の若さがもたらしたものか、あるいは灸の力によるものかわからないが、汽車の中で飯も食わず水も飲まずにすごした経験は、何か遠いボンヤリした記憶のような気がしてならない。

  • いよいよ海軍へ

     私は幸か不幸か軍隊生活の経験は一度もなかった。当時は成人になると必ず徴兵検査があり、一定期間入隊するならわしであった。私はふつうの人より若くして学校へ進んだために、徴兵検査は高工卒業間際であった。徴兵検査の結果私は甲種合格であったが、卒業後は海軍に入ることが決まっていたので、検査官は丙種にしてくれた。

     こうして卒業が近づいて来たが、その前に私は、校長や教授の方々から、南満州鉄道、東洋紡績、大阪瓦斯などの当時の優良会社へ就職口を推薦された。

     しかし私は「海軍から造兵生徒として学質をもらっているから海軍に入ります」と言って、他に心を動かされることなく、きわめてスムーズに、また平凡に海軍へ入ることになった。そして卒業後、海軍からの赴任命令を待つために郷里の家へ帰っていた。明治43年7月のことであった。

     大阪高工の卒業証書をもらって郷里へ帰った私は、のんきな毎日を送っていたが、父はもう子供はひとかどのえらい人物になったように思って、きわめて満足の様子であった。それもそのはずで、海軍を志願する時に、卒業後は7級俸の判任官に採用するという約束であった。

     7級俸といえば、私が海軍を志願した時には月30円であったが、途中で俸給令の改正があって40円となった。当時40円の月給取りというものは、村中はもちろん近村にもいなかった。駐在の巡査が月17円、小学校の校長が25円で、郡長さんがやっと55円か60円くらいであった。

     だから自分の子供が、まだ20歳になったばかりと言うのに、この高給を取ろうというのだから、父の鼻の高いことはおして知るべしであった。一方の私はきわめてのんきなもので、久しぶりの故郷がめずらしくもあり、就職先も決まったので、父の自慢をよそに、毎日近所の子供たちをしたがえては魚釣りに行っているという状態であった。

  • 座談会の様子
    左から山本次、土井季太郎、小林嘉四郎、福元稔、高岡市太郎、永松秀夫の諸氏

    〈座談会〉 3

    大阪高工時代の友人との回顧談
    とき
    昭和37年3月8日
    出席者
    (五十音順)
    小林嘉四郎(丸善鉄工所相談役)
    高岡市太郎(長谷川歯車鉄工所顧問)
    土井季太郎(元南方開発糖業組合理事)
    永松秀夫(元八幡製鉄所技師)
    福元稔(元東京機器工業社長・現相談役)
    山本次(社団法人日本電線工業会)

    天野 YMCAの寄宿舎があったろう。あのころ高岡君に朝早く起されて教会へつれて行かれてね。あの時はうらみに思っていたが(笑)。宮川牧師から洗礼をうけろと言われて、「石がパンになったら受けます」といま考えればバカなことを言った(笑)。しかし宮川さんは、洗礼はキリスト教の入門式だと言うので、いつやめるかわからんけれどもということで洗礼はうけた。

    小林 寒げい古で朝早く暗いうちから学校へ行ってね。

    山本 めざまし時計を1時間早くして、わざと早く起こされたりしてね(笑)。

    天野 大阪の大火があったろう。あの時君らどうした。

    小林 みんな帰郷していたよ。

    天野 僕は呉に実習に行っていたが、山本君が僕の荷物を出してくれてね、本当に感謝しているんだ。わざわざ神戸から出て来てくれてね。

    山本 ちょうど大阪の北に叔父がいて、それでたまたま寄宿舎へ行って出したんですよ。

    天野 山本君、いくつになった。

    山本 トラの72。

    天野 じゃ僕の方がやさしいトラだ(笑)。

    永松 本当にトラらしいね(笑)。

    福元 天野君は若かったよ、最短距離を行っているから。

    天野 それで僕はキリスト数も、ある所まで行ってから引き返したが、もしその修養がなかったら僕なんかどうなっているかわからんよ。よかったよ、学生時代に入っていて。

    永松 いくらか説教が残っておったんだな。

    天野 YMCAの寮に入ったのは高木益弥も一緒だったかな。入る時に試験をうけた。

    小林 しかし、あれは自治制でやって、自分たちで献立をこしらえて、それで寮費を集めた。

    天野 スキ焼のごちそうがあると思ったら、おしまいには菜ッぱばかり食わされて(笑)。

    小林 会計の金なくなってね(笑)。

    高岡 成績のいいのを会員にしようというのは島原君の意見だった。

    天野 ああそうか、僕は海軍の委託生になるよりも、あの時の方が苦労だった。

    高岡 僕も海軍の委託生を受けようかと兄に相談したんですよ。その代わり10年間海軍に勤務する義務があるけどと言ってやったら、そんなものはやらんでいいという話で、それで僕は受けなかった。しかしまあ入った方がトクだったね。

    土井 待遇は良かったの。

    高岡 委託生には銭くれた。15円あれば1ヵ月楽にやって行けたんだから。

    山本 海軍へ入るにも委託生の方が給料は良かったんですか。

    高岡 いやそういうことはなかった。造兵と、造機・造船とがウンと差があったんですよ。われわれは採用されると日給1円でね。

    小林 それならまだいいよ。オレは88銭だった。

  • 天野 それは、造船と造機とは工員資格なんだな。造兵はすぐ判任官に任命された。

    高岡 造兵の人はすぐ学校から任官してね、任官旅費までもらって行きよった。

    永松 海軍はよかったね。早々と外国に出張させてね、ほかの会社なんかに行っているよりよほど面白かったんじゃないかな。

    高岡 外国には一通りはまあ。

    山本 あの時で月給35円は高いでしょう。

    天野 ウン悪くなかった。だけどあの時僕が問いたださなかったら、職工で35円にならなかった。

    高岡 まあ僕は、大学3年入っても職工する資格で入ったから不平も何もなし。その代わり、わがままばかり言っていた(笑)。

    天野 君はずいぶん文句言ったんだね。

    高岡 いや、それほどでもなかったが。

    永松 天野君だけだよ文句言ったのは(笑)。高岡君なんかずっと海軍でやった模範生だよ。

    福元 天野はムホン生か(笑)。

    天野 だけど高岡君はいいよ、話し方が穏便だろう。

    永松 おとなしいからね。

    天野 それから人相もいいんだ。僕はもう話し方が実にね(笑)。単刀直入で。

    永松 君のは単刀直入でも、なかなか愛数がある。

    天野 いやいまごろ愛敬ができたんだ。若い時はとてもね(笑)。

    永松 天野は、それは好感を持たれる理刀直入だね。

    天野 しかし、お互いに学校時代勉強したかね。

    土井 いや、しなかった。全然しなかったね(笑)。

    天野 先生もいろいろな人がいたね。学生では設計の方は福元君が熱心で、一番うまかった。僕は図面引くのを斎藤と桜井と3人で請負ったりして(笑)。それから寺西というアンパン屋があったろう。あすこからパンを買って来て、アミダを引いて、将棋を指したりしていた(笑)。永松君もやったじゃないか。

    永松 そんなことあったっけな。

    天野 あれでよく通ったね。自分は機械科を卒業しましたと言って、待遇が悪いとかなんとかよく言えたもんだ(笑)。

    永松 でもそれがタネになって、今日の大をなしたんだから、そうも言えない。

    天野 あれ、誤解してくれるなよ。僕が24〜5歳から研究したことが今日の基礎となっているんだ。

    永松 そうか。しかしその基礎をなしているのが高工だろう。

    天野 僕はね、前の年に大学生で実習に来て教えてやった人が、海軍に入ると高等官になる。そして机も向こうの方が大きくて、ついたて越しに「天野君」なんて呼ぶんだ。これがシャクにさわってね、それから僕は研究し出したんだ。だから学校は19でストップした。それから数年おいてまたスタートをはじめた。そして実力がついて自信が出来たら、もうシャクにもさわらなくなった。そして高等官は10時すぎにくればいいんだからと言って、実権をみんな手に収めちゃった。

    永松 海軍でもそんなことはさせなかったろう。

    福元 海軍は陸軍とくらべると、下部の意見は良いものならドンドン採用した。そういう良さがあった。天野君は海軍に何年いた。

    天野 14年半。それでもあと半年は休職にしてくれて、辛うじて恩給がついた。

    永松 海軍を辞めてからどうしたの。

    天野 名古屋の浅野ベニアという会社に入った。

    永松 ベニア、それはまた変な所へ入ったな。ああ、プロペラの関係で。

    天野 それから苦労したんだよ。その話をしたら、君らのように順調に出世した者とずいぶん違うぞ。

    福元 それで今日をなしたんだから月謝だ。

    永松 苦労したんだね、えらいもんだ。

    天野 それから山を買ったり、いろんなことをしたね。

    永松 それが今日あるんだ。

    福元 その苦労がよかった。

    永松 そうだ、そういう苦労がなければなかなか。

    天野 これが高工時代の僕の成績表だよ。

    福元 へェそんなのがいまもあるのかい。

    高岡 僕も請求してみようかな。

    天野 体操がいいんだ。腕相撲をよくやったろう。腕相撲じゃ提和夫と僕が一番強かった。

    山本 よくやったな腕相撲は。

    福元 体操はずっと「甲」だね。

    永松 甲乙制だったかね、点数じゃあなかったんだね。

    天野 あれだけ怠けても、それだけ点数がいいんだから、自分ながら僕はよほど頭がいいんだと(笑)。

    永松 うんそれはいい。本当に。それだから苦労のし甲斐があったんだ。

  • 第3章 社会人1年生

    最初の報酬・最初の仕事

     明治43年7月の中ごろのことと思うが、石薬師の家にいると、海軍から電報で「工手を命ず横須賀工廠に赴任すべし」という通知が来た。私は呉工廠に実習に行っていた時に、工手とは職工の一番上の身分であることを知っていたので、これでははじめの約束と違うと思った。

     海軍造兵生徒になった時の募集要綱によれば、卒業後は海軍技手に任用し、成績がいい者は海軍技師に登用する、さらにまた海外に出張せしむることがある。給料は7級俸(30円)ということであった。私は海軍省へ「エ手とはいかなる職務なるや」と電報を打ち返した。折返し海軍省から、工手は職工の一番上位の職務であるという通知が来たので、私は約束が違うから赴任しないと返事した。

     すると間もなく、海軍から「技手に任用し35円を支給する」との電報が来た。私が造兵生徒に採用されてから、物価騰貴のために、一般に官吏の給与が改正され、7級俸は40円となった。35円ではまだ5円の違いがあった。しかし給料のことで云々するのはまずいと思って、早速赴任して海軍機須賀工廠造兵部勤務の海軍技手となった。これが私の最初の報酬である。

     さて横須賀工廠に赴任してみると、私たちより以前には、海軍造兵生徒として海軍に入ったのは東京高等工業だけであったが、この年から大阪、名古屋、仙台、熊本の高工からも、造兵生徒の待遇をうけた者が入って来た。

     そのころ、東京と大阪の高工は7月卒業でほかの高工の卒業は3月であった。そんな関係から、私などは名古屋、仙台、熊本などの高工卒業者をとくらべると、7月末の赴任であるから、4ヵ月の遅れがあった。しかし私たちのグループの序列は、東京高工の卒業者を1番にし、大阪高工出の私が2番、さらに3番東京、4番大阪とし、それからほかの高工の卒業者がつづいた。海軍の当局者も、なかなか考えたとみえて、その序列には細かな注意を払っていた。

     この序列ということは、私たちにかぎらず非常な間題となったところで、一つの席が1番でも違うと、食堂の席まで違った。その上ほかの学校の卒業者は、私より5円少ない30円の月給で入っており、中には日給で入っている者さえいた。私が同じ年度の卒業生で、しかもあとから入っていながら、席順が上というおかしなことになった。

     私が着任早々命ぜられた仕事は、日露戦争でロシアから分捕った軍艦の兵器の改装であった。当時日本海軍の軍艦はすべて英国式であったため、異式のロシア型では使い難い、これを英国式に改める必要があった。そこで工場長の塚本少佐から6インチの揚弾機の改装設計を命ぜられた。

     モーターの動力は約1馬力と計算したが、私は3馬力のモーターを使用する設計をして提出した。ところが工場長から、この馬力は大きすぎるというお叱言をいただいた。

     私は計算上は1馬力で十分と思うが、使用しているうちに、ホコり、油等で加重が多くなり、またいざ戦争という時には、速度を極端に高める必要がある。そのために十二分の余力を動力に持たせておかなければならないと反論し、この工場長から着任早々生意気者としてみられた。

    不平の先頭に

     また私が海軍に入る前に、待遇のことで文句を言ったことが、だんだんに知れ渡ってしまった。海軍に入ってからも、高工卒業者は7年も8年も勤務しなければ高等官になれないのに、大学卒業者はすぐに高等官になれるのは、あまりに差が大きすぎると、不平を申しのべたこともあった。

     このために私は、それならば大学卒業者に負けない力をつけてやろうと思い、彼らが習得した教科書を取り寄せて勉強にはげんだ。そのころを艦船の修繕の仕事をしていた関係上沖合に停泊している艦船に行くには和船で通った。その間長い時間がかかったので、その往復の時間を利用しては勉強した。

     私は横須賀工廠という比較的中央にいたし、入る前に当局に文句を言ったというので、同僚の不平の先頭にしょっちゅう立たされた。のちに、私がアメリカ出張を命ぜられて、海軍艦政本部にあいさつに行ったことがあった。その当時の本部長は、横須賀工廠に着任の時、造兵部長であった種田右八郎という鹿児島出身の有名な造兵中将であったが、この人が技手の私に「このごろ君は不平を言わんかね」などと言われ、赤面したことがあった。私が不平を言うことは、海軍では有名であったらしい。

     しかし私は、筋道の通らないことや蔭でブツブツ言うことは少しもしなかった。また意見は意見として、仕事は私の精いっぱいしたつもりである。この辺は、上官も認めていたように思う。

  • 将来の希望
    海軍に入って1年目のころ
    海軍に入って1年目のころ:右は高工で同級だった池村君

    私はこの時代、田浦の石渡という家の8畳二間に雲野、吉山、熊谷、弓削、中沢の諸君とともに下宿していた。いずれも20歳から24~5歳の若い連中ばかりで、ビール1本飲むと6人とも酔っぱらってしまうといった状態で、毎晩勝手なことを言い合ってはメートルを上げていた。

     時には、海軍に入って一体何になるんだという話にまでおよび、「僕は技師になるんだ」とか「洋行を楽しみにしている」という人が多い中で、私は「100万円もうけて1円札にかえ、銀座4丁目の四ッ角でまいて、みんなに拾わせるんだ」という馬鹿なことを言ったことがある。

     私は、はじめの横須賀時代には不平も言い、また方々からいじめられもしたが、その間私の学生時代の放漫な頭は、きわめて精密になったと思っている。上官の注意も、私を完成すべく仕込もうとしたわざとのことだと、いまになってわかった。

    祖母の死

     海軍へ入って2年目になったころ、郷里から祖母の容体がどうも思わしくないという知らせがあった。私は祖母のことを思うと、仕事も手につかない有様なので、とくに休暇をもらって看病のために帰郷した。

     私が祖母の病床のそばに坐ると「心配させるからいけない」と言って、知らせることをこばんでいた私が来たので、祖母はびっくりしていたが、また大変によろこんでくれた。祖母は「もうこれが死病であるが、せめてお前が嫁をもらってから死にたいが」と言ってなげいた。そして私に抱いてくれと言った。

     私は祖母の体を一晩中膝の上に抱いたが、その時の祖母が意外に軽かったのに内心おどろいた。その感触を、いまも私は忘れない。

     私は3日間家にいて、祖母を抱いたりさすったり、そばに寝たりしたが、4日目に祖母は私に「修一は勤めがあるから横須賀へ帰るように」と言った。虫の知らせか、私は十分な看病をしないままに帰るのが心残りで仕様がなく、もっといたいと言ったが、祖母はきびしく私のこの願いをはねつけた。

     そこで私は、祖母には帰ると言っておきながら、顔を見せずに12~3間離れた座敷にいた。すると祖母は「まだ修一がこの家にいる。帰るように言っておくれ」と父に言うので、私もやむなく田浦へ帰った。

     私が田浦に帰って7日目の朝、何か胸の中の大切な物が取られたように感じた。その日夕刻祖母の死を知らせた電報が届いた。私は取るものも取りあえず郷里に帰った。郷里で私は、胸中の大切なものが空中に去ったと感じたのと同じ時刻に、祖母が息を引き取ったことを知った。私はこの時の経験から「霊感」というものがあることを身をもって肯定することができる。

  • ふたたび祖母の思い出

     祖母は私が22歳の時に76歳で他界した。この祖母の死は、私に非常なショックを与えた。祖母を思うたびに、私は人の命のはかなさを感ずるとともに、もし生命が永遠のものであればと思うことが多い。

     あまりゆたかでない田舎暮らしでは、77歳の喜の字の祝も、満足にはできなかったと思うが、せめてそのお祝の形だけでもできたらと思うと残念でならない。私はいまでも時々祖母のことを思うと涙が出る。

     私が津や大阪に在学中や卒業後、横須賀からささやかな贈りものをすると、心から喜んでくれた。けだし祖母は、私の生涯を通じての「恋人」であろう。それほど私は、祖母の感化をうけ、思慕の気持が大きいのである。長女が生まれた時私は祖母のような女性になることを望んで、祖母の名「こたき」から取って「多喜子」と名づけた。いまは長女も、幸福な家庭生活をいとなんでおり、祖母のような女性になりつつあることは、私の大きな喜びであることをつけ加えたい。

    弟と伊豆へ血気旅行

     20時前後の血気さかんな私には、いまになって考えてみると、まことにお恥しいような話がある。私は生来、涙もろい所があるわりに強情なところがあって、しばしば失敗も演じている。

     私より3歳下に郷三という弟がいる。私がまだ海軍に入って間もないころ、当時陸軍士官学校の生徒であったが、私の所へ遊びに来た。私もちょうど冬休みだったので、伊豆半島へ行こうと話が決まった。

     その当時は、東海道線はいまの御殿場線を通っていて、熱海へ行くには、小田原まで汽車で行き、それから軽便鉄道を利用しなければならなかった。その軽便鉄道の切符を、いまでいうダフ屋が買い占めてしまって、一般の人はふつうの値段で切符を買うことができなかった。といっても、交通機関はこの軽便鉄道1本しかなかったので、大変皆が困っていた。

     それを見て弟が、窓口の所で頑張ってダフ屋に買わせず、みんなふつうの値段で切符を買ってもらったという一件があった。当然ダフ屋の方も黙っておらず、いろいろすごんでみせたが、私や弟の剣幕におどろいて、そのまま引き下がってしまった。

     こうして熱海に着き、「樋口」という当時1流の旅館に泊まったあと、歩いて修善寺へ行き、「きくや」というやはり1流旅館に泊まった。若い2人であったが、どうせ泊まるなら1流旅館をというわけで、その土地でも有数の旅館を泊まり歩いた。

     修善寺の旅館では、弟と2人で酒を飲んで大いにメートルを上げた。なにしろ20歳前後の若さで、旅の解放感も手伝って、酒に飲まれたような恰好になってしまった。

     旅館からは、隣りに機須賀鎮守府長官瓜生外吉さんが、家族とともに来ているから静かにしてくれと言われたが、2人とも若かったから、そう言われると余計にさわぐというお恥かしいようなことがあった。

     修善寺からは、天城山を越えて下田へ出て、船で沼津に帰り、汽車で横須賀へ帰って来た。この時の旅は、私にとってはじめての旅らしい旅で、伊豆半島の温泉と明るい風物が、とてもめずらしく目に映ったことが、かすかながら記憶に残っている。

     また田浦に下宿していた時に、同宿の雲野君と三浦半島に夜間徒歩旅行を試みようと話し合い、横須賀から逗子、葉山、長井を通って三崎まで行ったことがある。田浦を夕食後出発したので、三崎へ着いた時にはもう夜中になっていて、宿屋が1軒も開いていなかった。通りがかりの人に、宿屋はないかと聞くと、トンネルを越した向うに泊まる所があるというので行ってみると、そこが何と女郎屋であった。びっくりしてふたたびもとの所へ引き返し、その夜は近くのお宮で仮寝し、翌日城ヶ島をへて帰った。

  • 三富寅吉工手

     その当時、この横須賀工廠の造兵部に、三富寅吉という職工の大将がいた。この人は、なかなか意志の強固な人なので、ここに一言したいと思う。

     三富さんは、給料を貯めておいて相当の顔になると、持金の2倍の土地を買って半分は借金にしておき、毎月の給料で月賦にして返済して行った。そして金がまた貯まると次の山を買って行くというやり方で、田浦から追浜へかけての山をほとんど買い占めた。

     それで三富谷戸と言われるくらいになり、そこへ貸家を作っては部下を格安に入れ、休みの日には彼らをつれて山林を開墾して、部下に勤倹力行を説いた面白い人で、仕事も合理的にやり、よくできる人であった。

     この三富さんとの仲が、どうもうまく行かなかったので、仕事の面で私は、ずいぶんつらい思いもした。というのは、一緒に下宿している6人のうち、雲野、中沢両君が判任官であったが、一年志願兵に取られ、また吉山、熊谷、弓削の三君は私より下位の工手であった。そして三富さんもエ手であった。

     それというのは、私が彼らと同年の卒業生で、しかもあとから入って来たのに技手に任用されたので、自然と私には同情が集まらなかった。工場長の塚本造兵少佐は、東大を出たが要領のいい人で、仕事のできる職工をうまく使わなければ、自分のやることはうまく行かないという主義で、三富さんをはじめ工場全体が、私を目の敵にするようになった。

     私も強情だから、それならこちらもひとつ大いに頑張ろうというわけで、夜は残業して図面を見る稽古をしたり、自分で機械を使ってみたり、あるいは仕上げの練習などをした。その当時の勤務時間はいまと違い、朝は6時にはじまり、夕方は6時までの12時間動務で、その上にさらに4時間の残業があった。

     文字通り、朝に星をいただいて下宿を出、夜また星をいただいて帰り、食事をすませるとすぐ眠るという生活であった。当時は軍備拡張時代で、日本の海軍は、後進国から世界の1等国にのし上がろうとする時にも当たっていたので、下宿へ帰るのは、夜10時ごろになることもまれではなかった。工廠の中にも毎日活気がみなぎり、若かった私も、大いに仕事に精を出し、時には工場の中で、職工と一緒にアンペラを床に敷いただけで寝たこともあった。

     私がたずさわっていた仕事は、主として軍艦にすえつける大砲の製造であった。仕事が忙しいと、買って来たパンをかじって夜食の代わりにすることもしばしばあった。

    好敵手石川半七技手

     こういう所へ、石川半七君が兵隊から帰って来た。石川君は、私より1年前に東京高工を出た人で、付近の有力者の出でもあり、なかなかのやり手で、職工の間に人望があった。私のライバルがいよいよ現われたというわけであった。

     石川君も結局三富さんの方へついてしまって、天野の勢力は私1人という孤立した有様であった。私もこの時には、誰にも負けないと、負けじ魂を発揮して、ずいぶんの努力をした。

     しかしながら、私をはじめその当時の人々は、感情的な対立はなく、純粋な仕事の上での競争意識であった。仕事の結果いかんが、すべてを決した。三富さんとか石川君らは、その人たちでお互いに研究し合い、私は私なりに、組長とかさらにその下の人たちを相手にして仕事に取り組むというわけで、個人の攻撃をするとか、個人的に意地悪をするということはやらなかった。

    石川半七君
    石川半七君

     その当時は非常に明朗な競争であったわけで、それがもし現在こういうことがあったら、個人的に裏にまわって悪評を加えるとか、人物攻撃をすることになると思うが、昔の人はその点非常に率直で純粋であったように思う。この時の快い競争の思い出がなつかしく、私の若かったころの非常なはげみとなり、このために物事を確かに見きわめる習慣を身につけることができたのを否定できない。それが私の一生を通じてどれほどの得を私にもたらしたかと思うと、つくづく感謝している。

     私と仕事の上でシノギをけずった石川半七君も、もう中風にかかって8年になるが、ときどき見舞に行っている。昔のライバルであるだけに、私は非常になつかしく感じている。

  • 22歳で分工場長に

     それから間もなく、横須賀港につながれていたロシアの分捕艦コレーツ(丹後)、ワリヤーグ(相模)の修繕に参加したり、「河内」の進水式にも参加したりした。この「河内」は、いまからみれば旧式な戦艦であるが、当時としては世界的にもすぐれた戦艦であって、しかもわが国の造船技術の枠を集め、技術の進歩を世界に誇示した晴れの戦艦でもあった。

    「河内」進水式の時の晴れ姿
    「河内」進水式の時の晴れ姿:右端が筆者、左から2人目が石川半七君

     この進水式は明治も終わりの44年、私が21歳の時で、明治天皇がお出でになった。この時私もシルクハットをかぶり、明治天皇のお付きのお茶くみをやった。これにしても、当時としては名誉なことで、このような晴れがましい進水式に参加できただけでも、大きな満足感を持ったものである。この時に遠目に明治天皇のお姿を見ることができた。それが、私の最初にして最後に見た明治天皇であり、それから1年ほどのちにお亡くなりになった。

     横須賀工廠は、その後軍備の拡張とともに次第に大規模となり、明治の終りから大正のはじめにかけては、造兵部だけで4,000人もの人員にふえていた。私が海軍に入った明治43年には、わずか250名であったから、わずかの間に20倍近くも人員がふえたことになり、造兵部の分工場を横須賀港内の小海という所に作ることになった。その分工場長に私が任命された。

     それは明治45年、私が22歳の時で、約400名ほどの工員をあずかることになった。ここでの最大の思い出は、私が設計、製作したガス焼入炉である。

    ガス焼入炉

     この小海の分工場は、兵器類を軍艦に装備する工場であったが、作業用工具類はもちろん兵器の部品でも、いまのように熱処現管理などという気の利いたものではなく、多くは木炭かコークスの中で焼いて、その火色を肉限で見て水や油の中にズバリと入れるという、きわめてお粗末な作業方法であったので、相当の熟練を必要としたものであった。

     たまたま私の友人で、ガス製造設備ではわが国のパイオニアの1人である米花伊太郎君が、そのころ横須賀市に創立された関東瓦斯株式会社でガス設備を担当していたが、一向にガスが売れなかった。

     私はこの話を聞いて、小海分工場では多量に焼入れ作業があるから、ガス炉を設備すれば燃料費の節約にもなり、またさほどの熟練もいらなくなるだろうと考えて、関東瓦斯が作っているガスを利用することを思いついた。

     その以前にも、東京瓦斯ほか2〜3の専門家を訪れたが、市内の燃料用に供給するだけであって、工業用には全然供給しておらず、また大学や図書館に行ってみても、この種の作業にガスを使っている資料を得ることができなかった。私は陸海軍各工廠はもちろん民間の大会社にもできるだけツテを求めて見学したが、すべて単炉方式で、それまでの方式と全然変わらなかった。

    分工場時代
    分工場時代:中央が米花伊太郎君 右端筆者

     私は、燃焼したガスが炉の周囲を暖めたあと外部に出る方法は、たしかにガスの節約となりまた炉の中の温度の平的化にも効果があると考えイギリスの書物からヒントを得て、高さ1メートル、幅、奥行1.5メートルの二重壁の炉を作り、内部で焼焼したガスは、壁と壁との間を通過して上部に逃れるように設計した。最初作った炉は、二つの壁の間隔が不足していたのとガス燃焼方法の未熟さで、燃焼試験の時に大きな亀裂を生じてしまったが、つづいて改造した第2回目の炉は、その後焼入れに大きな働きをした。

     小海分工場は、造船部と造機部の間にはさまれた小さな工場であったが、このガス炉は、その両方からしばしば使用を申し込まれたほどであった。それから12年後、私が海軍を辞める時に、昔恋しく小海工場を訪れた際にも、そのまま使われていたのを見て、この上もなくうれしく思った。

  • 23歳で月に1回訓話

     この小海分工場では、もう一つ忘れられない思い出がある。そのころ工員に対するヒューマン・リレーションズというか、月に2回訓話をすることになっていた。そのうちの1回は、給料日にお坊さんがやり、もう1回は工場長がやるというわけで、私が23歳のザンギリ頭で400人ほどの工員を集めては、もっともらしいことを言っていた。

     いまから考えるとおかしな話だが、40年輩の人がたくさんその中にいるのに、若僧の私がまじめくさって何か言う。すると前に並んでいたものが、何かの拍子でクスッと笑った。まあ笑うのが当然だったのだが、その時には癪にさわってなぜオレの言うことを笑ったか、いまオレが言ったことはオレが言うのではなく海軍大臣の代わりに言ったのだから、笑うなら明日からオレの説教は聞かなくてもいいと言った。

     ということは、その日の給料はやらないから承知しろということであった。それ以後、私の話では笑うものがいなくなった。

    長崎造船所へ赴任

     しかしながら、ライバルの石川半七君は上官の見込みもよくてドンドン出世したが、私は海軍省へ文句の代表でよく行くし、また仕事のできる三富寅吉などという人を向うにまわしてときどき喧嘩もしていたから、上の人からあまりよく思われず、だんだん取り残されて行った。

     折から、三菱重工の長崎造船所で「霧島」という巡洋戦艦を作ることになった。私は海軍の造兵部では、大砲をすえつけることにかけては指折りに数えられていたから、抜てきされたのか、あるいはあいつはうるさいからというので左遷されたのかわからないが、監督官助手として長崎へ赴任することを命ぜられた。それは大正2年12月のことであった。私は横須賀にはちょうど4年勤務したことになる。

  • 〈座談会〉 4

    横須賀工廠勤務のことの同僚と
    とき
    昭和37年1月18日(石川半七君病気見舞の席上で)
    出席者
    石川半七(元海軍技師)
    田中保郎(元海軍少将・横浜造船役員)
    佐波次郎(元海軍少将・松下電器勤務)
    白石顕ニ(元海軍技師・寺尾工場勤務)
    天野修一

    石川 天野君は海軍では私の一年あとだった。

    天野 石川君が兵隊に行ったあとでしたね。

    石川 初任給は30円か35円。

    天野 僕は入る時に文句言っちゃってね(笑)。それに20歳になるかならずでいばっているものだから、エ手の連中に反感を持たれちゃった。そのうちに石川君が帰って来た。石川君は土地の人で、子分があるんだ。

    田中 そうそう。石川君は福徳円満の上に地方の有力者だった。ずっと造兵部で子分がたくさんいた。

    天野 コンチクショウと思って、ずいぶん喧嘩もした。しかし私が海軍を辞めてから一介の商人として横須賀に行った時に、石川君が工務主任で「キミどこへ行く」と言う。横須賀に行くというと小蒸気を出してやると言うんですよ。私はあれには涙がこぼれた。それ以来仲良くなっちゃったんだ(笑)。そんないわれで、時々、年に1度か2度無事な顔を見て…。

    石川 イヤ先生はね、心の中ではそうではないんだが、ロのきき方がシャクにさわるんだ(笑)。僕だけじゃない、その当時の工場の人も、天野の言うことは憎まれ口で、オレいやになっちゃうと言うんだ。それでずいぶん損している。工場主任の塚本という人は、とくに天野君を嫌ってね、実際かわいそうだった。

    佐波 私が昭和元年に大学を卒業して海軍造兵部に入った時、石川君が工務主任だった。

    、の様子
    左石川半七氏・右白石健二氏

    石川 ちょうど10年やりましたよ。

    天野 中という人がいなかったか。

    石川 40年組にいた。

    天野 私は中とか塚本とかにいじめられたぞ。ロシアから分捕ったワリヤーグ、コレーツね。

    石川 あとの相模と丹後。

    天野 あの揚弾機の設計を命ぜられて、1馬力のモーターでもすむのに3馬力のモーターでやる案を持って行って、そもそもそれから喧嘩ですよ(笑)。

    田中 とにかく、あんたの若い時は大した開志があったらしいね(笑)。

    佐波 そうだったらしいな。

    白石 小海工場があったでしょう。

    石川 天野君が一番はじめの親方ですよ。

    白石 私もあそこへ行くところだった。

    天野 石川君は造兵部でいばっていて、私は小海へやられたわけなんです。石川君は頭もいいし、引きもいいんで、ドンドン出世した。君、イギリスへ行ったの早かったろう。

    石川 いや10年目だ。話は早かったが他にゆずって、行ったのは大正6年です。技師になったのも君と1年しか違わない。

    天野 それじゃ文句言った割にはよかったのかな(笑)。

    石川 君が技師になった時は、たまっちゃって、ここらあたりで何とかしなければというので、一ペんにしちゃってね、その他多勢組だよ(笑)。

    白石 私は天野さんの1年あと技手で35円で入ったんですよ。

    天野 そうするとボクの…(笑)。

    白石 恩恵をこうむったわけですよ。でも学校が蔵前高工じゃないから、異端者と言われたですよ。

    天野 佐波さんは航空廠の3Sとか言われていたのをおぼえていますが、心安くなったのは戦後ですね。

  • 佐波 そう、大阪で化粧品に関する講演の時、あんたが、ドイツの女はそんなに化粧しない。日本の女もそんなに化粧するなどと言っていたから、化粧品メーカーから、そんなことを言われては商売あがったりになる(笑)。あんたの見て来たのは工場の女ばかりだろうと反問されていた(笑)。

    天野 田中さんには戦争中ずいぶんお世話になりました。その頃に名張の工場の方へ見えられて…。

    田中 あの時に君の工場を視察に行った帰りに、ちょうど物がない頃で、駅前で甘い柿をしこたま買ってくれて非常に感激したことをおぼえている(笑)。

    白石 私は天野さんとは、パリで一緒だったですよ。

    天野 そう、あのロレーン社の発動機のことでね。

    座談会の様子
    左から佐波次郎氏・田中保郎氏・筆者

    佐波 天野さんという人は、内地ではもちろんだが、外国でも相当武勇伝をやったんだろう。庄司健吉なんかと。

    天野 やった。そもそも、アメリカからイギリスへ渡って1ヵ月ばかり工場などを見て来て、パリへ着いた時からですよ。なぜ真直ぐ来ないかというわけですよ。白石君は温厚の士でしょう。そこへ私が行ったものだから、余計いけない(笑)。私はね、プロペラの考案で勲四等をもらうことになったんですが、これがダメになったのも、どうやら庄司さんのおかげらしい。そのあとで愛知時計へ行かないかという話があり、私は海軍を辞めたんですよ。

    白石 何かプロペラの不良品を大分切ったとかいう話でしたよ。

    天野 私は、さっき話した石川君の小蒸気とそれから、民間人になってから海軍の入札に参加した時に、ボクは見せることはできないよと言いながら、入札カードを私の目の前でヒラヒラさせてくれた渡辺さんのことはいまでもおぼえていますし、頭が上がりませんね(笑)。

  • 座談会の様子
    左から広瀬広八氏、筆者
    よそながら50年

    広瀬広八

     私がはじめて天野さんにお目にかかったのは明治43年海軍の横須賀工廠であった。そのころ私は工廠の庶務係を勤めていて、新入者の履歴書を見ているうちに、私と同じ三重県の出である天野さんが、技手で赴任されていることを知った。当時、三重県の出身で箱根を東に越えて来たのはほとんどなく、私は牛・馬・下士卒・職工と言われた職工の身分であったので、技手である天野さんに直接話しかけることはできなかったが、とくになつかしく思った。

     その後間もなく、私は工廠の設計の方に職場を変えられたが、機械のことは何にも知らなかった。そこで、当時田浦の船越で開かれていた海軍の補習学校(夜間)に通うことになった。たまたまその学校は、高工を出た若手の人たちが教べんを取っていて、天野さんも機械の講座を持っていた。私は天野さんから、プリントに刷った教科書で機械について習うことになった。

     そのころの天野さんは、若手のパリパリで、講後にもはり切っておられたし、また仕事のことで、設計関係の技手とよく「オイ、これにオイル・グループがないじゃないか」と言って、設計上のことでいろいろ心配して、設計の事務所へ来られたことをおぼえている。あのころから、大変まじめな方でした。

     その講義も、そのころの私にはチンプンカンプンであったが、のちに私が東京計器へ移って国産第1号の探照灯を作った時に、もう一度勉強しようと思い、そのプリントを読んだが、そのころにはようやく理解できるようになった。私が東京計器に停年まで勤務できたのは、天野さんのお蔭だと感謝している。

     最近、私の古いメモを見ていると、こんな記事が出て来た。

     1932年(昭和7年)7月6日(水)晴れのち雨 今日午前中天野修一氏会社に来訪せられ、暫時面談ののち別れたり。

     私はその時何を話したかおぼえていないが、そのころ東京計器に山高五郎という造船界の名士がいたので、その人をたずねたついでに私の所へ来られたのかも知れない。天野さんとは、それまで身分が違っていたので話をする機会もなかったが、その時はじめて話をしたのであろう。天野さんは私のことをご存じないかも知れないが、私の方は、とにかく明治43年から天野さんを知っていた。

     その後、天野さんとはしばらくお会いする機会もなかったが、昭和24~5年ごろ、私は直接会わなかったけれども、感心させられたことがあった。私はそのころ東京品川の大都工業という会社でしばらくの間仕事を手伝っていた。ちょうどそこで、タイムレコーダーを1台買うことになって、天野さんの所のセールスマンがタイムレコーダーを背負って来た。

     夏の暑いころのことで「大変ですねえ」と言うと、その人は「私らは当然です。社長でもタイムレコーダーをかつぐのですから」と言ったので、みんなで感心してしまった。運送事情の悪いころのことだが、その人の一言の中に、お互いにやって行かなければならないという気魄が感じられて、天野さんの頭の中のどこかに、何かが流れていると感じた。

  • 第4章 三菱長崎造船所監督官助手として

    近代戦艦「霧島」の建造で長崎へ

     私が長崎へ監督官助手として勤務したのは、大正2年から大正4年にかけてのまる1ヵ年半であったが、このことは私の生涯を通じて非常にためになった。というのは、私は三菱の長崎造船所で菜っ葉服を着て仕事をしていたが、その間に、のちに三菱造船の社長になった玉井喬介君とか、三菱日本重工の社長であった秀島氏のお父さんなどとつき合うことができたからである。この人たちは立派なエンジニアで、私がこれらの人とつき合って、得るところが多かった。

     もともと、海軍では日本国内での監督官という制度がなかった。それが三菱造船所で軍艦を造るために、国内でもはじめての監督官が出来た。私はそのアシスタントとして赴任したわけで、この時に友人はみな祝福してくれたが、私は大してうれしいとも思わなかった。しかし、その当時長崎で造られた戦艦「霧島」は、「比叡」とともに日本海軍はじめての近代的戦艦であって、また日本の造船界がこの建造により世界的水準に達したことを証明したことになった。

    酒と煙草をおぼえる

     長崎という所は、若い者にとっては都合のよい所であった。物価も安く、人もまたよく、私などが料理屋に行っても、盆と暮の2回に集金するだけで、ふだんは金を取らなかった。とくに私は、よく三菱の重役連と行くものだから、なかなか信用があった。こういうことで長崎ではずいぶん酒を飲みに行き、はじめはビール1本すら飲めなかった私も、ここでは相当に腕を上げた。

     私はその時はまだ独身であり、年齢も24歳と面白い盛りで、その上に月々の給料のほかに、給料ほどの出張手当が余分にもらえた。それに下宿料も、8畳と6畳の2間を占領し、朝晩食事して1ヵ月13円であった。月給は50円もらっており、手当も55円ほどであったから、ふつうなら余ったはずであったが、酒の方にまわすために、その下宿料さえも払うのが惜しかった。そしてわずか1年半のうちに200~300円の借金を作ってしまった。

     監督官の中でも、独身者は私だけであったので、海軍の人が出張してくると、遊びのお相手は私がした。中佐とか大佐という上官が出張して来ても、みな私がお相手をして、料理屋や遊郭に案内したりした。その酒席の間に、認められない人をよく言うと、のちになって浮び上がる人が2~3あって、私としては方法の良し悪しはあっても、非常によいことをしたと思っている。

     長崎はとにかく遊ぶのに都合のよい街であった。丸山という遊郭があって、東京の吉原や京都の島原とならび称される日本でも指折りの場所であった。頼山陽とか伊藤博文、明治維新の志士たちが遊んだ跡のある有名な「花月」という料亭に、私は赴任早々に引っぱって行かれて、なかなか面白く遊んだ。

     その丸山の中に「鹿島屋」という料理屋があった。私は13円の下宿料を払うなら同じことだと思って、それまでの下宿屋を引き払い、この鹿島屋から監督官事務所へ通った。それも1〜2ヵ月であきてしまって、またもとの下宿へ帰ったが、いくら若い時のことではあっても、あまりかんばしい話ではない。

  • シーメンス事件

     私が、監督官助手として赴任するについて艦政本部に挨拶に行った。そのころ沢崎寛猛という大佐が艦政本部第1部長で、私は第1部の所属だったので、沢崎大佐に挨拶に行くと、同氏は、監督官という立場は会社の便宜をまず考えるべきであると訓示した。私はなんのことかわからずにお辞儀だけして退席した。

     長崎に赴任すると間もなく海軍関係者の汚職が発覚した。これが世にシーメンス事件としてさわがれたものである。これに前記の沢崎大佐や藤井中将が連座した。私はこれで、会社というものはかなり裏表があり、また軍人も表面はまじめなことを言うが、蔭では悪いことをするものだということを知った。

     このシーメンス事件では、海軍中将など数人や政界・財界の有力者が取り調べをうけたりして、とくに海軍部内に大きなショックを与えた。私はまだ24〜5歳の青年技手であって、いままで造船所ではご馳走してくれたが、それからはいやにケチケチするようになったなと感じた。

    重役の花婿候補に

     またそのころ、私は面白い経験をした。三菱のある重役が、私に遊びに来い、遊びに来いとよくさそってくれたので、一度その家に行ってみたところ、非常なご馳走が出てしかも妙齢の婦人が2人、満艦飾で入れ代わり立ち代わり接待に出て来た。

     するとしばらくして、彼が「姉でも妹でもどちらでもいいから結婚しないか」と持ちかけて来た。私もまずいことに、その前に問われるままに「別に親に相談しなくとも女房は勝手に選べる」と、酒の勢いにまかせて言ってしまっていた。そしていよいよ返事をしなければならなくなった時に「あんた自分で決められるならどっちでもいいでしょう」と彼に言われて、私も本当に参ってしまった。

     私は苦しまぎれに「姉でも味でもどちらでもいいというあなたの心境がおかしい。妹なら妹、姉なら姉というならわかるが、まるで西瓜か何かのように、どちらでもいいというあなたが第一気に入らない」と言って、とうとう断わってしまった。もしもその時に縁組していれば、私は三菱の人間になっていて、人生もいまとは違っていたかも知れない。

  • そのころの上官

     長崎造船所に赴任していた造兵の監督官の1番の先任者は、種子島時彦という鹿児島出身の人であった。この人は非常に愉快な人で、私もこの人に敬服していた。その種子島氏の家の前に私が下宿していた。そこに小学校5年と1年の男の子と女の子がもう1人いた。家が向いであるので、休日はもちろん平日でも朝夕に子供たちがよく遊びに来た。

     そのうちに子供を中学に入れたいというので上の男の子の勉強を見てあげた。その子供がのちに海軍機関学校に入って、戦前にはドイツへ留学したりして大佐まで累進し、博士号も取ったと聞いている。

     また造船の監督官の一番の先任者は、藤田という海軍中佐であった。この人が冬休みを利用して耶馬渓から九州一周旅行を計画しているという話を聞いた。この藤田という人もなかなか開けた人で、私が「自分も一緒に行きたい。しかしこちらは判任官であなたは高等官で格が違うから、あなたはあなたの格に相当した金を出し、私は私に相当した金を出す。行動は私の言う通りということでどうですか」と言うと、よかろうという返事で、九州一周旅行をすることになった。

     たしか大正3年の1月の休みであった。長崎を出発した。汽車は3等、旅館は1等という旅行をはじめた。コースは長崎―別府―耶馬渓―熊本―鹿児島とまわった。さほど旅費もかからず、きわめて愉快な旅行であった。

    別府温泉へひとり旅

     長崎在任中の大正3年8月、かねてから暗雲をはらんでいたヨーロッパに戦争が起こり、それがたちまち第1次世界大戦へと発展して行った。日本は連合国側に立ってほとんど局外の立場から協力、戦いに勝つと国内は空前の景気に見舞われたのであった。戦争の最中でも、10年前の日露戦争の時のような緊迫感もなく、国内的にはきわめてのんびりとしていた。

     翌大正4年1月の冬休みに私は、今度は1人で九州旅行を思い立ち、別府へ行った。この時には、神尾大将が中国の青島(チンタオ)でドイツ軍を打ち破って凱旋したのとぶつかった。大正3年の大みそかに別府に着いて、人力車夫に命じて一番いい旅館へ行かせた。

     人力車に乗ってから「別府で一番いい旅館はどこか。そこへつれて行ってくれ」と言うと、車夫は私の書生っぽい顔を見て「それは日奈古旅館だが、とても上げてくれません」と言う。それでは2人引きで日奈古旅館へつけてくれと言った。そのころは自動車などない時分で、人力車の2人引きが最高の乗りものであった。別府最高の旅館へ行くには、最高の乗りものでつけるというわけであった。

     日奈古旅館へ着くと、2人引きで来た私を見て女中がすぐ応接間に上げてしまった。おそらく予約のある上客だと思ったのであろう。それからおもむろに、今晩泊まりたいがと言うとはじめてびっくりし、いや部屋がありませんという返事をした。

     そこで私は「いらっしゃいませと客を上げた以上は、私だってほかへ行けないんだから泊めてもらうより仕方がない。あんどん部屋でもよい」と言うと、あすの晩神尾大将が泊まる最高の部屋がありますから、今晩だけなら泊まってもいいということになった。たしか当時の金で1円70銭くらいいで泊まったと思うが、待遇がすばらしくよかった。8畳と10畳の離れ座敷で、女中1人つきっきりの良いサービスをしてくれた。

     私は後年、老妻と九州を旅行した時、別府の日奈古旅館が恋しくて、老妻とその旅館をたずねたところ、旅館のつくりが当時とは違っていたし、私が強引に泊まった部屋もなかった。そこでいろいろ昔のことを思い出して、こういう恰好の部屋だと言ったところ、その部屋の改築されたところへ入れてくれて、しかも大変に歓迎された。

  • 亀川へ案内さる

     翌朝は大正4年の元旦であった。宿で恒例の雑煮が出た。そこで私は雑煮は1杯きりかと、1等の部屋の泊まり客にしては、はなはだふさわしくない質問をしたところ、いや何杯でも結機でございますということで、3杯か4杯お代わりした。それに縁起のよいことに、年の暮れの泊まり客に景品を出すというのでクジを引いた。中をあけると料理1人前ということであった。

     私は雑煮を食べ終わるとすぐ旅館を出た。その時に茶代もおかず、女中に祝儀もやらなかったので、当時はいていた編上靴の紐も結ばないで大急ぎに旅館を出て、料理屋へ行って景品の料理1人前を食べに入った。

     いい気持で料理を食べていると、隣りの部屋から数人が大さわぎをしているのが聞えて来た。私も大分メートルが上がっていたので、ノコノコ隣りの座敷に入り込んだところ、たちまち仲良くなって、卓を囲んで飲んだり食ったりをはじめた。

     この人たちは、聞いてみると、別府のすぐ近くにある亀川の村長さんやお医者さん、議員さんだとかであって、正月の宴会をやっていたのであった。そのうちに私に「あんたこれからどうする」と聞いたので、「これから耶馬渓へ行くつもりだ」と言うと「それなら亀川に寄りなさい。良い湯がありますよ」というわけで、私はその人たちについて亀川へ行った。

     その途中、別府の地獄へ寄った。いまは相当に変わっているが、そのころは不便な所にあった。ステッキをついただけでお湯が出てくるというような所であった。亀川も非常に広大な温泉で、田圃のあぜ道に湯が流れていた。ここで一緒にいた医者の家に一晩泊めてもらって、翌日耶馬渓へ1人で行った。途中でおいしいソバを食べた記憶があるが、あれはどこであったろうか。耶馬渓からは、久留米に出て長崎へ帰って来た。私の独身時代最後の旅行であったが、私の若かりしころのお恥かしい話の一つである。

    ふたたび横須賀へ

     こうして私は、大正2年から4年まで足かけ3年、まる1ヵ年半長崎で監督助手を勤めたが、「霧島」の完成とともに横須賀へ転勤することを命ぜられた。

     しかしそれまであちこちで大分遊んだから、その金を清算しなければならなかった。結局私の貯金など全部を合わせても200~300円ほど足りなかった。そこで私もやむなく故郷へ金を送ってくれと電報を打ったところ、何の目的で金がいるのかという問合せがあった。そこで芸者買いして金が足りなくなったから送れと返電したところ、おやじから金の代わりに文句が来た。

     どうにもその200~300円の金の工面がつかなかったので、仕様がなく自分の着物などを売り払って金を作り、これ以上オレは金がないんだから、あとは横須賀へ帰ったら給料を貯めて返すから我慢してくれと言った。料理屋の方でも非常にあっさりとしていて「よろしゅうございます」と言うので、それなりに横須賀へふたたび帰って来た。その時の金は、毎月少しずつ送って返済した。

  • 転任の途中結婚式挙げる

     私は長崎から横須賀へ転動する途中、久しぶりに故郷へ立ち寄ったところ、父がぜひ女房を持てとすすめた。正直のところ、私もまだ満24歳であったし、麦を持つということは全然頭になかった。しかし父は、私が長崎あたりから遊びの穴うめに金送れと電報を打ってくるようでは心もとないと思ったのか、ぜひにとすすめた。

     父がそれほどすすめるなら結婚してもよいだろうと思って承諾すると、実はもう相手が決めてあるという話で、早速あすにでも式を挙げようということになった。私も転勤の途中でもあり、仕事も忙しいことが予想されたから、それなら早い方がいいというわけで、故郷についた翌日結婚式を挙げた。

    はじめの妻との結婚写真
    はじめの妻との結婚写真

     この妻は、名前を田鶴江と言い、桑名市と名古屋市の中間にある弥富町に近い農家の出身であったが、生来体が弱く、2人の男子を生んで、結婚4年後の大正8年に当時世界的に流行したスペイン風邪にかかって、彼女の里で亡くなった。

     式のあと、妻と一緒にもとの田浦に帰って来た。田浦という所はいまもそうだが、しかるべき旅館がなく、わずかに古い商人宿が1軒あった。一応そこへ荷物を置いて、以前にいろいろ懇意にしていた人々に、転任の挨拶をしてまわった。

     そういう時にたまたま、いまどこにいらっしゃいますかという話が出た。こういう所ですと言うと、「それは大変ですね、お一人ですか」と聞かれたので、「いや実は女房を一緒につれて来ました」と言うと、それでは近所の知り合いの家の座敷を借りてあげましょうと、その人が急に世話をしてくれ、私の新婚生活がはじまった。

  • 第5章 ふたたび横須賀工廠へ

    活気あふれる横須賀工廠

     私が横須賀工廠にふたたび帰って来た大正4年といえば、日露戦争以後急速な発展をとげたわが国が、前年の大正3年8月にぼっ発した第1次世界大戦の戦勝国になって、大いに国威を上げ、また軍備も拡張につぐ拡張で、わが国が国際的にも信用をまし、国力を増大させて行った最も良かった時代であった。

     この影響をうけて、横須賀工廠造兵部も活気にあふれ、従業員は約5,000名に近く、臨時工を入れれば7,000~8,000人にもなっていた。工場設備も当時巨大なものとなっていた。

     この時の私の仕事と言うと、艦砲斉射設備の改装、工務規程および原価計算などであり、また勤務の半分くらいは、工務主任付として工務事務の整理に従事していた。また第2次世界大戦中のわが国の主力艦であった「陸奥」および「長門」に装備する砲塔の製作を監督し、工廠内の砲煩(こう)、製缶などの工場長代理などもつとめた。これが私の24歳から26歳にかけてのころであった。

    材料管理と原価計算の導入

     私は工務主任付として兵器の製作状態を見ていると、材料を各工場ごとに勝手に買っているのが目についた。甲の工場では材料があまり、その材料を乙の工場でほしい場合、その工場長同士の仲がいいと、持って行けという調子で引き渡すし、それが別に帳簿にものらなかった。もし甲と乙と仲が悪いと、たとえその材料を使わなくとも、それはすぐ使うからと言って渡さないという状態であった。結局、乙の工場では部外から材料を買わなければならなくなるが、新しく材料を買い入れるには、入札だとかその他の手続で半年から1年くらいかかって、緊急の工事には間に合わないことがあるということに気がついた。

     と同時に、原価計算というものが全然出来ていなかった。それに予算には費目があって、費目別に金額が決まっているが、それを責任が持てるような人が扱っていなかった。工場内には記録工というのがいて、その方面の仕事を扱っていたから何枚もいろいろな科目別の伝票があって、計算その他に面倒でならなかった。その伝票に、かかるそばからつけて行くと、ある工事は予算の5倍も10倍もかかっているかと思うと、ある仕事は0で出来ているというおかしな現象さえ生まれてくるのであった。

     こういうことになると、予算はあってもそれを正しく使うことがない。上の人は上の人で、予算というのは決算ではないという考えを持っていて、予算を残すと翌年の予算が減らされるから、予算は一杯に使えということで、年度末になって予算があまると、わざと余計なものを買ってみたり、ムダな出張をしていた。

     何とかこれらの弊風を改められないかと私は考えた。そこで工場庫を設け、各工場に必要な材料は工場庫から配給し、残材は工場庫に返す案を作った。

     もう一つは、原価計算を行なって、各工場別の細分伝票を作り、それに所要材料と所要工数を計上して作業をさせるべきではないかと、当時造兵部長であった南里団一少将に進言した。これについて私は、物が出来るには、工数と材料が必要であり、材料は目方を計ればよいが、工数をはかるには時間計算が必要であるとのべた。

  • 中島知久平氏とも論争

     私の進言にもかかわらず、従来これをやるべきはずの高等官では誰も担当する人がいなかった。その結果「まあ天野がそれほど言うならやらせてみよう」ということになり、私が原価計算を行なうことになった。

     この時のことがキッカケとなって、私は原価計算というものにはじめてふれることができ、作業能率に興味を抱くようになった。さらにこのことが、のちに私がタイムレコーダーを製作する遠因となったものである。

     私のような比較的下の方の判任官で、原価計算をはじめるには当然工場長が対象となったので「天野は生意気だ」とずいぶん反ぱつがあってやりにくかった。私は官等や年齢でものを言うのでなく、原価計算は海軍として必要だという考えで、高等官を向うにまわして議論を闘わせた。

     これから考えると、私は自分の意見を具申して、これを担当する人がいないことからチャンスを作ったのであった。だから私は、正しいと思ったことは何でもドシドシ上役に言うべきだと思う。それで上役に恐れられる下役にならなければいけない。余談にわたるが、わが社の従業員にも意見は意見として遠慮なく申しのべるべきだということをいつも言っている。

     原価計算を引きうけた私は、まず造兵部内に工場庫と原価計算係とを作った。飛行機の製作でのちに有名となった中島知久平さんが大尉で工場長を勤めていた。中島さんは大きな仕事をする人だけに、ずいぶん金もムダに使ったので、私はまだ技手のペーペーだったが、しょっちゅう中島さんと論争して予算をけずったりした。

     この時の私のにがい経験が、のちにタイムレコーダーを考えて、いまそれを生産しているのに非常に役立っている。人と、しかも自分の上官と論争するためには、それだけまた知識も深くなくてはできないことであったからである。

     このころの私は、やり甲斐のある仕事を与えられたこともあったが、実によく仕事もし、また研究も怠らなかったと思っている。しかし、心の片隅には、その当時の自分の地位、給料などについての不満がくすぶっていたことも否定できなかった。

    父にいましめられる

     大正4〜5年といえば、第1次世界大戦で日本の工業が飛躍的に伸び、国中が青島占領の戦勝気分と好景気に酔っていた。当時私の月給は55円であったが、私の友人はドンドン海軍を辞めて、景気のいい民間の工場とくに造船所に入って行って良い待遇をうけていた。

     たまたま神戸に出張した時に会った私の友人などは、川崎造船所に勤めていたが、私の3〜4倍の収入があり、作業服のままポケットに札束を突っ込んで盛り場をノシ歩いては、札ビラを切っていたという状態であった。それと私のその時の境遇をくらべてみると、月とスッポンの違いがあるように感じられた。

     私もなにぶん人間的に未熱であったから、そういう目先のことにまどわされて、薄給で海軍にいても仕様がないと思うようになった。そして荷物をまとめて郷里へしばらく帰っていたことがあった。

     この時は父に非常にいましめられた。父が私に「お前が高工時代に海軍の造兵生徒になった時に、10年は海軍に勤めるという約束をしたのだから、どんな逆境になっても約束だけははたさなければいけない」というのであった。私はこの父の言葉には一言もなく、また横須賀へ帰った。

     父はこういう点非常にきびしかった人で、いまもこの時の父の恩を感じている。そのころの話にこういうのがある。

     私が海軍に入った時の初任給は35円で、20歳前後の者には相当いい給料であった。私はかねがね父から収入の1割は必ず貯金するように言われていた。しかし私も若かったので、その3円50銭がなかなか貯金できなかった。それでつい送金もとどこおりがちになると、父はわざわざ郷里から横須賀まで、往復5円の汽車賃をかけて、3円50銭を受け取りにくるのであった。

     こういうきびしい父であったから、そのころ貯金を生み出すために、私は英語の勉強をして雑誌などの翻訳をした。このおかげで、のちに貯金もできたし、学生時代から苦手であった英語も克服できて、一石二鳥となった。

  • 部長に外国行きを要求
    羽田飛行場で父母と
    羽田飛行場で父母と

     父にさとされて私は、ふたたび横須賀工廠に帰って来た。しかし私は給料の点はとにかくとして、同じ海軍の中でも私と同輩の者や後輩がすでに何人かヨーロッパへ出張を命ぜられているのに、私がなぜ海外へ行けないのか不満を持った。そこで南里部長に「実はこういうわけで父にいましめられて帰ってきました。ついては自分の同輩も自分よりあとの人も、外国へ行かせてもらっているが、自分はいまだに行けない。これでは一向に前途が明るくならないから、何とかしてほしい」と頼んだ。

     そのころ、海軍に勤めている者の最高の願いは、1日も早く外国へ、しかもイギリスへ行かせてもらうことであった。南里部長は、私の言葉を聞いて、早速海軍繿政本部へ行って相談して来てくれた。その返事は、「アメリカならいつでも行けるけれども、折角の洋行のチャンスだから、イギリスへ行けるまでもう少し待ってみたらどうだ」ということであった。

     当時は、軍艦もイギリスの真似をして作ったりしていたので、1流の者はみなイギリスへ行き、2流の者がイタリア、ドイツ、アメリカなどに行くというのが慣例になっていた。そこで私も、南里部長の言葉を了承してイギリスへ行ける日を楽しみにしていた。

    東京駐在監督官助手へ転任

     半年後私は、東京駐在の監督官助手を命ぜられた。大正7年11月のことであった。その当時は、東京駐在の監督官助手に命ぜられることが外国出張の前提で、大部分の人は外国へ行く前に必ずこの命令をうけることになっていた。それで、アメリカへ出張を命ずという内命も間もなくあった。

     そのころアメリカは1,000円か2,000円あれば行けた時分で、私もアメリカなら何も海軍のご厄介にならなくとも自分で行けますと言って、南里部長を大いに困らせた。しかし南里部長も立場に困るからと言うので、それならあなたの顔を立てましょうかと、半分恩に着せるような恰好で、私は東京駐在の監督官助手になった。

     私は武藤稲太郎という海軍造兵大佐(のちに中将に昇進し退官して御木本真珠店の専務になった)の下にいた。武藤さんはなかなか頭のいい人で、当時すでに5万トンの軍艦の設計図を作っていて「秘密だよ」と言って、とくに私に見せてくれた。

     当時の軍艦は、大体1万トンから1万3,000トンが世界の最高クラスであって、5万トンの軍艦というのは、当時の造船技術ではまことにすばらしいものであった。すでに大正7年に、のちの「大和」「武蔵」クラスの軍艦の設計図が出来ていたということになる。

    妻の死

     その矢先、大正7年の暮に、かねてから体の調子が思わしくなかった妻の容体がいよいよ悪くなったので、私は12月23日から休暇をもらって妻の郷里へ帰り看病にあたった。しかしその甲斐もなく、妻は2児を残して死んでしまった。大正8年1月17日のことで、原因は、当時流行をきわめたスペイン風邪であった。私が29歳、妻は24歳であった。

     彼女は、それまでの貧乏暮らしに内助の功をよく挙げてくれ、私の洋行が近づいた時にも、喜んで留守する決心をしてくれた。しかしそれも実現しないうちに死んでしまった。私は彼女の薄幸を思い出し、彼女をもっと幸福にしてやることができなかった私のおろかさをみずから責めている。

     この妻が残した2児のうち、長男の卓は、昭和20年5月ビルマの野戦病院でイギリスの飛行機の爆撃をうけて29歳で死に、もう1人の猛は幼くして死んだ。

  • そのころの民間工場

     私の東京駐在監督官助手としての仕事は、海軍の発注先の工場の監督であった。そのころは何と言っても官立の企業がすぐれていたのにくらべ、民間の方は、作業の方法も工作の知能も低かった。たとえばテスト・ピース(試験材)ということがわからない工場もあった。いまから考えればウソのような話である。

     それは、いまは立派な工場になっているが、東京麻布にある工場で、工員はその当時20~30人であった。この工場で、大砲を軍艦にしばりつけるアンカー・チェーンの注文をうけ、私はその材料にする鋼棒の試験材を取りに行った。すると技師長が変な顔をする。そして「試験材は上にございます」と言うので、机の上を見るとそこに1尺くらいの試験材が1本、立派な風呂敷に包んで置いてあった。

     「これはわざわざ高い金を出して買ったんでございますが、いかがでございましょう」と言う。そこで私は、試験材というものを説明してはじめて、「そう言えばそうですな」と理解するというほど程度が低かったし、また設備も悪い所が多かった。

     また以前、森永製菓の社長をやっていてすでに故人となられた松崎半三郎君が、自分で資金を出して小さな鉄工所を経営していた。そこでは、銅板を円形につなぐ仕事を海軍から請負っていた。これは、大砲の弾のうしろに銅板をはりつけそれを打ち出す時に、砲身のラセンにはまり込んで弾が旋回し、弾道を一定させる用をなすものであった。

     しかしその鉄工所では、請負ったのはいいけれども、銅と銅とをつなぐ方法を知らないので私がしばしばその工場へ行って指導して、松崎君に喜ばれたことがあった。こういうように、その当時は仕事をやれと言われると、何もわからなくても、ハイと言って請負ってくるというような次第で、昔は実にのんびりしていたとも言えようか。

    アメリカ出張近づく

     いよいよアメリカ出張が近づいて来た。私は妻の死からわずか半年のちの大正8年7月にアメリカへ出張するよう命令をうけた。

     私は出発前にいろいろ日本を知っておきたいと思って、またひとつは独身になってしまっていたので、吉原へ行ったことがある。私はそのころは一現の客は上げないことを知らなかったので、吉原で一番いいと聞いていた「角海老」へ行った。

     すると、はじめてのお客は上げないというので、どうしたら上がれるのかと聞くと、まずお茶屋へ行ってから来なさいと言われた。その通りにすると、10畳か12畳くらいの部屋へ通された。そこで三々九度の盃を交わし、それがすんでから芸者や太鼓持ちが来てさわぐという次第であった。

     その間花魁(おいらん)はそばに来てじっとしているが、芸者は花魁より格が下で、座敷に来て花魁に最敬礼をする。別室に入ると、寝床が50センチくらいの高さがあって、まるで御殿へ行ったような気分になった。

     そこで私は、この2〜3日のうちにアメリカへ行くのだというと非常に歓待された。帰る時にはみやげを買って来てやるというようなことを言ったが、アメリカには最初は1年の予定であったが、2年いたし、それからフランスへも出張を命ぜられたので、日本へ帰ったのは3年半ぶりのことであったが、私は約束通り、フランスで買った香水などを持って早速行ってみると、もうその花魁は吉原にはいなかった。

  • 第6章 私の海外生活:アメリカ

    第1次大戦後のアメリカへ

     私はアメリカへ出張を命ぜられたことについては、2流扱いをうけたわけで、相当の不満を抱いていた。しかし、結果的にはかえってこの方がよかったと思う。というのは、当時のアメリカ、とくに第1次世界大戦後のアメリ力は、世界で最も経済力の高い国となり、しかも国内では自由主義をおう歌し興隆の気運がみなぎっていた。そして資本主義の発達を目のあたりに見、はげしい労働運動も肌に感じとることができたからであった。これに引きかえ、イギリスは第1次世界大戦で一応の勝利を得たとはいえ、大戦の疲弊からまぬがれることができず、国力が落ち目になっていた。

     私は大正8年7月、横須賀工廠の伍長1人をつれて、日本郵船の諏訪丸でアメリカに向かった。

     船内には、アメリカは2回目だという三菱の技師がいて、ニューヨークへ行くとのことだった。彼はいろいろとアメリカの話や行った時の心得などを話してくれたので、はっきり約束はしなかったけれども、一緒に行ってくれるものと思っていた。ところが、いざシアトルに着くと、彼はさっさと上陸してしまって、私は伍長をともない、ポカンと上陸しなければならなかった。

    日本で習った英語

     しかし私は、そのためにシアトルではじめからいろいろな経験をした。一応日本で英語を習って来たが、アメリカでは一向に通じない。これはジャパニーズ・イングリッシュの悪いくせで、読み方や書き方ばかりに通じていて、肝心の聞き方をやらなかったことが、私を困らせたのであった。シアトルという発音にしても、日本流に言ったのでは、シアトルの街の人にすら通じないのを知った。

     英語が通じないので、仕方なしに船中で話に聞いていた日本の旅館に行って泊めてもらうことにした。その旅館で、実はニューヨークへ行くんだが、グレート・ノーザン・パシフィック鉄道で行きたいと言うと、番頭がなぜか別の鉄道の切符を買って来た。

     私がなぜ、この鉄道に乗りたかったかと言うと、この鉄道を敷いた時、鉄道会社では中国人や朝鮮人を、完成したら給料を払うという約束で5万人ほど募集した。しかし完成して、いざ給料を払うという時に、大勢集めてダイナマイトでほとんど殺してしまったという噂のある鉄道であったからである。

     切符が私の頼んだのと違うと番頭に言うと、彼はソッポを向いている。私たちがロクに英語もしゃべれないからナメられたわけであった。やむなく私は、自分で切符を買いに行った。駅の窓口で“To New York”と言ったら、切符売りがペラペラと言うが、私には一向にそのペラペラがわからない。そこで紙を出して用件を書き、金を出した。つり銀をくれる時に、彼は先に切符を出して、これはいくら、つり銭はいくら合計でいくらという計算をした。

     そこで私は、なるほどアメリカという所は、こういう金の計算をするのかということを知った。日本なら、たとえば100円出して50円の物を買う場合、おつりは50円ですと言ってから品物をくれるのだが、アメリカでは、品物を出して次につり銭をくれ、全部で100円だという計算をするのであった。

  • ナイヤガラを見物

     切符を買った帰り道に、私は4~5日分の食料品を買い込んで汽車に乗った。その汽車のボーイは黒人であった。私はこのボーイとすぐに親しくなって、いろいろ話をしているうちに少しは会話も上達するだろうと思って、その黒人につとめて話しかけることにした。

     ボーイはチップをよくくれる人と見込んだのであろうか、しょっちゅうコーヒーを飲まないかと誘いに来た。私は日本を出発する前に、チップの最低額は5セントであると聞いたが、車中のコーヒー1杯の値段が5セントであって、それを飲むのに毎回5セントのチップをやった。

     ボーイにしてみれば、日本人が気持よかったのか、あるいは5セントのチップを何回ももらいたかったのか、この黒人のボーイとは、とりとめのないことをよく話し合った。

     また車内には、もう1人音楽家と称するアメリカ人がいて、この人とも仲良くなり、それをまじえて、途中ナイヤガラで降り、世界最大と言われる滝をゆっくり見物してからニューヨークに着いた。

     ニューヨークの駅には、海軍の仲間が迎えに来てくれた。少し遅いじゃないかと言うので、途中でナイヤガラを見て来たと言うと、みんなびっくりした。というのは、いずれもシアトルに上陸すると心細くなって、真直ぐにニューヨークまでくるが、君のように、途中ナイヤガラを見物して来た者ははじめてだとのことであった。こうして、私の2年間にわたるアメリカの滞在生活がはじまった。

    アメリカでの仕事のかずかず

     私のアメリカ滞在中の仕事は、主として海軍よりアメリカの会社に注文した広(呉)海軍工廠に設備する工作機械の受け渡しに従事することであった。それで得た情報と体験とを報告することも仕事のうちに入っていた。言うならば、国際産業スパイといった役どころであったようだ。

    ウェスチングハウス社への視察
    ウェスチングハウス社へ視察に行って:左から2人目筆者

     このほかに、自分の費用でアメリカ国内の工業都市約30ヵ所あまりを訪れて、有名な工場や大都市の設備なども視察した。その間、いろいろな視察は、私の見聞を広める役をしたばかりでなく、当時徐々に興隆しつつあった飛行機製作にもふれることができた。

     私はアメリカでは、カーチスとかライトとか、また飛行機の発動機や自動車の工場など、その時のアメリカの先端を切っていた工場を見て歩いた。とくに飛行機操縦の先人であるライト兄弟の弟の方に、デイトンで飛行機にはじめて乗せてもらった記憶は、いまも私に生々しい。

     また私は、折からアメリカに滞在していた片山潜氏――日本共産党の草分け的人物――と知り合い、彼の紹介で、いまも存在しているIWW(International Workers of the Worldの略。共産党)の活動状況を研究し、またゴンパス氏のひきいるAFL(American Federation of Labor)の活動状態をくわしく本国へ知らせたので、海軍省の上官から大いにほめられた。

  • ノルトンからの金時計

     そのころのことだが、私はノルトン・グラインディングという機械メーカーへ行った時のことであった。機械をよく見ると、ところどころにサビがついていた。当時はまだ日本をバカにしていて、日本向けの輸出機械はロクに検査もしないで送っていた。そこで私はこれをみがいて送ってくれと言うと、その会社の者は、いままで日本人にそんなことを言われたことがないと言うのであった。

    ノルトンから貰った時計
    ノルトンから貰った時計

     私は「それでもいいなら日本に送ったらいいだろう。しかし世界のノルトンともあろうものが、そんな機械を外国へ出していいものかどうか」と言うと、相手の人は非常に感激して「実にいいことを言ってくれた。非常にありがたい。ついてはお礼に、あなたに何をしたらよいか」と言った。

     私は「いい機械を日本へ送ってもらえば、それで満足だ」と言ったが、相手はそれを聞き入れずに、「時計をぜひプレゼントしたい」としつこく言って来た。私がそれを受け取らないで帰ると、会社の者がニューョークまで来て、監督長の杉政人さんにその一件を話し、時計を持って来たので、杉さんの口ぞえもあって、その贈物をもらった。

     それは金時計の立派なもので、戦時中に金側は供出して、ニッケルの側になっているが、いまだに持っている。いつもはめている時計が狂うと、いまでも下げて行くが、アメリカ滞在中の私のいい思い出の一つである。

    腹の太い杉さん

     私の監督長であった杉さんは、非常に立派な人で、しかもアメリカ人との折衡にあたっては少しも位負けすることなく堂々と正論を吐き、相手からは大いに尊敬されていた。かつての日露戦争の時には、日本海軍が最も苦心した旅順閉塞に3回も出陣した人で、明治天皇から「朕が生きている間は杉は退役させてはいけない」と言われたそうで、のちに海軍中将に累進した。

     そのころの海軍ニューヨーク駐在事務所には杉監督長の下に今井博茂造兵少佐、山木重之助主計少佐とかいう人々がいた。私は今井さんの下に属していたが、山木さんの方は、その部下である和田という雇員に、なにかとヒステリックに当たり、そのことを和田君がいつも私にこぼしていた。私も、何もはるばるアメリカまで来て、同じ日本人をいじめることはあるまいと、にがにがしく思っていた。

     たまたまその年の忘年会が、常盤という日本料理店で行なわれた。宴たけなわのころ、私はそっと山木さんを呼び出してバス・ルームにつれて行き、同席の今井さんに立ち会ってもらって山木さんにつめ寄った。バス・ルームは中から鍵をかけて、私は今井さんに「山木はアメリカに来てまで部下をいじめているが、こういう人は私たちの仲間としてはずかしいから、ここで制裁する。今井さん立ち会って下さい」と言った。

     そして私は、ネクタイとメガネをはずし、山木にもネクタイをはずせと言った。そこで私は彼を二つ三つなぐったが、今井さんが仲裁に入って、山木さんはこれから改心するということになった。

     私たちはそのまま何事もなかったように宴席にもどったが、杉さんはもちろんあとでこのことを聞いたであろうと思う。しかし、知っていても知らないふりをして何も言わなかった。ふつうなら、山木さんは主計少在であり、私より上官であったから、階級意識のきびしい海軍では、このことが公けになるとただではすまなかったことになる。それを何も言わなかった杉さんは、腹の太い人であったと思う。

  • ニューヨークの私

     さてニューヨークへ着くと、同僚が私の服を見て笑った。私の服は、いまはやらないが、日本で作った服を裏返しに仕立てたものであった。それもアメリカへ行くというので、それまで着ていた服を裏返したものであった。私たちの頃は、洋服の表がよごれると、裏返しに仕立て直してよく着たるのである。

     こういう洋服だと、ボタンの穴や胸のポケットが逆になる。そういうものを着て平気でニューヨークの街を歩いたのだから、同僚が、私の恰好の悪いのを見て笑ったのも無理のないことで、私は早速ニューヨークの洋服店で新しい背広を作った。

     私がニューヨークで困ったことの一つは、四通八達している地下鉄でよく迷うことであった。方向がわからないために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、ずいぶんマゴマゴさせられた。

     ニューヨークに着いて2日目に、以前に田浦で一緒に下宿していた雲野君――彼は1年も前に来ていた――が、私に電話をかけてみたらとすすめてくれた。私は受話器を取り上げたが、どうも話がわからない。よく聞いてみると、「ライン・ビジー」と言っている。これは話中ということで、線が忙しいということになる。よく考えてみれば、日本でいう「お話し中」よりも合理的なわけで、私にはこれくらいの英語も、はじめのうちはなかなか理解できなかった。

     冬はしばしばアイス・スケートに行った。そこはニューヨークの街のはずれにあるコートランド・パークで、ふだん日本人は、黒人とか中国人には優選されるが、アメリカの上・中流社会ではあまり優遇してくれなかった。娘と途中で会っても、ソッポを向かれるくらいであった。

     ところがアイス・スケートに行って転ぶと、サーッとアメリカ娘が2〜3人寄って来て起こしてくれるので、アメリカ娘に起こしてもらいたくてアイス・スケートにはよく行った。

    ジョン・ホーリー夫妻のこと

     着任後4~5日してから、私は下宿をさがすために新聞広告を出した。間もなく6~7通の返事が来た。その中で最も良さそうな所を選んで訪問した。下宿と言っても、アメリカでは部屋を貸してくれるだけで、食事は出さない。

     その家は、イーストサイド182番街と記憶しているが、立派なアパートの3階にあった。私がベルを押すと聞もなく、60~70歳の老人がドアから顔を出したが、私の顔を見るとすぐにドアを閉じてしまった。私は家を間違ったかなと思って、受け取った手紙と表札とを見くらべていたら、さきほどの老婦人の夫らしい人がドアを開けて私を招じ入れた。

    ホーリー氏夫妻
    ホーリー氏夫妻

     中に入ると、家具調度すべてが立派なので、このような家庭が、なぜ他人に部屋を貸すのか疑問に感じていると、その老人が言うには「自分は日本人を好まない。しかし、それは話を聞いてそう思っているのであって、実際に日本人と交際したことはないから、お前に試験的に部屋を貸すのだ」ということであった。そこで私は、4週間の約束でその部屋を借りることにした。主人の名前はジョン・ホーリーと言った。

     そのアパートから海軍の事務所へ通った。部屋代は前払いで、毎週金曜日に支払う。するとその翌日、タオルとシーツが洗濯したものに代わっている。私はアパートに入る鍵と部屋の鍵とをもらっていたから、ほとんど家人と顔を合わせることがなかった。

     2週間ほどして、私は老人に日本人を研究するなら、ついでに日本食も試みてはどうかと言ったところ、大変に喜んだ。私は日本料理店に老夫婦をつれて行き、スキヤキとエビの天ぷらとをご馳走した。彼らは非常においしいと言い、帰りには映画を見た。これで大分老夫婦と親しくなった。

     そして次の土曜日には、老夫婦が私とともにその家で食事をしないかと言った。私は喜んでその好意をうけた。その老人は「日本人は聞いていたところと非常に違っている。お前はアメリカの紳士と少しも違わないほど礼儀正しく、教養もありそうだ。むずかしい書物や新聞を読むらしいが話がまずい。自分が毎晩会話を教えてやろう」ということになった。私も着任早々から習っていた会話のコースをやめて、この老人と毎晩話すことにした。

  • コロンビア大学で聴講

     こうして私は英語をマスターしようとしたが、ホーリー氏の話は、彼の前身が銀行員であったため、自然に堅い経済の話ばかりで、とてもやり切れなかった。私がそれにたえて話しているうちに、4週間の試験期間もウヤムヤになって私がホーリー氏の家に滞在することが半年になり、そして1年になってしまった。夫婦とも非常に明るく愉快な人物で、私はここでよきアメリカ人の家庭生活を体験することができた。

     ホーリー氏が経済の話をする代わりに私は、日本のことを話した。たまたま親子の情愛の話になり、日本では親は子供が成人するまで一生懸命育て、自分が老いた時には、今度は子供がよく親の面倒を見ると話すと、涙をうかべてさかんに「イエス、イエス」を連発していた。

     このホーリー氏夫妻もそうであったが、アメリカでは、子供が結婚すると別居する。親はだんだん老年になっても、また一方が他界しても自分らで老後の生活を送らなければならない習慣である。

     このようにホーリー氏夫妻とは非常に親しくしていたが、私はもっと外国のことを知る必要があると思っていた矢先に、ホーリー氏の紹介で、コロンビア大学のフランス語科と経済科の講義を聞くことができ、またニューヨーク市の図書館の書物を借りる便宜まで与えられた。

    “My Jap Son”

     また老人は、友人がくると私のことを“My Jap Son”(日本の息子)と紹介するほど、私を可愛がってくれた。

     かねがねホーリー氏は、私の友人を一度つれて来いと言っていたが、私は友人をそういう所へつれて行くのもどうかと思ってひかえていた。たまたまある夏のこと、ホーリー氏一家が1週間ほど避暑に行くことになり、私が留守居を頼まれて1人でいたことがあった。そんな時に私の友人が4~5人遊びに来た。私も主人が留守だからと思って、家の中に入れてワイワイ大きな声でしゃべっていると、これをアパートの管理人が知って「ああいう者をこのアパートに置かないでほしい」とホーリー氏に強く言った。

     そこでホーリー氏も、非常に申訳ないが、下宿を変わってくれないかと、残念そうに言って来た。私もまる1年世話になったこの家を去るのは非常に名残り惜しかった。

     私がやむなく変わった下宿先はドイツの音楽家で、名前は忘れたが、たしかウィンター・ガーデンという大きな劇場でバイオリンをひいていた。私はここで、いろいろ音楽の話などを聞かされた。私が洋楽の良さを知ったのはこの時である。

     この下宿でも私はめぐまれていて、わずか2ヵ月の短い期間ではあったが、前より一層家族的な雰囲気の中で生活した。夜になると、その音楽家から話を聞いたり、娘さんや細君からダンスを教えてもらったりして大変愉快にすごした。ここに2ヵ月ほどいるうちに、私は海軍からフランスへ出張するよう内命をうけた。

  • フランス出張へ

     それは、第1次世界大戦でドイツをなやませたフランス航空機の発動機製造権を海軍が買いうけ、日本から優秀な技手や工手20数人が、その製造方法を習得するために直行することになった。それに私を現地で合流させるためであった。

     私はそれまで海軍の造兵部門に属していたがこれを契機に航空部門で仕事をすることになった。そのころの日本の航空機について一言すると、まだ実用化の段階ではなく、飛行機の生命である発動機を研究すると言ったごく初期の時代であった。私がフランス出張の任命をアメリカで受け取ったのが大正9年のことであったから、この時以来航空機と深い関係を持つようになった私は、おそらく日本航空機発達の草分けの1人ではないかと思っている。

     私が航空部門に移るよちになったのは、アメリカ滞在中に飛行機に乗せられたり、発動機について報告を出したりしたことがその原因となったか、フランス語を勉強していたことが原因になったか、とにかく、外国の任地でさらに他の外国へ出張を命ぜられることは海軍ではめずらしいことであった。

     アメリカには、はじめ予想したよりも滞在期間が長く、足かけ2年いたことになり、さらに予想もしていなかったヨーロッパへ行けることは、うれしいことであった。

    ホーリー夫妻との別れ

     こんなわけで、私はアメリカを離れることになった。その前に私は、下宿を変わってもホーリー氏夫妻とは交際していたので、もちろん、今度フランスへ行くことになったと話すと、2人とも大変に残念がった。とくに夫人の方が大変な悲

     しみようで、私と一緒にフランスへ行くとまで言いはる始末であった。

     いよいよフランスへ行く日がやって来た。私はニューヨークの波止場からイギリスのサザンプトン行きの船に乗り込んだ。出発も間近かになると、ホーリー夫人がついに泣き出して私に抱きつき、キスして別れを悲しんでくれた。こういう次第で、私は大正8年3月から翌大正9年4月まで足かけ2年滞在していたアメリカとも別れをつげた。

     ホーリー夫妻とは、日本に帰ってからも、太平洋戦争がはじまるまで文通していたが、その後は消息がとだえている。

    反日のアメリカ牧師に反ぱく

     日時は少しさかのぼるが、私はホーリー氏とともに教会へしばしば行った。ところが、たまたま牧師が、東洋に25年も滞在していたというふれ込みで、日本を不当に非難する演説をした。その牧師がもっともらしく、日本人の朝鮮や台湾における残虐ぶりを説くのを聞いて、黙っていることができず、演壇に飛び出してしまった。

     私は「あんたが25年東洋にいたか知らないが私は生まれて29年このかた日本に住んでいた。あんたよりよほど日本を知っているから言うが、あんたの言うような事実はない」と言って、日本の人情や風士の美しさ、文化の程度などを演説した。

     こう書くと、私は流ちょうに英語が話せると思われるが、実は心臓がドキドキし、自分でも単語を並べたくらいしか記憶がない。ホーリー氏がこれをよく補足してくれた。すると、翌日のニューヨーク・タイムスは「若い日本人が牧師を打った」という見出しでこのことを報じたが、監督長の杉さんは私の行為を知って大変ほめてくれた。

  • 大西洋上の決闘

     大西洋航路の船に乗ると、私よりやや年輩で10歳くらいの男子をつれたイギリス婦人がいた。この女性はしばらく神戸にもいたことがあるとかで、そういうことから私は心安くなり、船のデッキを一緒に散歩したりした。

     彼女はイギリスのサザンプトンの故郷へ帰るのだと言った。すると、何かにつけて私につらく当たるアメリカ人がいた。その男は出航間際に乗船して来た男で、私の部屋に割り込んで来たのであった。私の船室は2人部屋であったのにこの航海は船室が混雑していて、もう1人ソファに入れた上に、その男が床の上で寝てもいいからと言うので、急に乗船して来た。

     私は床の上に寝る彼を気の毒に思って、同室の人たちに毛布を1枚ずつ提供しようじゃないかと呼びかけて、すすんで毛布を貸してやった。それに対してその男は感謝の気持すら表わさなかった。私もどうもおかしな人間だなと思っていると、2〜3日してから私に「オレは第1次大戦でヨーロッパに転戦したアメリカ軍の中尉だ」などと言って、私に示威的な態度を示して来た。

     よく考えてみると、私が一緒にデッキを散歩した帰人とどうもおかしい。そこで私は、その婦人に「あの男を知っているのか」とたずねると、「実はあの男が私のあとについて来て困っている」という答えであった。

     そうしているうちに、航海中にベルギーの独立記念日があったので、同室のベルギー人のために、私は2等船客から寄付を集めて、ペルギー人のためにティー・パーティーを開いた。その時にも、アメリカの自称中尉さんは、私の言うことにソッポを向いていた。

     彼の態度が何かにつけて私のカンにさわるので、「君は私に一体どういううらみがあってそんな態度をとるのだ」と言った。そのことからだんだん話がもつれて来て、文句があるなら決闘をしようと彼から言ってきた。

    相手あやまる

     彼は私よりも20センチぐらい大きい男で、これはとてもふつうでは敵わない。困ったことになったと思った。その男をなだめにかかると、彼はますます威圧的な態度になる。私もついに決心のホゾを固めた。

     決闘の前に、私は事の次第を郷里の父と海軍省の両方にあてて書置きした。ちょうど故郷をたつ時に、父が護身用としてくれた鎧通しを1本持っていたから、いよいよの時には、これで相手を突き刺してやろうと思ってデッキへ上がって行った。

     私はおそらくすさまじい形相をしていたと思う。決闘場に決めた一番上のデッキに上がるや否や、その鎧通しを抜いて突きかかろうとすると、彼は「ちょっと待ってくれ」と言った。「日本人は決闘する場合は日本刀を使うが、お前はピストルでも何でも使ったらいいだろう」と言ったら、彼は私の剣幕におそれをなしたのか「いや決闘するとまでは言わなかった」と言ってあやまったので、私は彼と仲直りした。

     その中尉殿は、その後は非常におとなしくなって、サザンプトンに船が着いた時には、私のカバンをわざわざ持ってくれたりした。イギリスに上陸した私は、ついでにと思って、1ヵ月ほどイギリスの国内をあちこち歩いてから、パリへ入った。

  • 第7章 私の海外生活:フランス

    ロレーン発動機の領収で

     私は大正9年の5月パリに着いた。早速日本大使館に行くと、のちに海軍大将になった大角岑生氏(当時大佐)が駐在武官であった。一通りのあいさつをすませたあと、大角大佐の下にいる小野という機関中佐が、私に「どうして1ヵ月も予定が遅れたか」と聞いたので、私が「イギリスの工場をあちこち見学して来ました」と答えたところ、「なぜまっすぐパリへ来なかったか」と叱言をくった。

     私としては、アメリカの工場をたくさん参観し、フランスの工場を見る機会は今度できるから、この機会に、イギリスの工場をもできるだけ見ておくことは大変に参考となり、またいままで数多くの事柄を海軍省へも報告してあるので、イギリス滞在の1ヵ月は、公私とも多大の益があったと大いに誇りたいところであった。

     しかし小野中佐の言い方にあまりにケンがあったので、若気の至りでお恥しい次第であったが「それで悪ければ私はこれからまっすぐ日本に帰りましょうか」と言った。

     私のフランスでの仕事は、前にもふれたように、ロレーンという発動機の特許権の受け取りとその製造方法を学ぶためであった。私はアメリカにいてフランス語を習っていたのと、少しは外人慣れしているところを買われて、日本から来た20数名の技手や工手に通訳したり、世話をしたりすることが主な仕事で、まことに楽であった。

     このロレーンの発動機は、のちに広工廠で作ったが、これが中島飛行機の発動機工場(東京荻窪)の元祖になった。当時フランスで私の助手になっていた沢守源重郎君とか沼津武志君とかいう人たちが中島飛行機へ行って、重役や工場長になった。第2次世界大戦後は、これが富士重工という会社になっている。

     こういう状態で、技手や工手の人たちは毎日実習にはげんでいたけれども、私は1日中仕事をするわけではなく、暇があったので、ソルボンヌ大学へ行って講義を聞いたり、手当を節約した金でドイツ・オーストリア・イタリア・スエーデン・デンマークなどの各国を旅行したりして、各国の工場、学校、教会などを見て歩いた。とくにそのころのヨーロッパは第1次世界大戦の混乱と疲弊がまだ残っており、アメリカのドルや日本の円がハバを利かせていた時だけに、ヨーロッパでは相当楽な生活をすることができた。

    イギリス婦人の訪問

     パリに着いてからしばらくすると、かねて大西洋航路で知り合ったあの婦人が、パリに来た。彼女としては、パリ見物かたがた来たわけであったが、私の同僚には、私がイギリス婦人に追いかけられていると映ったらしく、そのことがすごい噂になってしまった。

     私としては、その婦人がわざわざパリまで訪ねて来てくれたことは、ありがたくもあったが迷惑であり、非常に困ってしまった。なにしろ、イギリスでは1ヵ月もの間あちこち歩きまわって来て、着任が相当遅れたし、イギリス婦人がパリまで追いかけてくるということが重なってしまっては、かの小野中佐との間もいよいよまずくなってしまった。私には、この事件はまさに冷汗三斗の思いであった。

     私の下宿は、パリ郊外のラ・ガレーンという村にあった。そこはパリから電車で30分くらいの所であった。同僚はあちこちに分かれて下宿していたが、私の下宿の家族は鉄道省の技師をしていた人の未亡人とその家族たちであった。私はここにフランス滞在中ずっといて、下宿の娘にフランス語を習ったり、村の娘たちと「ファウスト」の劇をやったりした。

     私はアメリカとフランスの下宿にそれぞれ1年以上いて、両国の富の違いというか、物の使い方に大変な開きがあるのに気づいた。アメリカでは、いらないものをドシドシ捨て、食べるのも豊富であったが、フランスでは安価でしかも栄養のあるものをうまく使っていた。

  • フランスの寺子屋へ入る
    フランス語の先生と
    フランス語の先生と

     私がアメリカで習ったフランス語も、いざ本場で使ってみると、なかなか通じなかった。そこでもう一度本当のフランス語を習おうと思って、フランス語の先生をやとって勉強していたが、まず外国語をマスターするには、根本からやり直さなくてはと思い、私は下宿の近くの寺子屋みたいな小学校へ入って、イロハから習いはじめた。

     そのころのフランスでは、日本と違って小学校は寺子屋式のものが多く、その上日本のように1年たたなければ2年に上がれないというようなことはなく、試験に合格すればドンドン進級して行くという制度であった。そこで私は3ヵ月くらいで小学校を出て中学校へ進んだ。ここも3ヵ月ほどで終えた。それからさらに、日本の旧制高工程度のエコール・ポリテクニックに行き、同時にソルボンヌ大学でも講義を聞いた。

    高かった日本円

     1910年代後半のヨーロッパは、第1次世界大戦が終わって、軍事的には強力な火砲や飛行機の出現などある程度の進歩があったが、政治的にも経済的にも相当の混乱を見せていた。とくに敗戦国となったドイツやオーストリアでは、貨幣の下落がはなはだしく、悪性のインフレになやまされていた。

     それに引きかえ、日本は連合国側に立ち、数々の手柄を立てたので、海外諸国の人気はよく、日本の円もこのころが最も価値のあった時であったので、経済的にもハバが利いて、最も良き時代であった。

     私の当時の手当をフランスの貨幣に換算すると、月に5,000フランほどになった。ちょうどフランスの金は日本の1/10ほどにしかならなかったから、当時のヨーロッパの日本人は、みな楽な生活をすることができた。

     フランスではそのころ、独身で中くらいの生活をするには大体月に1,000フランもあれば十分であった。私の場合はせいぜい月に2,000フランも使えば十分で、そんなにあくどい遊びもしなかったから、金も大分余った。

     私はその余った金で、日本へ帰国する3ヵ月ほど前に、ヨーロッパ各国を見て歩こうと考え、まず食事したり切符を買ったりするくらいのことはできる程度のイタリア語を習ってから、イタリアへ入った。

     それからさらにバルカン半島に入って、東ヨーロッパ諸国をたずね、そしてスペインにも行ってまたパリへ帰って来た。そして今度はドイツ語を習って、ドイツからベルギー、オランダ、デンマーク、スエーデンと北ヨーロッパにまで足をのばした。

     その点、ヨーロッパは交通機関が発達しており、それがパリを中心にすると方々に鉄路がのびているので、大変に便利であった。その時はただめずらしい所を見てまわりたいという気持の方が大きかったが、いま思い出すとあの旅行は私の考えを大きくさせるのによかったと思う。

     余った金を日本に持ち帰っても何もならないし、こうした旅行は決して無駄ではなかった。書物を読んだり旅行したりすることはすぐには役立たないようでも、一生のうちにはいつか価値の出る時があると思う。

  • 第1次大戦後のドイツで

     ドイツにはかれこれ1ヵ月近く滞在した。そのころのドイツは、第1次世界大戦の敗戦国でもあり、ひどく疲弊していた。国内の産業は破壊され、深刻な食糧不足が一層それに拍車を加えた。国内には悪性のインフレが進行していて、ドイツ人は1日ごとに暴騰して行く物価に、その日の食べものにも困るという、非常に気の毒な状態におかれていた。

     私がドイツに入った時は、それが最もひどい時で、いまでは考えられないほどの1日ごとのインフレであったので、紙幣の発行高がうなぎ上りにふえ、金を持って歩く時は大きなトランクに紙幣をぎっしりつめて行かなければならなかった。

     ドイツに入った日は、ベルリンのティア・ガルテンの近くの駅に友人が迎えに来てくれる約束であったが、何かの手違いで友人が来なくて困ってしまった。夜も遅く、西も東もわからないで駅の構内にたたずんでいると、婦人が「どこから来たの」と言いながら近づいて来た。

     「日本から来たが、友人が迎えに来てくれないので困っている」と言うと、その女性が「私が世話をしてあげる」と言うので、渡りに舟とついて行ったところが、その女性の家であった。こうして私のドイツでの第1日は、奇妙な形ではじまった。

     またドイツでは、ぜひ研究所や工場を見学したいと思ったのでガイドを募集したところ、6人ほどの応募があった。その中に、ある大学教授の娘さんがいたので、その人に案内を頼むことになった。日当が20マルクだった。1マルクが当時日本の2銭であったから、1日20マルクの日当というと、日本の金で40銭であった。私は気の毒に思って、ホテルで食事をとって上げるということで、1日20マルクで案内してもらった。戦後のことで大学教授も悪性インフレで生活が苦しく、娘がアルバイトに出たというわけである。

    インフレに悩むヨーロッパ

     そして私はドイツからオーストリアに入った。国境に税関があって汽車が止まった。乗客は全部荷物を税関まで持って行って、検査をうけなければならなかった。税関の検査をすませてもとの自分が坐っていた席へ戻ると、そこに大きな外人が坐っていた。

     私は、これは自分が坐っていた席だからどいてくれと言うと、向うの返事は「君はこの席をリザーブしてあったのか」ということであった。これには私も一本参ったが、とっさに大きな声で「このバカヤロー」と日本語でどなると、その男は大きなカバンを下げてノコノコとほかへ行ってしまった。しかし、後味のきわめて悪いことであった。

     ほどなくオーストリアの首都ウィーンに着いた。ドナウ河の岸辺にあるこの音楽の都も、ご多分にもれずインフレに苦しんでいた。戦前には日本の1円の価値があった1クローネが、その時はわずかに2厘にしか当たらなかった。まさに貨幣価値は1/500の下落であった。

     日本の円を両替えすると、トランクに紙幣をつめなければならないほど多くなるという状態であった。レストランで料理を食べると、2,000クローネくらいで、オーストリアの人にはとても手が出ないが、われわれ日本人にはわずか4円くらいであったから、なにしろ安いものであった。

     その2,000クローネも、一々数えていられないので、ワシづかみでロクロク計算もせずに支払い、ボーイのチップにも大体500クローネから1,000クローネやるという気前の良さであった。またそのことがそれほど苦にならなかったのだから、まさに極楽であった。

     悪性のインフレであったから、1日はおろか1時間の違いで貨幣価値が相当変動した。ドイツあたりでは、インフレがあまりに進んで、億や兆の単位を突するという状態であって、ついにレンテン・マークというのを発行する有様であった。このレンテン・マークというのは国に貨幣の裏づけになる金がないので、国の土地や森林を貨幣の裏づけとして発行したもので、まさに思い切ったインフレ防止の手段であり、この結果ようやくインフレもやみ、それからドイツの経済状態は良くなって行った。

  • ウィーンの快い思い出

     話はオーストリアにもどるが、ウィーンで非常に感動したことがある。

     私はウィーンで通貨が安かったので、みやげものをたくさん買った。そこで、それを入れるトランクを買おうと思ってある店に立ち寄った。そこで8,000クローネのトランクを見せてもらったところ、ハンドルにサビがあったので、女の子にもう一つのトランクを出してもらった。ところがその値段は、品物が前と全然変わらないのに、12,000クローネの正札がついていた。

     私は不思議に思って、どうして値段が違うのかと聞くと、仕入値段が違うからだと言う。こっちの方はあとから仕入れたから12,000クローネだとのことであった。そして買ってくれるならこの正札を変えて、気に入った方を売ると言う。実に気持のいい話であった。日本だったら、先に8,000クローネで仕入れたものを、すぐ12,000クローネに変えたであろうと思うと、余計に気持のいい話であった。

     私はその売子にチップを上げようとしたが、なかなか受け取らなかった。売子が言うには、「私は売ることが自分のビジネスであるから、お客さんからチップをもらうわけにはいかない」とのことであった。ちょうどその時、ウィーン駐在の外交官の出淵さんから、ウィーンの国立劇場の切符をもらっていたので、それを与えると「これならいただきます」と喜んで受け取った。

     ヨーロッパ各国の商人はきわめて良心的で、その点日本で見られるようなずるさはないと思わせられたことが、ウィーンだけでなく、ロンドンでもあった。

    のちにロンドンでも

     大分あとの話になるが、私が昭和26年にイギリスへ行った時、純毛のセーターを買った。いまも持っているが、その値段が2ポンド(約2,000円)であった。この時の話だが、はじめ店先にスフが入っているセーターが、3ポンドの値段で出ていた。

     私は店の主人に「イギリスは毛糸が非常にいい所だと聞いているから、ぜひイギリスの純毛のセーターを買って行きたい」と言うと、それではずっと前に仕入れたものがあるからと言ってさがし出してくれた純毛のセーターが2ポンドだと言う。

     そこで私が「スフ入りのセーターが3ポンドで、純毛のセーターが2ポンドではおかしいではないか」と聞くと、その主人は「この純毛のセーターは以前に仕入れたものだが、いまはスフを20%入れたものでなければ売れない国法になっているので、いまのはスフが入っているが値段は高い。あんたが折角日本から来て、イギリスの純毛セーターを買いたいと言うから、前に仕入れたものをさがして持って来た」と脱明してくれた。

     このように正札主義をつらぬき通すところにヨーロッパ商人の良さがあり、目先の利益にとらわれやすい日本商人としては、ヨーロッパ商人のこの態度に、大いに学ぶべき点があるのではないか。

  • 同僚との衝突

     こうして私の帰国もせまって来たが、ロレーンの発動機特許の受け取りには、私も相当の働きをした。ちょうど私がフランスに滞在している間に、私は海軍技師に任ぜられ、地位も判任官から高等官に昇格した。これは大正9年8月のことで、私が明治43年に海軍に入って以来11年目、私の31歳の時のことであった。こうして私は、一人前の技師として海軍から認められたことになった。

     しかし7等官という官等から行くと、日本から来た技手たちと一緒について来た花島孝一、庄司健吉という大尉の人たちより下の身分であった。しかし仕事の面では、この人たちより私の方が上であり、つい私も出しゃばるので、この2人ともウマが合わなかった。この2人とはことごとに意見が衝突し、まるで仇敵のような間柄となってしまい、私は日本へ帰る船中でもしばしば喧嘩し、のちになって2度も煮え湯を飲まされる羽目になってしまった。

     私はこの2人と、ロレーンの発動機につけるマグネットの研究のことで衝突した。私はこれをぜひ研究して行こうということを提案した。ところが彼らは、マグネットの研究などは命令されていないから、する必要はないと主張して、私の意見は入れられず、もの別れになってしまった。

    もらい損なったレジオン・ド・ヌール

     ロレーンの発動機特許の領収が終わると同時に、われわれ高等官に、フランス政府が、レジオン・ド・ヌール勲章をくれるという話があった。この勲章は、日本では勲三等の帯勲者がうけるのと同じくらいの待遇がうけられるもので、外国人がフランス政府からこの勲章をもらえるということは、非常と名誉なこととされていた。

     しかし私は、前にも小野機関中佐との一件があって、ウケは良くないし、花島、庄司両君とも仲が悪いので、私だけがオミットされ、とうとうレジオン・ド・ヌール勲章をもらうことができなかった。

     その時の私は若くもあり、そんなものはどうでもいいと思っていたが、戦後ヨーロッパに行った時に、あの勲章をもらっていれば通りもよく、いろいろ有利であったのにと思うと、残念でならなかった。

     そんなことがあって、日本へ帰る船中でも花島、庄司両君とは反目し合い、沢守源重郎君と2人で、印度洋の真中であの連中けしからんから、海の中へブチ込んでやれと相談したが、マルセーユ港出帆以来、同船したイギリス海軍大佐センピル氏一行の接待と、船長や機関長、それにインドのボンベイから虎狩りを終えて乗り込んで来た徳川義親氏、それにもう1人外務省のお役人とともに、デッキで花札遊びに夢中になっていたことなどで失念してしまい、そのまま無事に神戸港に着いた。

  • パリ娘、別れを惜しむ

     さて前へ戻るが私もロレーンの発動機の特許権受け取りも終わり、まる3年ぶりで故国日本へ帰ることになった。私は1年以上もいた下宿で荷物をまとめ、いよいよ明日パリをたち、マルセーユから乗船するという日になった。

     私がパリ滞在中ずっといた下宿には3人姉妹がいたが、その中の娘が私の都屋へ来て、何か知らないが、頬をピクピクさせている。私は不思議に思って「どうした」と聞くと、「私にキスして」と言った。私もこの言葉に驚いたが、結局私にほれているということがわかった。

     私も気づかなかったが、なぜ早く心の内を言ってくれなかったかと残念に思った。もう今日出発するのではどう仕様もなかったが、1人のパリ娘が私に好意を持ってくれ、しかも別れを惜しんでくれたことに対して、私も悪い気持はしなかった。そこで私の着ていたガウンとか絹のものがあったので、それを彼女に記念に与えた。

     先年私がフランスへ行った時、それからすでに30年余もたっていたが、大使館に問い合わせたり、昔の下宿を訪れてみたが、一向にわからなかった。

     たまたま「欧州機械見本市」で知り合ったクリ・ダンという機械メーカーの社長にこのことを話すと、快く車で案内してくれた。さすがにフランス人だけあって、すぐさがし当ててくれたが、あいにく家族が海水浴に行っているとかで、会うことはできなかった。しかし昔のおかみさんも健在で、相当のお婆さんになっているとか、当時の娘さんは結婚して子供がいるとかいう話を近所の人から聞いて、絹のハンカチなどを託して帰って来た。

     これにはさらに余談がある。私を案内してくれたクリ・ダンの社長は、私の思い出に大変同調してくれて「あなたのような人に自分の会社の機械を日本に広めてほしい」とまで言った。しかし私は「自分は機械の製作を専門とする者ではないから、日本の専門家を紹介しよう」と言って、候補として大隈鉄工所、池貝鉄工所、津上製作所などのことを話した。そのうち津上製作所がガストン・ドレー氏(元フランス造船中将、戦後わが国の設備賠償フランス代表として来日、現在は機械ブローカー)の仲介で代理権を持つことになった。

    センピル大佐を知る

     私がマルセーユから乗った船は、佐渡丸といって、日露戦争の時に沈められたものをふたたび引き上げて欧州航路に使った船であった。この船には、海軍に高等飛行術を教えるために霞ヶ浦に招かれたセンピル大佐が、奥さんや子供、部下6人をつれて乗り込んでいた。日本では、まだ宙返りなどの戦闘飛行ができなかった時分なのでセンピル大佐を海軍が招いたのであった。

     同行していたこの人の奥さんはヒステリックで非常にやかましい人であったが、私にだけはどういう訳か「ミスター・アマノ」を連発して、寛容であった。そういうことで、船中ではまるでセンピル夫人の小使いみたいに使われて困った。しかしそのために、私は日本に帰ってからしばらく、霞ヶ浦の宿舎に滞在して、センピル大佐の世話などをした。

     後年、ロンドンに立ち寄った時に、このセンピル氏を思い出して電話をかけ、会うことになっていたが、その時にはすでにセンピル卿になっていて、上院議員であった。しかし彼とはわずかの差で会うことができず、ロンドンを去ったのは残念であった。

     私が佐渡丸で神戸へ着いたのは大正10年8月の暑い盛りであった。3年ぶりの故国の夏がとてもまぶしかった。

  • フォッシュ元帥と私

    昭和30年5月の雜誌『青淵』から転載

     第1次世界大戦で、ドイツのヒンデンブルグ軍の総攻撃をベルダン戦線でよく食い止めて戦勝に導いた連合軍総司令官フォッシュ元帥は、背の高い温和な紳士であった。

     私は37~8年も前に元帥と親しくお話する光栄を得たのであるが、いまでも元帥の姿が眼底から離れない。

     私のような一介の野人が、どうして当時武勲赫々たる「時の人」に親しく話をすることができたかと言えば、私は第1次世界大戦後海軍の文官としてフランスに滞在していた。その時の大使は石井菊次郎氏で、石井大使がフランス政府の高官を大使館へ招待したことがあった。

     同国の大統領、将星、大臣等多数が来会し、三浦環女史が例の「マダム・バタフライ」を歌った。日本側は石井大使のほか渡辺錠太郎陸軍大将(当時大佐)、大角岑生海軍大将(当時海軍大佐)等々が出席していた。

     私もその末席をけがしていたが、フォッシュ元帥が来館されると、どういうはずみであったか、最初に私と顔が会った。私が早速挨拶したところ、彼は10年の知己のように親しく私に話しかけたのである。それはまったく予期しないことで、私も少なからずあわてた。もちろん私は彼とは初対面である。ちょうどその時渡辺錠太郎氏が来て、いかにも元帥と私とが親しげに話をしているのを見て驚いたように「君は元帥とは親しいのか」と言われた。その後のことは長い前のことで記憶にはないが、3人でしばらく雑談したように記憶する。何を話したかも忘れてしまったが、とにかく元帥の実に立派な姿だけが、はっきりと忘れえないものとなった。

     以来30数ヵ年は夢のように経過し、1951年私は、ベルギーのブリュッセル市で開かれた国際科学的経営会議に出席した機会に、その昔2年間暮したパリ市を訪ねた。ふたたびパリを訪れようとは予期しなかった私には、夢が実現したようで、あれもこれもと半月あまり見物して昔なつかしい思い出にひたったが、その一つにパンテオンがある。

     ご承知のようにパンテオンは、パリ見物にはのぞくことのできない名所の一つである。入口の階段から1歩降りたところの地下右側に、等身大の兵士数名がになっている元帥のひつぎが目に入った。私は元帥の逝去された当時、日本の新聞でその写真を見たのであるが、いま眼前に彼のひつぎに接して感慨無量で、まったく血縁の墓にもうでた心地がして自然に目頭が熱くなり、そこを去るにしのびなかった。

  • 第8章 海軍航空試験所時代

    海軍航空試験所へ

     神戸に着いてから、みんなそろってそのまま海軍省へ出頭しようと思っていたところ、同行の機関中佐庄司健吉君が「お互いに故郷からしばらく離れていたから、一ぺんそれぞれ故郷に帰り、3日後に海軍省へ出頭しよう」と言うので、私はその約束を信じて神戸から石薬師へまっすぐに帰った。

    大礼服を着用した筆者
    大礼服を着用した筆者

     村では先例のない洋行帰りと言って、旗、提灯の大もてで、青年会の歓迎、同級生の特別接待、洋行談、親戚知人いたる所で歓迎された。父も村ではじめて自分の息子が洋行から帰って来たというので、喜ぶやら自慢するやらで、またたく間に3日間がすぎてしまった。

     私は海軍省へ出頭し、上官である山内万寿治中将(当時海軍艦政本部第2部長)のところへあいさつに行ったが、なぜか面会しないという。どういう理由かと思って、先任部員をしていた河野三吉中佐に聞いてみると、ほかの人はみな帰ってくるとすぐ海軍省へ来て、あいさつして行ったということであった。

    河野三吉中佐
    河野三吉中佐

     このために私は、出張の報告もしないで故郷へ帰るとはけしからんということになっていた。私としては、山内中将がカンカンに怒るのも無理はないが、庄司君にだまされたのであった。そこで河野中佐に、どうしたらいいかと聞いたら、まあ部長の家をたずねたらどうかと言ってくれたので、イギリスから買って来たステンレスのナイフとフォークを持って山内中将の家へ行き事情を話した。

     私としては、帰国早々とんだひっかかりをつけられたわけであったが、山内中将はそれで私の行動についての事情を理解してくれて「君もそういうことなら、折角広工廠へ行ってロレーンの発動機を作ってもらうことになっているが、君だけは別行動を取って航空試験所へ行ってくれ」と言った。

     海軍航空試験所は、非常に愉快な学者ぞろいであって、所長の河野三吉氏もなかなかの勉強家で、また人柄も良かったが、惜しくも早死した。この人の集めた航空機に関する文献は大したものであった。私は、河野さんが死ぬ時に、どうかあとはよろしく頼むと言われたものだから、河野さんのあと始末を全部やったところ、実に立派な航空機の調査書類が出て来たので、これらをすべて軍務局長に提出した。

    草創期の飛行機研究

     私はその年に、戦利航空機実験研究委員を命ぜられ、第1次世界大戦で分捕ったドイツの飛行機や飛行船の研究に参加した。しかし海軍航空試験所では、私は研究に必要な資材の収集、設備等を引き受けた。ほかの所員には当時命令で決められていたタイムレコーダーの使用は守らなくてよいから、自由に立派な研究をしてほしいと言った。

     ということは、研究員は時間通りに研究室に来たからと言って立派な研究ができるわけではないし、眠ければ朝寝してもよいが、その代わりやることはやってもらいたいということにした。しかし月に1回だけ、研究報告を出す義務のあることを約束してもらった。

     すると研究員はみな双手をあげて賛成してくれ、ほどなく研究成果も従来以上に上がり、私のこの思い切った試みは、大成功を収めた。

     考えてみると、この海軍航空試験所で仕事をしていたころが、私にとって最も楽しい時であった。上官にもめぐまれ、私も大いに力を出し、やり甲斐のあった時期と、いま思い出してもなつかしい。

     この草創期の研究についてのエピソードを一つ。それは、第1次世界大戦で非常に働いたドイツの飛行機ハンザ・ブランデンブルグを分解した時のことであった。これは日本が分捕ったものを分解して、そのままのものを作って強度試験をしようとしたもので、もちろん当時は木製の飛行機であったので、カマチを分解してみたところ、細かい杉や桧などがまるでモザイクのようにつぎ合わせてあった。

     なにぶん、日本のその方の知識も初歩の時分のことではあり、その通りに、不思議に思いながら、立派な材料を細分し、ニカワでくっつけて試験した。その後聞もなく、ドイツのゲッチンゲン大学からウィルスベルゲルという、まだ27〜8歳の少壮の研究員を風洞の設計顧問に呼んだので、彼にそのことを話したところ、「実は戦時中材料が足らなかったから、あちこちの材料をつなぎ合わせて作ったのだ」ということがわかった。

     あとで聞いてみれば何のことはなかったが、そのころは何もわからなかったので、真正直にわざわざ大きな木を小さく切って製作したというのであった。

  • ジェラルミンの研究

     やはりそのころ、東京大学にも航空機研究所があり、海軍と東大とが協同して、日本の航空機発達について研究をすることになった。当時東京の越中島にあった東大の研究所で会合し、田中館愛橘博士、和田小六博士(元東京工大学長)などそうそうたるメンバーが集まった。

     ここでの話から、私は第1次世界大戦でドイツがイギリスを攻撃した飛行船に使われていたジュラルミンの試作を行なうことを提案して、早速その試作に取りかかることになった。いまでこそジュラルミンは、どこにも見られるが、大正10年ごろはまったく新しい金属であった。アルミニウムに類するこの軽金属は、重量の少ないわりに強じんな性質を持っており、飛行機の機材に最も適したものとして、そのころから一部識者の間では注目を浴びていた金属であった。

     ちょうどそこへ、ドイツからこのジュラルミンを研究調査して来た技師長畑順三君が帰国した。同君は昭和20年まで海軍技師として追浜の海軍航空廠の研究部員としておられて、大正11~12年ごろから、すでにジェット機の機想を持っていた人であった。

     そのほかに陸軍から植村中佐(のち中将)、東大からは山崎理学博士(当時東京工業試験所長であったと記憶している)、海軍からは横田成沽氏(海軍はじめての飛行機横廠式の設計者)と私とが委員になって、いまは後楽園野球場などがある小石川陸軍造兵廠で試作をはじめた。

     そこではまずジュラルミンのインゴットを鋳造し、これをローラーにかけて板材に成形し、さらにドローイングベンチでアングルに変形したのである。こう書くときわめて簡単に出来たように考えられるが、その時にはジュラルミンの成分、強度さえも、ある点以上は想像であって、長畑者の調査した数字を基礎とするだけであった。

     だからしばしば失敗し、この試作品を完成させるのに、大正10年秋から11年夏まで約10ヵ月を要し、その間ほとんど日に夜をつぐという努力を重ねた。これでやっと出来上がったジュラルミン材を使用して、第1次世界大戦で分捕った飛行船と同じ骨組を作って抵抗力の試験を行なった。

     これが完成して十分工業用にたえうるようになると、その製法を古河電工と住友金属にゆずり、両社で軍用材料を製造し供給することになった。この結果、わが国の航空機工業が大幅に進歩したことはもちろんであったが、そればかりでなく、このすぐれた金属を民間にも供給できるようになった。

    大谷重工、大隈鉄工との機縁

     このころ私は、いまは相当な会社になっているものもふくめて、2〜3の会社を救ったことがあった。

     いま書いたジュラルミンのインゴットを作る時に、これから板につくるのにチルド・ロールが必要であった。これを住友金属や大同製鍋などの会社へ見積らせた時に、その中に大谷重工という会社が入っていた。見積価格を見ると、住友金属の1/3くらいであった。あまり安すぎるので、私は大谷米太郎社長を呼んで事情を聞いたところ、これが売れないと工場が立ち行かず、給料などの支払いもできなくなるということであった。

     そこで工場を見に行くと、東京の本所にある職工が6人ほどの土間の小さな工場であったが、作っているものは良い出来のものであった。私はあまりに気の毒であったので、そんな値段にしなくとも、営業のできる価格でもう一度見積を出させて、ほかの会社の2/3くらいの価格で納められるよう計らってやった。大谷社長は大喜びであった。

     もう一つ、大正13年に私が名古屋駐在の監督官をしていたころ、いまは大きくなっている大隈鉄工所を救ったことがある。そのころは同社は名古屋市高岳町にあった小さな工場で、工員は30~40名くらいであった。そこへ海軍から10台ほどのツール・グラインダーの注文をした。

     製品が出来上がり、検査してみると、どうもうまく行かなかった。ここも年末にさしかかって、この検査が通らないと銀行から金がもらえないという状態であった。

     それを聞いた私は、ここでは検査合格の判を押しておきますが、あとでよく直して納めるようにしなさいと言ったことがあった。これが機録となって、当時同社の技師であった村岡嘉六君――この人はのちに名古屋商工会議所会頭などをつとめて、中京財界で重きをなしている――と知り合いになり、今日にいたるまでおつき合いをしている。

  • 東京瓦斯電気との関係

     それ以前にも東京瓦斯電気という会社を同じく救ったことがあり、この時のことはのちに私が事業をはじめた際にはからずも役立ったので、ここでふれておきたい。

     それは大正6年のことであった。横須賀の海軍工廠造兵部にいた時、“八八艦隊”建造の仕事に追われて、いろいろな部品の製作を海軍経理部から民間工場に請負わせたことがあった。

     たまたま、東京瓦斯電気という会社へその大量の注文が出た。この会社は、社長が明治の元勲松方正義氏の子息五郎氏で、ホーロー鉄器と機械製作の両方を半々ずつやっている会社であった。しかし、納期通りに注文が収まりそうもないので、私はある日督促のために、その工場へ行くことになった。

     工場は深川の小名木川にあったが、私がそこへ行くと、いきなり松方さんほか4〜5人の者が私の前で平身低頭している。「どうぞこちらへ」と言って案内されて行くと、そのまま人力車に乗せられて、「八百善」という向島の大きな料理屋につれて行かれた。

     そこへ着くと、すぐ松方さんは「どうかお見のがし下さい」と言う。私も25~6歳の若い時分で、正直のところ松方五郎というりっぱな人に最敬礼されるのはむしろ気持が悪かった。

     事情を聞いてみると、大森の駅のそばに大きな敷地を買って新しく工場をつくるのだが、その増資をするために銀行からの援助を得てやらなければならない。それには、海軍から膨大な注文が来ていてこれを仕上げねばならぬということを見せる必要がある。ところが海軍から材料をうんともらっているが実際はできなくて、工場に積んでおいてあるというような次第であった。

     そこで私は、この注文をやり遂げるつもりがあるかどうか聞くと、それはやるつもりはある、しかし設備もなくてやれないという答えであった。それならば、私は芝方面で海軍の仕事を専門にやる工場を知っているから、良ければ紹介して上げます、ただし、入札してあなたの方が最低で勝ったのだから、外注に出すと入札時の金額よりも高くなりますがと言うと、それは結構ですということになって、三田あたりにあった田岡とか朝比奈とかいう工場に仕事を分けてやった。

     そうなると、この注文が納期通りに行くかどうかは私の責任にもなるので、私は土曜も日曜も工場へ行ってはげました。とうとうそれも納期通りに出来上がり、私も安心したし、また東京瓦斯電気もそのために増資ができ、大森にりっぱな工場を建てることができた。

     この会社はその後いすゞ自動車になったが、時へて私が昭和6年にタイムスタンプを作った時に、見本を瓦斯電気に持って行ったところあの当時は菜ッ服を着ていた人々が、すでに技師や支配人になっていて私を知っていた。この好都合もあり、また先方でも工程管理をしなければならないと思っており、ちょうどタイムスタンプを買おうとしていたというタイミングのよさもあって非常に喜ばれ、早々に16台の注文をもらった。

     私のこのちょっとした好意が、私が事業をはじめた時の最初の納入先となってみのったことになった。人間、何が機縁になるかわからないということを、私はこのことを思い出すたびに身にしみて感じさせられている。

    試験所の基礎固め

     河野中佐が所長在任中死去し、海軍航空試験所の所長は田村孝次中佐が所長代理に任ぜられたが、間もなく上田良武大佐が所長に任ぜられた。試験所をさらに充実させるためには、各大学の少壮の学者を取らなければいけないということで数名スカウトし、予算をもらって外国へ出張させたり、また内地の工廠、工場などへもしばしば出張させたりした。そして試験所を拡大するために、さらに大きな研究所を建てなければならないということで、理想的な研究所を設計し、460万円もの大きな予算を請求することになった。

    海軍試験所の人々:前列右から5人目が筆者、その左2人目が上田氏
    海軍試験所の人々:前列右から5人目が筆者、その左2人目が上田氏

     大正11年のことであったから、460万円と言うと、まことに大きな予算の請求であった。これを議会に出したところ、いくら何でも、こんなに大きな金額では通らないということで、思い切りちぢめて1/10の46万円の予算として提出した。

     その間の1週間ほどは、議会だ説明だというので、その基礎資料を出すのに懸命になった。そのことから私は、議会の表面的な説明というものは、大臣とか局長クラスがするけれども、その裏に説明の材料をつくる下僚が、夜も寝ないでいかに議会の開会中は苦労しているかということを、身をもって知らされた。

     こういうことから、結局追浜の海軍航空廠が出来た。日本の飛行機は、まだ当時は草分けの時代で、私自身そのころにいささかの力をふるうことができたことを誇りに思っている。

     そして46万円の予算がつつがなく議会を通過し、追浜のあたりに航空研究所の場所を決め、飛行機の研究・試作・実験の三者をかねたものを計画した。ところが間もなく関東大震災が発生し、追浜の敷地買収が決まらなかったから、急きょ霞ヶ浦に試験所を作り、追浜の敷地が決まってからそこが海軍航空廠として発達した。しかしその時私は、すでに民間人になっていて、その基礎づくりにたずさわっただけであった。

  • 軍縮・名古屋転任

     しかしそれと同時に、第1次世界大戦後急速に巨大な軍備を持つに至った日本海軍のことが国際的な問題となり、アメリカ・イギリスなどの海軍とともに5・5・3の比率で軍縮が行なわれることになり、ワシントン軍縮会議が開かれた。

     この余波をうけて航空試験所の方も、たくさんの従業員に辞めてもらわなければならなくなった。私がその首切りの責を負っていたから、これが終わり次第に辞職するつもりでいた。上田所長にもその旨申し出ていたが、その許可が下りなかった。そして、追浜の航空機試作実験所の設計を完備させるという条件で、海軍を辞めさせてもらうことになった。

     しかし実験所の設計が出来上がると、私は名古屋駐在の監督官へ転勤することを命ぜられた。私も海軍を辞めたからといって、別に就職口があるわけでもなく、やむなく名古屋の監督官になった。大正12年4月のことである。

    現在の妻と結婚

     その9ヵ月ほど前、久しく独身であった私は第二の妻貞子を迎えることになった。これが現在の妻である。たまたま私の大阪高工で2年先輩であった米花伊太郎君の奥さんが、彼女の女学校の1年先輩で、そんな関係から私と結ばれた。

    妻貞子の若かりし頃
    妻貞子の若かりし頃

     2人の間に縁談が持ち上がって、私の方はOKである旨を仲人役の米花君に伝えたのに、同君からは私の方に何の答えもなかった。男の方がOKと言っているのに、女の方から何とも言って来ないのはけしからんと思って私は彼女の家を直接に訪問した。

     私がたずねて行くと、玄関に彼女が表われたが、「アラ」と言ってすぐにはずかしそうに姿を消してしまった。すると間もなく彼女の母が現われ、招じられるままに座敷に上がると「実はもうとっくに、お願いしますと米花さんの方にお答えしてあります」とのことだった。

     こうして大震災の前年の大正11年7月17日日比谷大神宮で結婚式を挙げた。以来彼女は2男1女をもうけきわめて教育熱心でそれぞれの育児に当たり、私をして後顧の憂いをなくしてくれ、私も十分に自己の仕事に打ち込むことができた。

  • 関東大震災

     間もなく2男の和夫(現在立命館大学法学部教授)が生まれたが、私は単独で名古屋に赴任した。そして名古屋で仕事にもなれ、住居も落ち着いてから家族を迎えた。それから間もなくの大正12年9月1日、関東大震災が発生した。私も家族も、もしあの転任がなければ、被災をまぬがれることはできなかったであろう。思えば、人生の転機はどこにころがっているかわからないものである。

     この関東大震災と同時に、築地の試験所もまた灰じんに帰してしまった。しかし、私がかつて獲得に尽力した46万円の予算によって、早速霞ヶ浦に試験所を作ることができた。

     この大震災の知らせを聞くや、名古屋にいた私は、その当時名古屋で神野、岡谷の諸氏と共に私が中心であった「工政会」から寄付を得て、駆逐艦でカンヅメや食料品を急送した。東京に急行するには、鉄道はもちろん不通で、船しか交通機関がなかった。

     東京は一面の焼野原で、朝鮮人の暴動があるなどというデマが乱れ飛んでいた。当時の東京市長は後藤新平氏であったが、私は後藤さんに東京をベルリンのような街にすることを献言した。第1次世界大戦の戦火をうけたベルリンはメインストリートをすべて6階建で統一していた。そうすれば将来飛行機が発達した場合に、それが滑走路になるから、東京もそのようにすることを献言した。

     東京も、大震災でやられた直後なら、そのようにすることができると思った。後藤さんも、それには非常に乗り気になったが、とうとうそれも実現できなかった。いま考えると、私も割合先見の明があったと思っている。

    航空試験所の快い思い出

     フランスから帰って名古屋駐在監督官に転出するまで、まる2年間のこの海軍航空試験所は、私が最も愉快にすごすことができた時期で、河野三吉、上田良武という良い上官にもめぐまれて、存分に腕をふるうことができた。とくに私自身、わが国飛行機の発達にいささかの力を出すことができた。

     私は海軍に在職中は、比較的上官から憎まれ、つねに不満をも抱いていたが、この時代はいまも私の楽しい思い出となっているように、私にとって忘れることができない日々であった。

  • 座談会の様子
    左から小屋寿、筆者、福井勇蔵、実吉金郎、渡辺与市の諸氏

    〈座談会〉 5

    海軍航空試験所時代を語る
    とき
    昭和37年5月7日
    場所
    横浜崎陽軒で
    出席者
    小屋 寿(天野特殊機械嘱託)
    実吉金郎(ビクターオート(株)取締役)
    福井勇藏(古河電工嘱託)
    渡辺与市(湖南工業社)

    天野 僕が築地の海軍航空試験所に入ったのはフランスから帰ったばかりの大正10年で、あの時はもう実吉君はいたかな。

    実吉 そう、私が入ったあとあなたが来た。しかし若いのに外国へ行ってうまいことをやったと評判だったよ。

    天野 実吉君は僕より若くて、高等文官名簿では僕が一番若かったのに実吉君に破られた(笑)。

    小屋 しかしあのころは呑気だったね。

    福井 あの時代が一番愉快だったよね。

    天野 あの時スキヤキ会やったな。

    実吉 毎年暮に、銀座の松喜にスキヤキに呼んでくれてね。

    天野 あの河野三吉さんの航空界における功績というのは実に大きいと僕は思う。

    渡辺 先覚者でしたね。

    天野 あの人の功績がそう表われていない。気の毒だと思うな。

    実吉 割合に早く亡くなったからね。長生きしていれば大した人になっている。

    天野 河野さんが航空試験所長で、その次の上田良武さんが所長のころも、僕が海軍にいた時分で一番良かった。

    実吉 みんなの気分がなんていうのか、あの時分うれしくて仕様がないという感じだった。

    天野 仕事はスローモーではあったが、相当しっかりやったような気がするね。

    福井 あの時分は、仕事というものに対しては本当に一生懸命だった。欲得なしに、自分のこととか金だとかいうものに全然こだわっていなかった。

    実吉 まあ先端的なものだったしね。

    天野 もちろん、上田さんとか河野さんとかのリーダーシップはえらかったけどね。われわれもあの若さでまじめにやったということは、ひとつの誇りになると思う。

    福井 僕もそう思う。

    天野 僕らがやったことが海軍航空のもとなんだからね、航空廠が出来たりさ。まず海軍航空の歴史の第1ページをかざるものは、あの築地の航空試験所であるべきじゃないかと思う。

    福井 とにかく飛行機が兵器になるかならんかという時だった(笑)。

    実吉 そう、兵器にならなかった。

    天野 ひとつ、ようらん期というのを僕らで編さんしようじゃないか。

    渡辺 そういうことは大切なことですよ。

    小屋 航空機の歴史資料は、僕持っていますよ。

    福井 そういうのが埋れてしまったら、本当にもったいないですよ。

    天野 お互いに昔の写真なんかも持ち寄って集めてみよう。だんだんみんな死んで行くからね。

    福井 もうその当時から、いまの水中翼船ね、あれを考えて模型を作っていましたもの。

    実吉 あの当時としては本当によくやったものですよ。

    天野 こうして集まって話をしていると、年は大分似ているようだね。

    福井 大体昔と変わらないね。

    天野 福井君は少しも髪の毛が変わらない。昔は大分品行方正だった(笑)。

  • 渡辺 福井君はいまでも相当飲むの。

    実吉 もう1,000万円は飲んだろう。

    天野 とにかく、朝来たって福井君の目はトロンとしていたよ。

    福井 それでも確実に出勤して、仕事はチャンとやっていましたよ(笑)。

    天野 僕はね、そもそも造兵だったんだ。それが、人間の運命というのはわからないね。横須賀工廠にいたころ、飛行機に変われ変われと言われた。僕は飛行機は落ちて死ぬからと言って頑張った。飛行機に変われば早く洋行させるというのだけれど、命がほしいからってやめといた。それがアメリカへ行ったら、とうとう黙って飛行機に変えられてしまった。

    福井 フランスには何年くらいいました。

    天野 2年くらいかな。その間、日本の円が強いものだから、いろいろぜいたくをしましたよ。日本じゃできないような。とにかく給料があまって仕様がなかったんだから(笑)。

    渡辺 みんな外国ではいい思いをしてますよ。

    天野 そして航空試験所で工務課長をやっている時に軍縮があって、ずいぶん人を整理した。それで最後に僕も辞めようと思ったら名古屋の監督官に行けと言うでしょう。それからしばらくして、とうとう上官とケンカして海軍を辞めちゃった。

    実吉 誰でした上官は。

    天野 艦政本部の2部長が小倉嘉明という中将で前原謙二もいた。前原に「砂を噛んでも愛知時計にいかんか」と言われてね。それから東北の山を買ったりまでしたが、とうとう食いつめて静岡へ隠退して、中学の教師をしようと思ったこともあった。そこへ上田さんが2部長にかわって、天野どうしているかと言って、それで小屋君が訪ねて来てくれた。だから僕も上田さんを大いに徳としてね。小屋君にも感謝している。

    実吉 講談になるね。

    福井 本当に前原さんという人は、石油缶だったね。すぐ火がつく(笑)。

    小屋 あの人は正直なんだけど、早合点しちゃうんだな。

    福井 だけどあの人は戦後相当苦労したらしい。

    天野 もうなくなったんだろう。

    渡辺 いやまだ生きている。

    天野 僕は静岡にいる時に、恩給を抵当に入れちゃってさ、それで食いつめたわけなんだ。子供は3人いて、どうにもやって行けないんだな。それでも恩給だけは親が受け出してくれて、本当に恥かしい話だけど、僕は家でメシを食わなかった。朝飯だけ食べて碁会所に行くんだよ。昼は焼イモかウドンを食ってね、夜も碁を打って遅く帰る。「ご飯は」って言われても「食べて来た」とは言ったが、本当は腹がペコペコなので、お茶か水飲んで寝る。そして翌日もまた碁会所へ行くという生活だった。

    小屋 それで強くなったんですか。

    天野 段は取っていないが、交詢社で4段の人と互先ですよ。まあ、悲しき思い出だよ(笑)。

  • 第9章 名古屋駐在監督官時代

    プロペラ試作のいざこざ

     私は、名古屋でいまの新三菱重工や愛知時計電機、大同製鋼などもろもろの会社の監督官としての任務についていた。海軍の監督官で名古屋駐在の者は、飛行機方面2人、魚雷方面2人、そのほか庶務担当の者などが、栄町の八層閣という所の5階に陣取っていた。私はこのうち飛行機方面の監督官を務めていた。

     飛行機の中でもとくにプロペラは、当時は木製であって、その縁が飛ぶごとに割れてしまうのが最大のなやみであった。私は監督官を務めるかたわら、このなやみを解消するためにいろいろ考えた。

     とにかく、飛行機それ自身がまだまだ発達していなかったし、プロペラにしても、いまのようにジュラルミンを使うなどとは夢にも思われていなかったころのことであった。一度飛ぶとプロペラなどは縁にササラのような割れが出来てしまい、使えなくなってしまう。それで応急の措置としてプロペラの縁に真鍮の板をはりつけたが、それも間もなくめくれてしまった。この点は陸軍でも同じで、最も難儀していた。

     飛行機のプロペラを完全にするにはどうしたらいいか、これが共通の問題点で、みんなで考えていた。私は、これは金張りの縁から空中の水分が入るのだから、ちょうど糸の端に石をつけて振りまわす遠心力のカーブに金張りの縁を切って張れば、水が縁にそって飛んで出るから入らないだろうという考えから、縁を設計して愛知時計で試作させたところ、非常に結果が良かった。

    プロペラの図
    プロペラの写真
    こんな具合に縁がササクレ立った

     陸軍でもこれを真似てプロペラを作りはじめた。私も、自分の考えが、各方面からの讃辞をあびるのでうれしかった。当時の私は、勲6等をもらっていたが、このプロペラの考案によって勲4等を授与されるという噂があった。当時では勲5等を抜かして勲4等になるということは異例のことで、それだけに天野が勲4等になれるとは大したものだと大評判になってしまった。これから見ても、海軍当局がいかに私の考えを重く見たかがわかる。

     間もなくアメリカから日本まで、無着陸飛行機が2機、途中北海道付近でしばらく消息を絶ってから霞ヶ浦にやって来た。その飛行機に、私が考えたのと同じような方法で、プロペラが金張りされていることがわかった。そこから、天野はアメリカでこの方法を見ていたのを黙っていたのだという者が出た。

     私がアメリカに滞在していた時と、プロベラの実験をはじめた時とは、4~5年のへだたりがあり、それに、そんな不誠実なことが技術者にできるかどうか、自分の誇りが傷つけられた思いがした。こんな馬鹿げたことに、まともに弁解する気になれなかった。

     しばらくして、そういうことを言い出した張本人は、ロレーン発動機の特許権領収の時からイザゴザのつづいた庄司君だということを私に耳打ちした人も出た。

    海軍省へ至急出頭せよ

     これと前後して、愛知時計電機では、海軍のプロペラを作るのに、材料にホンジュラス・マホガニーを使うべきであるにかかわらず、値段がその1/3である南洋のラワン系統のものをたくさん買い込んだ。私はしばしばホンジュラス・マホガニーで狂いのないプロペラを作るよう注意したが、愛知時計電機では、なかなか聞き入れず、南洋のラワン材でプロペラを作った。出来上がったプロペラを検査すると、これがみな不良品となってしまった。

    名古屋駐在監督官時代
    名古屋駐在監督官時代:墜落した飛行機の側で――右端が筆者

     愛知時計電機では、この不良品のプロペラを倉庫へつるしておいて、艦政本部の部長がまわってくると、天野監督官は非常にやかましくてこんなに不良品が出ましたと弁解する。

     当時、三菱、愛知時計電機、中島飛行機という会社は飛行機の三大メーカーであったが、私がプロペラについての経験者であり、また非常に良い考案もするので、愛知時計電機では、私を海軍から引き抜こうとして、私の直属の部長にそのことを話したらしかった。いまでもそうだが、大会社の上層部と官庁の上層部とは、一緒に食事したり話をしたりして、そんなことも平気で相談できたのであろう。ある日海軍から私に「至急出頭せよ」との電報が来た。大正13年12月中旬のことであった。

  • 部長とのやりとり

     海軍省へ出頭すると、艦政本部第2部長の小倉嘉明中将から私に「愛知時計電機に行かないか」という話があった。しかし私は現在海軍に在職して愛知時計電機へ監督官として行っていたから「私はいま愛知時計電機へ行っています」と言うと、「海軍を辞めて愛知時計電機へ行かないかということだ」と小倉部長は言った。

     そこで私は、「それでは部長、話が違うじゃありませんか。私はいま海軍に奉職しているのだから、呉へ行けとか佐世保へ行けとか、あるいは北海道へ行けとかいうなら命令通りに動きますが、海軍を辞めて行けという以上は、辞めろと言うのはいいが、辞めたあとのことを命令されるのは不本意です。きのうまで監督官を勤めていて、きょうからその会社の社員になったら、一体監督官の権威というものはどこにあるのですか。しかも飛行機の方面では、私が文官で最初の監督官ですから、後輩のためにも、そのようなことはできません」と返事した。

     すると、前原という先任部員の中佐が「それでは君、砂を噛んでも行かんか」と怒鳴った。「それでは天野は行きたくないけれども、海軍の命令で辞めて愛知時計電機へ行くということを一筆書いて下さい。私が名古屋でうまくやって愛知時計にすべり込んだように思われても心外ですから」と言った。

     すると小倉中将は、この人はのちに萱場製作所の顧問になったが、名刺の裏にその旨を書いた。それを見て私は、「これは駄目です。あなたは一生海軍にいるわけじゃない。やがては退役になる。海軍を辞めたらこの名刺は通用しないから、海軍のマークが入った便箋に書いて下さい」と要求したら、「海軍では一切世話はせん」と大変怒ってしまった。私はいまもその時の表情と声音をはっきり覚えている。

    退職願を出す

     こうなっては仕様がないので「学生時代から学資をもらい、洋行もさせてもらって私が今日になったのは海軍のおかげだが、あなたのような人が海軍にいる間は海軍の玄関はまたがない。はばかりながら、いま海軍で150円の月給をもらっているが、その2倍も民間でもらってみせる」とタンカを切り、辞職願を出して名古屋へ帰って来た。

     当時はまた、軍人でも文官でも海軍の世話になって民間に出る習慣であり、またそのために収入もふえるから、そのことをかえって喜んだものであった。その時の私の気持は、三菱でも愛知時計電機でもまた大同製鋼でも、私に対して、あなたみたいな人が会社にいればなどと言って、まるで2倍も3倍も給料を出すから、ぜひ来てもらいたいというようなことを言われていたので、若い私はいい気になって海軍省へタンカを切って出たのであった。

  • 14ヵ年半で恩給がつく

     その時に、私の海軍在職年数は14年半であった。もうあと6ヵ月で恩給がつくという時であった。私が海軍に入ったのが、日露戦争から5年たった明治43年7月、そして辞めたのが大正13年12月だった。その間には、軍備拡張につぐ拡張があり、そして第1次世界大戦、そして軍備縮小と紆余曲折があった。

     私の友人も、もう半年我慢すれば恩給がつくとなだめてくれたが、その時はもう恩給などどうでもよいという気分で、友人の止めるのも聞かずに34歳で海軍を辞めてしまった。

     名古屋の家にそのまま帰っていたら、海軍省からふたたび出頭するよう電報が来た。すでに辞職願を出したものを、いまさら出頭しても仕様がないと思っていたが、友人から再三の手紙も来たので、海軍省へ出頭した。すると、あと半年間、大正14年6月10日まで休職にするということであった。

     大正14年6月10日まで海軍に在職したとなると、15年ギリギリー杯で、当時高等官5等の最下級年俸2,400円の1/3の年800円の恩給がつくことになった。このように取り計らってくれたのは、はっきりわからないけれども、当時の人事局長であった山梨さんか、そのあたりの人がとくに心配してくれたのではないかと憶測している。

     この山梨さんという人は、ずっと以前に私が横須賀工廠で「比叡」の艤装をやっていた時、その「比叡」の副長で、私の仕事ぶりをよく見ていたので、このように取り計らってくれたのではないかと思う。

     それでも、私はわずか34歳の若さで恩給をもらう身分になったので、実のところ恩給をもらいに行くのに恰好わるいような、恥かしい気持であった。

    海軍を辞める時の気持

     こうして私は、約15年間在職していた海軍を去ることになった。思い出せば、私ははじめ不平も言ったが、主として軍艦の艤装という仕事に昼夜の別なく打ち込み、そして監督助手から海外へ出張し、帰国してからは飛行機の方面に専念し、ついに名古屋駐在の監督官で海軍を去った。

     私の高工時代に1日46銭の学資を出してくれ、そして在職中には、大学出にくらべて出世が遅いという不満はあったが、外国にも行かせてくれたし、古きよき時代のそのよさを満喫させてもくれた。私は、海軍を去るにあたって、何ら思い残すことはなかった。

     私は、かつて第1次世界大戦のあとの好景気の時と、ワシントン条約による軍縮が決まった時の二度、海軍を辞めようと思った。そのたびに父や同僚、上官から引き止められて海軍に在職していたが、もともと私の性格から言って、お役人はきらいであった。

     ほかがいくら景気がよくても安い給料で抑えられ、自分の地位以上の仕事をしようとすれば他から反ぱつをうける。そしてそれを不満にすれば、文官分限令ですぐ罰せられるというように窮屈なことが多かった。私の本心は、自分のこれからのことを甘く見ていたとも言えるが、それよりも先に、そういう自分の境遇から抜け出すことに対する安心感の方が、大きかったと言える。

     こうして私は、大正12年6月から翌13年12月まで1ヵ年半勤務した名古屋駐在監督官を最後に、海軍を去ることになった。休職を命ぜられた日付は大正13年12月12日で、同日従6位に敍せられた。そして、さらに半年後の大正14年6月10日付で依願免官となり、正式に海軍を退職した。

  • 第10章 海軍思い出すまま

    飛行機の草分け

     海軍在職中の思い出はまだまだ多いので、章を新たにして、思い出すままに書き記してみたい。

     私は明治43年に、横須賀工廠に入って間もなく、機須賀に近い東山(あづまやま)という所で、わが国飛行機の草分け的存在である奈良原三次氏が、はじめて飛行機を飛ばすことになったが、その手伝いをしたことがあった。飛行機と言っても、そのころのものはエンジンもつかないグライダーみたいなもので、山の上へその飛行機を押し上げてそこから飛ばしたという至極簡単なものであった。

     それは、飛行機の先に鉤をつけ、それに針金をつけて数人で引っぱり、勢いのついた所で針金が離れるようにすると、その飛行機が短時間空中を飛ぶ。これを工廠の職工たちと一緒に見ていて、それだけで拍手喝采するというごく幼稚なものであった。私の飛行機との結びつきはこれが最初である。

     飛行機で思い出したが、わが国の飛行機の歴史、とくに海軍のそれは、初期の追浜の航空廠以後からふれてあって、それ以前の築地の海軍航空機試験所のことは、知る者が少ないのか、ほとんどふれていない。そのころ所長をされていた河野三吉氏、上田良武氏らがいずれも立派な人であっただけに、非常に残念なことと思う。機会があれば、そのころのくわしい記録をぜひ残したいものだと思う。

     また大正10年ごろ、第1次世界大戦で花々しい航空戦があってようやく飛行機の重要性が認識されて来て、飛行機について懸賞論文の募集があった。私はこれに応募して2等に入り、高松宮殿下から賞状などをいただいた。当時の私が書いた論文の控えが残っているので読んでみると、題は「本邦における民間航空機の用途を論ず」というもので、自分のことながら、なかなかよく書けているのでびっくりしている。

     これには、国内の航空路はもちろんのこと、海外の民間航空路とその所要時間、機体の構造から機内の設計まで、こと細かに記されており、私がそのころいかに研究していたかを物語るものとして興味が深いものがある。

     また大正15年9月に、私はそのころわが国の飛行機に関する知識が低いのを憂えて、博文館から、中学生にも読める程度で『航空の知識』という本を発行した。飛行機の歴史からその構造、用途まで16章215ページにわたって解説したもので、いまこれを読むと、私の壮年時代のことが思い出されて、なつかしさがこみ上げてくる。

    汗をかかれない宮様

     高松宮殿下で思い出したが、大正10年に高松宮がまだ兵学校の生徒であった時分に、学友の島津さんと一緒に築地の航空試験所へ来られてカーチス式の風洞に入れられた。ちょうどその時は夏の真盛りで、風通しの悪い風洞の中はすごい暑さであって、みんな汗びっしょりであった。その中で高松宮だけは汗をかかれなかった。これが私には非常に不思議に思われた。

     のちに私が紫綬褒章をもらった時に、芝の光輪閣でパーティーがあり、私はたまたま高松宮と一緒に寿司をつまんで隣り合わせたので、「宮さん、昔こういうことがありましたが、宮さんだけは汗をかかれなかった。何か秘密があるのですか」とおたずねしたところ、「そんなことがありましたか」とおっしゃっていた。宮様ともなると、どんな時でも汗をかかないという修養を積んでいたのではないかと思った。

  • はじめて特許を取る

     小海の分工場長時代に、私は方々の人から頼まれて、回転判を作ったことがあった。回転判とは、押すと印肉が途中でついて判を押すようになっているものである。これは、はじめ呉工廠の職工が作ったが、その職工が辞めたので、作れなくなると私にオハチがまわって来て、私の専業となった。しかし、それでも廠長かやかましいので、工具室の片隅で作っていた。

    はじめて取った特許
    はじめて取った特許

     またその当時のことで、海軍では書類をとじるのによくホチキスを使っていた。ホチキスはたくさんあっても、これに使う針金はなかなか買ってくれないので、みんな困っていた。昔のホテキスはいまと違って、ムカデの足みたいな針が並んでいて、これを差し込んでグッと押すと、ムカデの足が一つずつ切れて紙をとじて行く。これを買ってくれないので、自分で作ってみようと考えた。その方法は、ブリキの薄い板を切って、それを押せば最初のはとじる恰好をする。その前に予備行為として筋を入れる。その前に板を入れるというようなものを作ったところ、方々から注文が来た。これは特許が取れると私は思った。

     そして弁理士に特許申請の手続をとってもらおうとしたところ、300円の費用がかかると言われたので、それならば自分で出そうと思い、その手続方法を調べて出願した。その時に、特許の名前はせめてアルファベットでAからZぐらいまでは特許を取りたいという望外な考えから「A式綴紙器」とした。

     これは、たしか大正2年のことで、私が22歳のころであった。その後「B式・・・・」という特許にはしなかったが、私が取った特許は27件、考案は84件商標登録7件、意匠登録10件におよんでおり、昭和34年に私が発明考案に関して紫綬褒章をもらった時のそもそもの発端となったということもできる。

    工廠長にほめられる

     そのころの横須賀工廠長は、のちに浦賀ドックの社長になった坂本一氏であった。この坂本氏は、官舎が工廠のすぐそばにあったので、朝早くから工場を巡回して来た。たいていの工場は、そのころのことで汚なかったが、坂本氏はそれを見て、あとで工場長を呼びつけて文句を言っていた。

     ある日、坂本氏が私の工場にまわって来た。ちょうどそのころは、資材の節約のため、木綿布の代わりに糸屑を使っていたので、万力台の上にそれが散乱していた。案の定、坂本廠長は持っていたステッキで散乱している糸屑を指して、「あれを見ろ」と言った。私は「何ですか」ととぼけた。すると、今度はすごい顔をして糸屑をはね上げ、「これは何だ」ということになった。

     そこで私は「いやこれは前日使った糸屑で、これだけ捨てるのはもったいないから、いまからこれをより分けて、ふたたび使えるものは使い、使えないものは、そのまま置いておくと出火の原因にもなるので、適当な処置をしようとわざわざ片づけずに前日のままに置いてあるのです」と言ったところ、「フンフン」とうなずいて帰って行った。あとで造兵部長を呼んで、「天野という奴は、なかなかいいことを考えておる」と言ったそうだ。

     その造兵部長は鹿児島の出身で、大館源太郎という人であった。工廠内の誰からも恐れられていたが、私の工場で雑工をやっていたある年寄が、その大館部長の叔父にあたっていた。ところが、この人が私のところへくると、自分の叔父さんが私に使われていたので、お茶を飲みながら、よく「じいさんを頼むぞ」と言っていった。

     こんな関係から、高等官の工場長などが、こわい造兵部長に言えないことがあると、判任官の私によろしく言ってくれと頼みにくるので、私は工場長の間にハバを利かせた。

  • 艦のひずみと平賀穰氏

     また大砲を軍艦にすえつける作業は、私の海軍時代のはじめのころの主な仕事であった。中でも私が手がけたことのある戦艦「比叡」は、当時の日本海軍の粋を集めた精鋭艦であって、「金剛」「霧島」とともに、一世を画した大型戦艦であった。

     私は、この「比叡」の中心に主砲を4門すえつける作業をやったが、どうもうまく入らなかった。のちに東大の総長になった平賀穣博士が中佐で造船の主任であり、私は一介の技手であったが、造兵の方の代麦であった。そこで「平賀さん、どう考えても大砲が入りませんが、あれは何か船の方が狂っていませんか」と言うと、「キミ何を言っとる。そんな下手なことを僕がやるか」と頭からどなられた。

     私はどうしても納得が行かなかったので、船の前から後までズーッと網を張って調べてみると、太陽が通る時には片方が膨張して少し曲がることがわかった。その差が艦の最前部と最後部とで2尺ほどあった。

     それで私は、1週間ほど天気のいい日と悪い日との温度を調べながら、その曲がり方をグラフに示して平賀さんに見せた。「こういうわけですが」と言ったところ、「なるほどそれも理屈だな」とか言っている。結局、主砲を夜積むことにしたら、計算通りキッチリと入ったので、それ以後主砲をすえつけるのは夜間行なうことになった。

     これについては後日談がある。昭和27年に元海軍造兵官の堀輝一郎君が、天野特殊機械に入社して来た時、談たまたま「比叡」の艤装のことにおよんで、私が主砲積み込みの話をしたところ、堀君は、学生時代平賀さんの講義をうけたが、その時に、船をつくる場合には日中だと鉄でも舷側がしなったり、のびたりするから注意した方がよいと言われたということで、その発端は私だねと大笑いしたことがあった。

    天気晴朗なれども波高し

     その前に「薩摩」という軍艦に、ガタガタに主砲をすえつけたことがあった。そのことが、いよいよ完成するという間際にわかって、これはえらいことになったと思っていた。間もなく海軍大演習があったので、私がやった主砲のすえつけがまずいことがわかったら、これは自分だけの責任ではすまされない、工場長から部長にまで責任がかかると思った。これは困ったことになったと、その結果を非常に心配した。

     すると海軍大演習がすんで、副長と砲術長とが来て、「天野さん、おかげで最優等をとりました」とあいさつされた。私はびっくりして「どうしたのですか」と聞き返すと、大演習は荒天の最中に行なわれたが、艦が右に左にひどく傾いても主砲の旋回は平気だったという返事であった。まったく、ガタガタの主砲もケガの功名であった。

     当時の日本式砲塔は、英国の流れをくんだもので、ロシア式と異なって、旋回が重い代わりに艦の動揺がはげしくても、旋回は変わらないという利点を持っていた。この砲塔の差が、あの日本海海戦の時に東郷大将が打電した有名な「天気晴朗なれども波高し」の文句通りの天候に役立ち、日本海軍の主砲が荒波でも自在に動いたから、勝利が得られたのではないかと思う。この電報を打った時、すでに東郷大将の胸には、彼我の大砲の性能の差を考えて、勝利の予感にときめいていたのではなかったろうか。

  • 中島飛行機と川西飛行機

     中島飛行機は、海軍に勤めていた中島知久平さんが、一代で築き上げたわが国の飛行機のトップ・メーカーであった。いまでは富士重工と名を変えて小型自動車などを作っているが、大正のはじめから中ごろにかけては、プロペラを土間で作っていた。

     土間でプロペラを作ると、木に水分が入って、うまく出来なかった。それを見た私は、何かの会議の時に「中島さん、あなたの所はプロペラを土間で作っているけれども、ひとつ下にコンクリートを打って作ったら、うまいものが出来ますよ」とつい口をすべらせた。

     しかし、如才のない中島さんのことだから、その時は「ハイハイ」と言って聞いていたけれども、あとで中島さんが私に、「天野さん、実に情けないが、それを作るのに1,000円あれば出来るんだが、その1,000円の金が工面できない」と言われたことがあった。

     この中島飛行機が、大正7年に群馬県の太田に飛行機の製造工場を作った時に、川西清兵衛氏の資本を入れて提携した。川西の支配人である坂東舜一という人が、中島飛行機に入った。しかし、意見が合わなくてすぐ別れることになった。川西が出資した金は18万円で、中島の方ではそれが払えなくて、太田の町の人が出したり、お父さんの土地その他を担保に入れて、やっと18万円の金を作り、それで川西と手を切ることができたそうである。

     しかし、川西の方は18万円は返してもらったが、中島飛行機はその後ドンドン大きくなるし、飛行機に未練が残った。それで、飛行機製作の方に進出することになり、川西飛行機という会社を作った。それでまず仕事をさがすために、飛行機の切れっぱしでもいいからやりたいということであった。

     川西の方では、海軍をずっと以前に辞めた造兵中佐の吉田太郎氏を顧問として、たびたび私をたずね、私もその熱心さにほだされて、「ひとつ高度計を直してごらんなさい」と同社に修理を頼んだことがあった。これが川西航空機のはじめのころで、大正10年の話である。

  • 第11章 退官後の生活

    退職金で祇園に豪遊

     海軍を辞めた時に、退職金として、当時の金で3,500円をもらった。いまの金に直すと200万円くらいになるであろうか。この金は、私が15年間努力した結晶であるから、半分を思う存分に使いたいと妻に話し、1/2を妻に与え、半分を京都祇園の「一カ」で遊び、一週間くらいで使い切ってしまった。

     一週間も酒びたりになると、人の感覚はずいぶん変わるものだということがその時にわかった。私は「一力」に行った時に、持金全部を女中に渡し、名古屋までの汽車賃とみやげの八ツ橋10包の代金をさし引き、金がなくなったら汽車に乗せてくれと言っておいた。

     金をまったく使いはたして、京都駅から2等車(いまの1等車)に乗せられたが、正気のようでも酩酊しているとみえて、座席に腰を下すと、目の前に女の白い足が出ていると思った。私は芸者の足かと思い、手を出してさすったところ、その人は、どうもすみませんと言って足を引っ込めた。よく見るとそれは、中年の男性であることに気づいて、まったく穴があったら入りたいとはこのことであった。こうして私は、海軍時代の垢をさっぱり落したつもりで、新しい人生を求めた。

    浅野ベニアに入社

     しかし、いざ海軍を辞めたものの、在職中はいろいろいいことを言っていた所も、私が「実は海軍を辞めたが、このような事情で300円が1円切れても勤められない」と言うと、「ああそうですか、考えておきましょう」と言って、どこへ行っても婉曲に断わられた。

     仕様がないので、三菱とか大同製鋼などの大きな所はあきらめ、浅野ベニアという日本で一番古いベニア会社に入った。そこの社長は「よろしゅうございます」という返事であったので、私は月給300円で浅野ベニアの技師長ということになった。これが大正14年のはじめのことである。

     ところが、私が会社でいよいよ仕事をはじめてみると、社長は2階の私室10畳の間にいて、和服の上に前垂れをかけ、用があると社員を2階の自室に呼びつけた。呼びつけられた社員も、敷居の向うから「社長さま」と最敬礼してにじり寄ると、社長は眼鏡を鼻の上にかけて、いろいろ指図をするというように、まったく古風な指揮ぶりであった。

     おまけに長男は会計を担当し、次男は技師長で、そこへ私が入って技師長が2人となり、一番末の息子が営業部長であった。社長も私には非常に丁寧で2階に呼びつけられるようなことはなかったが、たまたま会社の貸借対照表を調べてみると、くされかけている物置が、300円にも400円にも見積られてあった。

     当時は新しい建物でも、1坪30円くらいで出来た時分であったので、私は「社長さん、どうしてこんな古いものを300円や400円に見積っているのですか」と聞くと、「だから役人上りは困ります。作ってから利子がどのくらいかかっていますか」というわけだ。まるで減価償却ということを考えていなかった。

     また、一番給料がいいのは銀行の古手で、月給400円もするような人たちが、何も仕事をしないで2人も3人もいた。この人たちの仕事と言えば、手形の書きかえに東奔西走することであった。その上に、工場でまじめに仕事している者よりも、むしろ社長のお孫さんとキャッチ・ポールをして、ご機嫌を取り結んだ方が通りがよいという状態であった。

     次男の技師長は、ベニアをつけるカゼインをとくだけが仕事であった。夕方5時ごろ工場に出て来て、1時間ほどこのカゼインをミキサーでといてエ場へ流してやる。それからベニアを作りはじめるから、職工は夜の10時,11時ごろまで仕事をする始末になる。

     工場の人たちは、前日遅くまで仕事をした翌日またベニアの材料をカッターで切ると、つけるカゼインがないので遊んでいるという状態で、たまに社長がくると要領よくやっているけれども、実際は同じ板をあちこちに向けかえているだけであった。それも3時ごろになると、あきてしまって、技師長が来ないので困っている。見かねた私が、オレがカゼインを作ってやると言って作りはじめると、工場の人たちは喜んで仕事をやっている。すると今度は、私がその技師長の目のかたきにされた。技師長いわく「クスリを作ることが秘密なんだ」と言って、しまいにカゼインをとく所にカギをかけるようになった。そしてまた、昼間は2号の所へ遊びに行って、夕方5時ごろ出社して来て、2号の弟と2人でカゼインを作るのであった。

  • 浅野ベニアを退社

     私は、こんな状態にほとほとあきれたが、せっかく入社したのだから、何とかして、よくしたいと思って社長に「これでは会社はどうしても駄目ですよ。こんなに方々少しずつの借金があっては、手数だけでも大変です。あっちに3万、こっちに5万という借金よりも、まとめた借金にしたらどうですか」とすすめると、頼むということで、私は後立てとなり、3男の営業部長が表面から運動して、郷誠之助という財界の元締めが作っていた「番町会」の人達を引っぱって来た。

     この中には、中島久万吉氏とか永野護氏という東大法科を出た錚々たる人が4〜5人ほどいた。この人たちを蒲郡にある常盤館へつれて来て、浅野べニアを救うことを懇請した。私が見たところ、浅野ベニアの実体は30万円くらいしかなかったが、40万円まで見積らせて肩がわりさせようとしたところ、社長は45万円でなければどうしてもいやだと主張した。

     「それでは駄目です。この会社は、私の見たところ40万円もの値打ちがない。30万円でもオンの字ですよ」と言ったが、どうしてもいけないと社長が主張し、わずか5万円のことで、私の努力もうまく行かず、「番町会」も手を引いてしまった。

     私はこれを契機として、浅野ベニアにも見切りをつけて辞めることにした。わずか1年足らずの在社であったが、私は人にすすめられて、東北地方の森林開発に乗り出すことになった。

    岩手で山林開発

     私は、東北地方にすごい山林があり、そこには飛行機の材料になるような木材がたくさんあるということを聞いて調べに行った。それは昭和2年の夏であった。岩手県の盛岡まで汽車で行き、そこからガタガタ自動車で7時間も奥へ入ると、茂市という町がある。そこからさらに北へ3里も歩いた下閉伊郡の刈屋という山奥で、自動車も入れないような辺ぴな所であった。

     いまでこそ、盛岡から国鉄山田線で茂市へ行き、さらに小本線で茂市から4キロあまりの所に岩手刈屋という駅があるが、その岩手県下閉伊郡刈屋村が、仕事場であった。そこの近在には、大人が3人くらい手をつながないと、ひとまわりしないほど大きなすばらしいケヤキ、カエデの木が繁っていた。立木の6~7分くらいがブナの木で、また当時の飛行機に必要であった白楊もあった。

    岩手刈屋駅附近
    岩手刈屋駅附近(盛岡鉃道管理局提供)

     これらの木材を東京方面へ出したら、大いに日本のためになると思って、私はその伐採に着手することにした。そこで、当時名古屋駐在の監督長である林という人に、あなたもいつまでも海軍にいるわけではないから、この仕事に一枚加わらないかと誘い、その人から出資をあおいで、東洋ベニア製作所という株式会社をつくり、仕事をはじめることになった。

     この仕事を見つけたのは、前村という人で、彼は資金がないから、林氏とその甥とを加えたというわけであった。地元の人との契約は、見渡すかぎりの木材を伐採するということであった。陸軍の5万分の1の地図で、実際どのくらいの広さがあるか調べてみると7,000町歩くらいあることがわかった。

     境界をひとまわりするのに3日もかかり、その中に温泉も出るし、昔、金や鉄、硫黄を採った所もあれば熊も出るという所であって、これを45万円、5ヵ年年賦で払うということで発足した。はじめの計画では、いい木は木材で出し、その小枝は炭に焼いて出すという計画であった。この仕事に参加したのは、しかし若い男ばかりで、このうまい話に最初からもうかったつもりで、宮古の港まで3里の道をわざわざ自動車で飛ばし、3人しかいなかった芸者を総揚げして、2日も3日もドンチャンさわぎをして前祝いをしたというような有様であった。

     折から昭和のはじめの不県気のころであって、宮古の料理屋でいざ勘定という時には、それでも10円か15円ですんだ時分であった。女中に祝儀として1円出すと、「ご冗談でしょう」と言われた。少ないのかと思っていると、多すぎるという話であった。それで50銭を出すと、はじめて「ありがとうございます」と言って受け取った。いまは様子が違っているだろうが、それほど純朴な所であった。

  • 挫折

     はじめのうちは仕事もずいぶんうまく行った。私たちが一生懸命に木を切って出しては、1ヵ月かかって東京の深川へ回送する。その時にも、私の家庭は名古屋にあったから、東京でその代金を受け取って、その足で名古屋へ帰って1週間くらい泊まり、また茂市の山へ行くということにしていた。しかしこれでは、その往復だけで3ヵ月かかった。月収は1,000円ほどになって、相当良かったが、私たちの仕事がうまく行っているうちに障害が起きて来た。

     それは、地元のボスが、私たちをねたんで人夫を出さなくなったことであった。よく調べてみると、その前にも三井物産がうまく行かなかったことがわかった。今度の私たちも、そんな若僧がやっても、どうせうまく行かないだろうから、手付金の5万円くらいせしめておけという考えであったらしい。しかし、それが案に相違して、うまく行くものだから、地元のボスが樵夫を出さなくなったというわけであった。

     私たちは、はじめ樵夫に現金払いで1日に50銭出していた。近くの人たちは非常に気の毒な生活をしていたので、1日50銭という収入は本当によかったと思う。彼らの収入を聞くと、50円あると言うので、はじめは相当いいなと思っていたが、なんとそれが1年間の収入であったというほどの生活状態であった。1日50銭の日当でも、ボスに抑えられて樵夫が出なくなってしまった。ボス2〜3人で全村を牛耳っていたのである。

    置土産は山田線の開通

     この土地は、前にもふれたように大変な山の中で、私はつねに3,000円くらいの現金を持って炭焼小屋に泊まっていた。もし金を盗りにくる者がいたら、 ピストルで撃ってやろうと思って、昔ドイツで手に入れた7連発のピストルを身につけていた。また熊にそなえて刀などを持って、わらじ脚胖で寝ていた。ヒゲなども1ヵ月もそらないで、本当の山男になっていた。

     しかし山の中は平和境で、朝顔を洗いに行くと、流れの向うでキジが若芽をつついており、それが3〜4羽向うの木に止まっている。面白半分に、ピストルで下の方に止まっているものから順々にねらい打つと、2羽から3羽落ちてからやっとほかのものが逃げるといった有様であった。それまで、猟師なども入ったことのない所なので、鳥の方でものんびりしていた。

     だから、たまに東京へ出る時などは、山鳥やキジを山のようにかついで帰った。またヤマメという魚も、東京で1尾10銭くらいのものが1銭で売っていたし、兎なども時々つかまえることができた。しかし、殺物としてはヒエとクルミであって、米や麦は口に入らなかった。

     こういう山奥から東京へ出てくると、必ず上野の竜明館という当時1流の宿屋に着いて100円札を祝儀に出すので、宿屋の方も大切にしてくれ、まるで田舎大尽の気持よさを味わった。また炭は、山元では大体1俵3銭から5銭くらいであったが、7里の山道を板車に乗せて運ぶと、釜石では25銭くらいになり、釜石でつめかえて東京へ持ってくると、売価が1俵70銭くらいになった。

    山中を走る山田線
    山中を走る山田線(盛岡鉄道管理局提供)

     そこで、茂市まで鉄道を通じたら、運賃が非常に安くなり、もっと山元の価値も上がるだろうと思って、土地出身の代議土熊谷氏(のち政友会総務)に政治的な工作を引き受けてもらい、私は当時の鉄道大臣井上匡四郎氏が、私の大阪高工時代に冶金学の先生であった関係を利用して、そのころ井上氏の下で工作局長をして、のちに満鉄総裁になった八田嘉明氏のところへ、盛岡から宮古まで鉄道を敷くよう再々嘆願した。

     はじめは、八田氏は面会もしてくれなかったので、私は毛布とニギリ飯2日分ほどを持って、局長室の前に、面会するまでは動かないと宣言して坐り込んだことがあった。おそらく、陳情の手段として坐り込んだのは、私が元祖ではないかと、つまらないことではあるが思っている。これで八田氏も、とうとう面会してくれた。

     私は、八田氏に懇々とへき地開発を説き、鉄道敷設によって、どれだけ地元の人々が経済的にも救われるか、実例をあげて説いた。この結果、敷設の調査費用として5万円を鉄道省から出すという約束を取りつけ、私の強引な坐り込み戦術も功を奏した。

     そしてこの調査は昭和3年からはじめられ、昭和8年に1部開通し、その後盛岡―釜石間157キロの国鉄山田線が開通する動機となった。私は、この山林開発の仕事ではほとんど得るところがなかったが、この山田線の開通だけが置土産となった。

    静岡に隠退

     このように私は、茂市近辺の開発に力をつくし、いろいろ苦心もしたが、地元のボスに抑えられて、樵夫が出ないということになって、窮地に陥ってしまった。と同時に、この事業は、私の一生を托すものではないとさとり、さらには、かえりみてわが家庭を考えると、いよいよこの事業を中止する方がよいという結論に達した。

     私が長い間、名古屋の家を留守にして帰ってくると、子供が私の膝の上に乗っかって来て、「お父さん、お父さん」と言ってしたい寄ってくる。子供も、2男の和夫につづいて3男の杲(あきら)も生まれており、そろそろ教育に留意しなければならない時でもあるので、いつまでもこういうような仕事をやるべきではないと思って、この仕事から手を引くことを決心した。

     そして私は、名古屋の家を引き払い、かねてから永住するならここと決めていた静岡に移住した。私は、まだ37歳という若さであったが、この静岡で教師をやりながらフランス文学に志したいと思っていた。世の中には、あの昭和初期の不況の風が吹きまくっていた。昭和2年のことであった。

  • 第12章 天野製作所設立まで

    山梨高工で講座を持つ

     私は海軍時代に方々を歩いたので、日本各地の事情にくわしかった関係もあって、将来隠退した時の居住地として、静岡、仙台、札幌、福岡の中から選ぼうと心に決めていた。私がたまたま海軍を辞め、その後の勤めや仕事がうまく行かずに引きこもる時に、隠退する場所として、ちょうど私の親戚がいた静岡を選んだ。

     静岡で私は、子供の教育でもしようと思って、数学教師の検定を取り、さらに英語や物理などの中学教師の免状を取った。しかし私が静岡に引っ込んだ昭和3年のころは、不況の最中で、高等師範を出た正式の人でさえ職がなく、私のような検定だけで免状を取った者には、採用してくれる所もなく、頼まれて山梨高工で講義するくらいであった。

     山梨高工では、精密機械の講座をつくるが、私に講師をやってくれないかと言って来た。校長が、松田清次郎という私の大阪高工時代の先生であった。私としては渡りに舟で、この依頼をうけ、静岡から甲府まで週に1回通った。

     そうしているうちに、以前に航空試験所の所長をしていた上田良武氏が、海軍艦政本部第二部長になり、天野はどうしているかということで、私の消息をたずねてくれた。そして私が静岡に隠退していることを聞いて、その下にいた私の海軍時代の友人である元海軍技師小屋寿君に、ひとつ天野君の所へ行って、田舎にいても仕様がないから、もう一ぺん世に出るようにすすめて来ないかということになり、小屋寿君が、わざわざ静岡まで私をたずねて来てくれた。

    静岡のドン底生活

     私の静岡での生活は、世界的な不況の中で適職がなく、たくわえもつきて、まことにドン底の生活であった。私の生活のうちで、食うことにすら困ったのは、この静岡での生活だけであった。恥かしい話だが、私は家族のために3度の食事まで我慢したこともあった。

     そのころの私の生活を支えていたものは、月67円ほどの恩給だけであって、子供3人を抱えての生活は苦しかった。朝食をすませると、私はすぐに町の碁会所に出かけて、そこで夜まで碁を打っていた。昼飯はウドンなどで軽くすませて夜家に帰る。家に帰ると、妻が「食事は」と聞くが、「食べて来た」と言って、夜食は水やお茶で我慢するというような毎日の連続であった。

     腹はとても空いていたが、妻や子供に十分食べさせようと思って夜食の箸をとらなかった。私は毎日碁ばかり打っていたので、碁だけは相当に強くなったが、このころの生活は本当に苦しかった。妻は、たとえ50円でも勤めてくれと言った。私は「男は安売りするものではない」と彼女をたしなめた。ふたたび彼女は言わなかったが、さだめしつらかったことであろう。

    静清国道

     静岡にいる時に、清水との間を通っている軽便電車で、私は子供をつれて狐ヶ崎遊園地に遊びに行ったり、清水港を見に行ったりした。そのころ、静岡は奥地から野菜や果実、茶などが集荷されるが、清水港は木材が集まるくらいで、港は良いが繁栄しない。私はふと、静岡と清水との間に広い道路を作れば、静岡に集まる荷物が清水から出荷されて、静岡も清水もともに繁栄するだろうと考えた。

     私は、郷里に近い出身の成功者で、そのころ静岡電鉄(いまの静岡鉄道)の社長であった熊沢一衛氏に相談しようと思った。静岡、清水間の軽便電車は、この熊沢氏が藤原銀次郎氏を説いて買収し、繁栄させたものであった。熊沢氏はその後も一時は非常に成功し、伊勢大神宮に多額の献金もした郷里の成功者であったが、天岡氏の売勲事件に連座したのをキッカケに事ごとに失敗し、不況で明治銀行が閉鎖するととも隠棲したのは、ちょうど私が決心した前後のことであった。私は、時の長谷川静岡県知事にこのことを進言した。長谷川氏はクリスチャンで、時々教会にくるし、私も時々教会に行くから、じっ懇でなくとも面識はあった。長谷川氏は、私の意見を面白いと言って賛成してくれた。県会でも予算が通過し、いよいよ工事に着手することになって、土地の買収のため道路は迂回また迂回の計画となった。これをまっすぐにするためにはさらに相当の費用が必要だった。要するに、この種の計画につきものの、地主が高値を望むのをある程度許容するためであった。

     私は、ロシアがシベリア鉄道を作った時に、皇帝の断でまっすぐになり、いまどれほど利を得ているかの例を、知事や県会などにのべ、予算の増額は数年ならずして回収できることを力説した。ついに私の意見は通り、ほとんど曲がりのない道路となった。惜しむらくは、道幅が私の希望の半分となったことである。

     私は汽車で通るたびに、この道路にひんぱんに自動車が通い、また道路ぞに大和製缶、シャンソン化粧品、相川鋳造、磯谷合板などの工場が年々繁栄しているのを見ることは、こよなくうれしい。いまの静清国道がこれである。

  • 東京螺子の工場長となる

     こういう時に、上田さんの指示で小屋君がたずねて来てくれたので、私はいまでもこの2人を非常に徳としている。小屋君は、藤沢にある東京螺子に工場長がおらず、適当な人がほしいというがどうだという話を持って来てくれた。私の浪人生活もこの辺が峠だと思って、私はすすめのままに東京螺子に入社した。昭和3年5月のことである。こういうことがあって、戦後小屋君が、仕事がなくてどうしようかと私のところへ来た時に、小遣くらいは何とかなるからと、会社へ来てもらって今日に至っている。

     東京螺子に入る時の給料は150円であった。そんな給料ではあまり気も進まなかったが、上田氏や小屋君のすすめもあるので、静岡から藤沢へ通うことにした。しかし間もなく、そういう長い距離を通い切れなかったので、片瀬に家を借りて、そこへ住むことにした。

     その当時の東京螺子の人数は、120~150人の間で、私はその間に海軍に高級ネジの登録をしたり、タップ・ダイスなどの製作をはじめたり、飛行機の流線型ワイヤーの精度を上げたりした。それでも東京螺子は、その当時半期に5万円ほどの欠損を出していたので、私は工場内の経費節約にも手をつけた。

     そのころ、工員は仕事を終えて帰る時、ターレットの油で手を洗って帰っていた。私はこれを止めさせて、オガ屑で手を洗わせ、その油のしみ込んだオガ屑を風呂屋に高く売るというようなことをやった。またオーバーロードの利くモーターを、品川にあった中島電気という会社が作っていたのを購入して、各モーターの馬力を全部調整して、電力の基本料金を安くするというような消極策をも講じた。また積極的な方策としては、さきにあげたいろいろな新しい製品を作り、相当の成績を上げて、会社の業績が向上するよう努力した。

     私が入る前から東京螺子では、人事管理がうまく行っていなかった。いつもゴタゴタがたえず、労働運動も、いま社会党の代議士となっている土井直作君が指導していて、かなり強力であった。そこで私は、その矢面に立つことになり、1週間ばかり土井君とわたり合って、労働争議を解決したこともあった。

     そのうちに、たまたま工場の組長連中が賭博しているのが見つかった。当時は不況で、工員は余るくらいだったので、社長の松本源三郎君は就業規則にしたがって、組長を全員解雇し、解雇手当を1銭も出さないと主張した。この点について私と社長とは意見が違った。

     私は、賭博をしたことは悪いことだから、解雇するのはやむをえないが、解雇手当だけは出してやってほしいと言った。また古い人たちも、私の意見に賛成であるので、就業規則では出さなくてもよかったが、自己退職として所定の半額を支払うことになった。

     そのころ、東京螺子へ能率指導者の荒木東一郎君が作業改善の指導に来ていた。同君も、社長との仲がうまく行かなかった。私も仲へ入ってずいぶん取りなした。こんなことがつづいて、私もいつまでもこの会社にいる考えはなく、せいぜい3年くらいでご免こうむりたいと考えて、私の代わりを養成し、私は外部から会社を見ることが、将来会社の発展に効果があると、入社当時から社長に進言して、いま東京螺子の総務部長をしている高橋八郎君が名古屋高工の卒業生で、この人を私の代わりになるように仕向けていた。

    一家病魔におそわれる

     私の家族に病魔が襲って来た。そのころ私は片瀬から鵠沼に移っていたが、子供は昭和4年には長女の多喜子が生まれて、長男卓、2男和夫、3男杲と4人になっていた。ところが2男、3男とも病気にかかり、家内も病床にふすようになった。このために私も、会社を休みがちになってしまった。

     家内は鎌倉の病院に入院し、子供2人は絶対安静で寝ているし、一番下の娘は、雇った女中からトラホームをうつされるという状態であった。私も、会社と看病のために走りまわったが、とても時間のやりくりがつかなかった。そこでイタリア製のフィアットの古い自動車を900円で買い、それを運転して、会社、病院、自宅とかけずりまわっていた。この自動車は、エンジンもハンドル・スタートで、発車させるまで非常に骨が折れる代物だった。

     ある冬の日、この自動車が鎌倉市内の坂でエンコしてしまった。私は雪の中で長い間、エンジンのハンドルをまわした。車はようやく動いたが、私自身が今度は助膜にかかるという羽目になってしまった。

     妻、子供3人ともども病床にふすことになり、一時は鎌倉で妻の入院、子供の医者3人、看護婦2人、女中2人、妻の老母も手伝づかれで寝る、私も寝る。丈夫なものは長男の卓だけであった。貯金は目に見えるようになくなっていく。家族の全快が貯金に勝つか、貯金が消えて妻子もろとも路頭に迷うか、運だめしだと度胸を決めて私は病床にふせっていた。

     そのころは、静岡での貧窮以上の深刻さであったが、妙に私の頭はさえていて、少しも悲観的でなかったと追憶する。このクソ度胸を固めたことが幸いしたのか、私も家族もともに早く健康体にもどることができた。しかし私は、これ以来私や家族の健康には、ことのほか気をくばるようになった。

  • 母の力

     この一家が病床に倒れている時、私は母の力の偉大さに打たれた。まず2男の和夫が小児結核にかかった。まだ和夫が小学校1年くらいの時で、それから半年たって、3男の杲 (あきら)が同じ病気にかかり、ついで生まれたばかりの多喜子も目を悪くしてしまった。

     小児結核は、自覚症状がないだけに、とくに安静にしておかなければならないので、そのたびに妻が起きて子供を寝かしつけた。2男、3男が寝ていた2年間くらいは、彼女も看病と闘病で身心ともにすりへらしたと思う。このころの妻は、まったく神様のように私の眼にうつった。

     それ以後も、仕事ばかりに熱中して、家庭のことは妻にまかせっきりの私であったが、よく子供を丈夫に成人させてくれたことと、いまさらながらに感謝している。

    東京螺子を去る

     私の病気もいえて、久しぶりに東京螺子へ出社してみると、私の代わりにと育てた高橋君が、どうにかやれるという見通しがついていたので、私に社を辞めてもらいたいと言って来た。しかしそれを言うのに、社長が私に直接言ってくるのならいいが、社長夫人の兄にあたる庶務課長をやっている人から言わせたので、私は社長に「会社を辞めてほしいなら堂々と言ってくれ」と申し入れて、東京螺子を辞めることになった。

     東京螺子には、昭和3年5月から昭和6年10月まで勤務したが、私もそのころ住んでいた鵠沼の家を作る時に、もし会社を辞めるようなことがある場合には、その家を会社が買い取るという約束であった。

     私もいよいよ会社を辞めるので、その家を買い取ってくれと言ったところ、それなら退職金を半分にしてくれと社長が言った。たしか3,000円くらいの退職金であったが、そんなことを言うなら、もう退職金もいらないからと、退職金ももらわずに辞めてしまった。ただその家は、土地だけで1,500坪あり、建坪が30坪あって、これを18,000円ほどで買い取ってもらった。

     松本君は18,000円を支払う時に、私に退社後は螺子類の仕事はしないという誓約書を書いてくれと言った。私は「そんな約束をする義務はない、しかしネジを作らなくても私は立派に生活できる人間であると承知してもらいたい」と啖呵を切った。海軍を辞めた時もそうであったが、この辺は反省の要ありと、老いて考える。

    3等寝台を提案

     この東京螺子に勤務しているころ、私は商工省からとくに依嘱されて、JES(JIS規格の前身)の委員となり、国内の各種製品の規格審査にあたり、私の海軍時代を通じて得た経験が非常に役立った。

     また、鉄道省の車両改善委員にも依嘱された。この委員会で私がのべた3等寝台制が採用され、安い料金で楽な旅行ができる原因となったことを誇りに思っている。

     以上が、大正13年に私が海軍を辞めてから昭和6年に東京螺子を退社するまでの私の歴史を書いたが、この間のまる7年間というものは、文字通り私の死闘の記録であった。これ以後、私は事業を自身ではじめることになるので、稿を改めたい。

第2部

  • 第1章
  • 第2章
  • 第3章
  • 第4章
  • 第5章
  • 第6章
  • 第7章
  • 第8章
  • 第9章
  • 第10章
  • 第11章
  • 第1章 天野製作所草創のころ

    タイムスタンプの特許申請

     東京螺子を辞めると、山田市作君が一緒に辞めたいと言って来た。山田君は、これ以後私と行を共にし、長らく勤務したのちに最近辞めた人で、その時には、私がネジの製作をはじめるのではないかと思って、一緒に辞めたいと私に言ったそうだ。とにかく、この山田君は、私が頼まれて東京螺子へ入れた人であったが、私のことだから、早晩何か仕事をするのだろうから、早くはじめましょうと彼は私をせき立てた。

     そのうちに私は、かねてから研究していたタイムスタンプの特許を申請した。とにかくこの種の特許は、そのころのわが国にはほとんどないものであったので、特許を取れる自信はあったが、それを作るつもりはなかった。

     たまたま私が鵠沼の教会に行っていた時に、教会の牧師が私に「仕事がなくて非常に困っている人がいるが、何かいい仕事はありませんか」と言って来た。そこで私は、牧師さんに紹介されて、荒木というその男に会ってみると、やはり同じようなことを言っていた。それで私は「実はこのようなタイムスタンプを考えたから、これをあなたに無償で貸してあげる。ひとつやってごらんなさい」と、私の特許を貸してやることになった。

     荒木氏は大喜びで、礼を言って帰ったが、その後しばらくしても一向に出来そうにない。彼は東京の大崎に工場を持っていたが、どうして仕事をやらないのかと聞いてみると、人がないという返事であった。私も、乗りかかった船と思って、工員を3人ほど集めて荒木へ入れたが、やはり製品は出来なかった。今度は金がないという返事であった。そこで私は、家を売った金の中から3,000円を彼に貸したが、それでも出来なかった。

     私は、荒木君に人を都合してやり、その上金まで都合したのに、なかなか仕事がはかどらない。これでは、折角の私の考えもムダになってしまうと考えた。私の貸した金も、借金にまわしたり、生活費に使ったということがわかった。そうなると、私が入れた3人の工員は、当時は不況のことでもあり、私がほかから引き抜いて入れたので、その生活を見てやる責任もあったので、いよいよ私がその事業を行なうことになった。

     私としては、何も荒木君に特許を貸してやり、金まで都合してやることはなかったのだが、思いもかけず深入りしてしまった。これが、昭和6年11月以後現在に至るまで、今日の天野特殊機械の発端になるとは、当時の私には予想すらしていないことであった。

    士魂商才
    「士魂商才」(頭山満氏書)
    「士魂商才」(頭山満氏書)

     私のそれまでの経歴を見ても、私自身が事業をはじめようとしたことは、しいてあげるならば、岩手県刈屋でやろうとした東洋ベニアくらいのものであろうか。しかし、今回は自分自身の特許を事業化するものであるだけに、不安も感じたが、何とかして恥じない経営をやってみたいと考えた。

     私は事業をはじめるにあたって、そのころ右翼の巨頭として名を知られた頭山満氏を訪ね、仕事をはじめるにあたっての心得を聞いたところ、頭山氏は私に「士魂商才」という四字を贈ってくれた。これはよい教訓と考え、今日まで時々思い出している。

  • 蒲田雑色に15坪の工場を借りる

     心機一転、私はこのタイムスタンプの生産を行なうため事業をはじめることになった。はじめるに当たって、私はそのころ能率研究家として知られていた荒木東一郎君にも相談した。すると荒木君は「新しいものを作る場合一番大切なのは販売です」と言って、彼の門弟であった根上耕一君(いまネコス椅子社長)を紹介してくれた。私はこの根上君に、まずタイムスタンプの販売をやってもらうことになった。

     私は、このタイムスタンプは特許品であり、それまでは日本にその姿を見ることができても、すべて輸入品であり、ここでわが国ではじめて作られたタイムスタンプを売り出し、これが商業ベースに乗るには、少なくとも10年はかかると見た。

     そこで私は、タイムスタンプのほかに、気象用計器の修理をもあわせて行なうことを考え、当時の中央気象台長であった岡田博士に頼んで各種計器の修理をやらせてもらうことにした。事実、私が昭和6年11月に創立した天野製作所(天野特殊機械株式会社の前身)のはじめての収入は、これによって得た75円であった。

     そこで私は、まず工場を物色した。なるべく交通の便のよい所と思って、京浜急行の雑色駅(いまの東京都大田区南大郷)の近くに、新聞広告でわずか15坪の工場を見つけて、そこを借り、タイムスタンプの製作をはじめた。これがそもそも天野製作所のはじめで、まず山田市作君を呼び、そして高橋敏夫君(現監査役)、引きつづいて加藤繁雄君(理管理課)を入社させた。

    つねに備えを忘れず

     私がはじめた事業も、しばらくの試作時代を抜け出して、いよいよ本格的にタイムスタンプの生産をはじめることになった。

     そこで15坪の工場から、やはり近くの土地を300坪ほど借りて新しく工場を建てることになった。幸い、近くに小泉という人の土地を借りることができた。しかしその地主さんも、以前に土地を貸したところ、不景気で地代をもらえなくなったことがあったということで、私のことをいろいろ調査したらしかった。

     このころのくわしい話は、一昨年出版した『天野特殊機械三十年史』に載っているので、ここでは省路する。

     会社を創立した昭和6年あたりは、満州事変ぼっ発直後の暗い世相で、経営の方も大分苦しかった。しかし私は、幼いころ祖母から教えられた「いつも備えを忘れない」という気持を固く持っていた。

     資本金はそのころの金で3,000円くらいのものであった。私はこれらを3分して、まず1,000円を会社の工具や機械などの購入資金にあて、1,000円を従業員の給料に、あとの1,000円を会社がつぶれた時の退職金とした。私を入れてわずか4人の従業員であったが、これらの人たちの生活をできるだけ保護してやりたいと思った。そのためには、まず1,000円を不時の備えとしておけば、万一会社がつぶれても、従業員は困ることはあるまいと思った。

  • 近くの工場主と交際

     私が工場を置いた雑色の近くは、現在でもそうだが、町工場の密集した所であった。私の工場の近くにあった黒田挟範もまだ小さい時分であったが、社長の黒田三郎君には、私が仕事をはじめるに当たっては、いろいろお世話になった。私が東京螺子にいた時、黒田君には、ゲージの注文の世話をしたことがあったが、今度は逆に私が世話になった。

     そのうちに、この黒田三郎君のほかに、倉本憲一、斎藤又一、大岡育造という近くでやはり工場を経営している人たちと一緒になって、ときどき夕食を食べながらお互いに会社の経営について相談をするようになった。

     お互いに、せいぜい30人どまりの従業員を抱えた小さな工場の経営主であったけれども、こういう人たちと気心を通じて経営について話し合ったということは、ほかの人たちにも益したし、私にも大いに役立った。

    東芝など特許を買いに来る
    近くの工場主との写真
    黒田挟範の前で黒田三郎君(右)と

     蒲田でタイムスタンプを生産しはじめた時に、東芝からワーレン・モーターを買うことになった。東芝もこのモーターを何に使うのか関心を持ち、タイムスタンプをつくることになったと聞いて、私の特許を売ってほしいという話が持ち込まれた。しかし私は売らなかった。それで東芝は、とうとうアメリカのストロンバーグ式のタイムレコーダーを作り出したが、それは成功せずに終わった。

     また高野建設から特許を買いたいと言って来た。私が一生暮しに困らないようにするからと、相当いい条件を持って来たが、私はとうとうこれにも特許を売らなかった。同じく三井物産からも、資金を出すからぜひ経営に参加させないかとか、3万円で特許を買いたいという申し出があったが、これらを全部私は断わった。

  • 第1号機出来る

     そのうちに、私をはじめ従業員が努力した甲斐があって、タイムスタンプの試作品が2台出来た。その1台を、大森にあった東京瓦斯電気という会社へ持って行った。この会社はのちに日立製作所に合併され、いまはいすゞ自動車になっているが、当時この会社の社長は、松方五郎君であった。

     私が以前海軍に勤めていた時に、松方五郎君は東京小名木川に20人か30人の工場を経営していたが、海軍の仕事のことで少しばかり援助してあげたことがあった。そういう関係から、タイムスタンプ第1号機を持参した。かつて小名木川時代に一介の若い技術者であった栄国嘉七君は、その時は機械部長であった。

    昭和7年ごろの社員たち
    昭和7年ごろの社員たち:前列中央筆者

     私はタイムスタンプを栄国君に見せた。ところが折よくも、同社では、エ程管理のために外国からタイムスタンプを購入しようとしていた時で、私の来社を大変に喜び、当分の間テストしてみると約束した。

     昭和6年の暮に、同社から代金を支払うという通知が来たので、私は明けて昭和7年の正月早々同社に出向いた。すると、やはり小名木川時代に事務員をしていた横浜君が、その時は支配人に昇格していて、事務所の玄関でバッタリ出合った。横浜君に私が新年のあいさつをしようとしたら、先方から、「君、あのスタンプはすてきですよ。16台注文します」と言われた。この時の喜びは、30年以上すぎているいまでも、はっきり覚えている。

    タイムスタンプの売価

     つづいて、服部時計店からも6台の注文があった。私が早速タイムスタンプを支配人の林君に見せたところ、「値段はいくらだ」とまず聞かれた。私もうっかりしていたが、その時には値段をいくらに決めたらいいのか全然わからなかった。そこで私は率直に、いくらにしたらいいか林君に相談した。

     すると林君は、300円でどうだと言われたので、正直のところ私はびっくりしてしまった。なぜかというと、タイムスタンプの原価はせいぜい130円くらいであるのを、300円で売るということは暴利をむさぼるものだと林君に言った。林君が言うには「物を売るには広告費というものがかかり、またその中間に相当の手数料がいる」とのことであった。私は、この林君の言によってはじめて商売のコツを開眼させられた。

     こういうことで、タイムスタンプの売価は、280円に落ち着いた。さきに注文をうけた東京瓦斯電気にも、この値段で納入することになった。私は、はじめ自信があまりなかったタイムスタンプに、需要が案外あることに力を得て、15坪の針工場から、すぐ近くに300坪の土地を借りて工場を作った。昭和6年11月に15坪の針工場を借りて仕事をはじめて、わずか半年足らずの間に、もう工場の拡張をはじめた。

  • 平凡社『大百科辞典』に紹介さる

     昭和8年にはじめて出版された平凡社の『大百科群典』の第16巻215ページに、タイムレコーダーの説明が掲載されているが、ここで私の発明になるタイムレコーダーが掲載されるに至ったいきさつにふれてみよう。

    平凡社『大百科辞典』に掲載された記事
    平凡社『大百科辞典』に掲載された記事

     私はたまたま、そのころの東大工学部精密機械科長の青木保博士と、精密機械とは一体どんなことかと話し合ったことがあった。ただ誤差が少なくとも、一つだけ作っても仕様がない。何千何万と作っても、その部品がお互いに交換性を持つ、これが本当の精密機械ではないかというのが私の持論であって、青木博士と議論を戦わせたことがあった。

     そんな関係から私がタイムスタンプを作ることになったと言うと、青木博土も、それはめずらしいものが出来た、ひとつ学生の教材に貸してくれないかということがキッカケで、百科辞典にのるようになった。いまでいうパブリシティ(記事提供)のはしりであったろうか。とにかくその当時「精密機械とは何か」ということが、斯界の問題になっていて、それが機縁の一つとなり、また、その後海軍の魚雷に使う雷道計の研究に際して、青木博士にはいろいろお世話になった。

    関西地方から満州・朝鮮へ

     それと同じころ、大阪朝日ビルの7階に巽商事という会社があって、そこから関西方面のアマノ・タイムレコーダーの一手販売をやらせてほしいという話があった。その申し出があって1週間ほどしてから、さらに伊藤喜商店の社長が、ワーレンモーターを注文していた東京電気の横山政二君を同道して、やはり関西方面の販売権をほしいと言って来た。

     当時の私は、商売の方は素人であったから、どちらがいいかわからなかった。そこで私は、とにかくはじめに申し出があった方ということで巽商事を選んだ。

     巽商事では、紡績会社へ1万円もするものを納めているから、300円くらいのものをつけてやっても十分売れますと言っていたが、あとになって伊藤喜商店の方がしっかりしていることがわかった。

     巽商事では、はじめからそういう態度であったから、なかなか売上げがのびず、1年くらいの間に50台ほどのストックが出来てしまった。こういうことで、そのストックを引き取り、巽商事とは手を切った。

     私の方は、これで大きなストックを抱えることになったが、何が幸運になるかわからないもので、満州事変がますます拡大して行って、タイムレコーダーも満州・朝鮮へドンドン出て行くようになった。このために、巽商事からストックを引き取ったことが、かえって大きな利益となった。それ以来、満州・朝鮮には製品が大分出るようになり、内田洋行にこの方面の代理店を頼むことになった。

     私はこの満鮮方面には、毎年1回しかも2月に行くことにしていた。1週間の日程で、夜行に夜行を重ね、しかも、寒い所には寒い時に行くにかぎるという私の考え方で、寒い2月に旅した。

  • スラれた小切手

     私は関西方面の販売には忘れられない思い出がある。それは昭和8年の春のことであったが、私は大阪近辺のめぼしい会社や工場にあててタイムレコーダーのダイレクト・メールを行なった。ダイレクト・メールとはいっても、往復葉書による注文希望の有無を問い合わせる程度のものであった。しかし返って来たのは、300通のうちわずかに2通であった。

     私はその2通を頼りに、3等車にタイムレコーダーとカードラックを振り分けにして乗り込み、大阪へ行った。あとから考えてみれば、これがアマノ・タイムレコーダー大阪進出の第1歩であったが、あてにしていた第1軒目の店では、「考えときまひょ」で態よく断わられてしまった。私は重い荷物を背負って、「こうまでして売らなければ食って行けないのか」と、われ知らず涙がにじんで来た。

     そして2軒目に訪ねたのが、南海線の河内長野駅際にある吉年可鍛鋳造株式会社であった。ここではスラスラと話がまとまり、380円也の小切手を懐に心も軽く大阪駅へ引き返して来た。大阪ではじめて売り込みに成功したので、阪急百貨店の食堂でビールを飲んだのがいけなかった。

     子供のみやげでもと思って、エレベーターで地下まで降りたが、そのエレベーターの中で虎の子の小切手をスラれてしまった。さっきまで外とうの内ポケットに入れておいた小切手がなくなっていた。私はすぐに吉年鋳造所へ電話で連絡したところ、先方では銀行に、振り出した小切手を無効にするよう手続を取ってくれ、快く私にもう一度小切手を書いてくれた。私はこの好意にホッと胸をなでおろした。

     のちに私は、昭和34年に吉年老社長をたずね、あの当時の好意に改めて謝意を表し、私がかついで行った思い出のタイムレコーダーを最も新しいタイムレコーダーに取りかえてもらった。

    タイムレコーダーだけでは食えず

     しかし、このころは何と言っても、タイムレコーダーはほとんど普及しておらず、月に1〜2台しか売れなかった時分であった。その間に海軍へ納入する殺菌水の製造缶などの注文をうけて、何とか売上げをのばそうとしたこともあった。

     これは、大倉商事とかその他の大会社が、製造を引きうけていたが、大阪高工同窓生の海軍技師岡村君の援助で、海軍の指名入札に入れてもらい8,000円ぐらいのものを、この場合は私のカンがみごとに功を奏してわずか10円ほどの差で落札したという思い出話もある。

     また、海軍航空試験所時代の部下であった渡辺与市君が、航空廠から風洞その他の注文をうける手引きをしてくれたこともあった。とにかく天野製作所も、創立のころは、いろいろなものに手を出し、中にはそのために損失をこうむったこともあったが、割合順調に発達して行くことができた。細かく見れば、いろいろな苦労もあったが…。

  • 第2章 軍需生産に乗り出す

    軍需生産加入のチャンス

     昭和6年9月にはじまった満州事変は、いつ終わるとも知れないうちに、ズルズルとつづいた。はじめは東洋の片隅に起こった紛争とみられていたこの事変も、ようやく世界の注視をあび、アメリカ、イギリスとの確執もそろそろ生まれて来た。

     こういう情勢の下で、国内でも徐々に軍需が高まって来て、国内生産の大半がこの軍需生産に占められるようになって来た。そういう中で昭和9年になって、天野製作所にも軍需生産に加わるチャンスがめぐって来た。その発端は津上製作所であった。

     津上製作所は、そのころ三井物産の資本を入れて、大きく伸びようとする際であった。それをキッカケとして、海軍の仕事を引き受けることになった。津上製作所では、岸科という予備海軍中将を顧問に入れて海軍に運動して、舞鶴工廠から魚雷のケースの払下げをうけ、これに雷道計を入れ、雷道頭部として試作することになった。

     しかしながら、この雷道計というのは軍艦あるいは飛行機から発射する魚雷の最重要部分であるために、非常な精度の高さが要求され、わずかな狂いがあっても致命的なものとなるので、津上製作所では注文を受けるには受けたが、その大切な部分であるカプセルの製作ができなかったので、海軍艦政本部の仲介で私の方に雷道計製作の依頼があった。

    雷道計の製作に加わる

     電道計というのは、急所であるカプセル、いわゆる提灯というものの製造方法がうまく行かないと、良いものが出来なかった。この製造方法について、私は新しい工夫をした。もともとは海軍の設計であったが、私の新しい工夫を海軍に知らせるとともに、これを特許として出願したところ、これが特許公告となった。しかし、この特許について愛知時計電機からこれは以前から同社で作っているものであるという抗議が出された。海軍の方でも、魚雷担当の朝熊造兵中佐が、海軍で以前から作っているという艦政本部長の証明を出して、愛知時計電機の抗議を証明する方にまわったので、私の方はきわめて不利となった。

     とにかく、その対象となるものが、海軍でなければ使わないものであるだけに、私としても、もちろん自分が正しいと思っていたが、そうも行かず、その特許は海軍へ献納するということになってしまった。

    雷道計実験装置の外観
    雷道計実験装置の外観

     しかしこのことでは、私は別段の損害はうけなかった。あとは愛知時計電機と製作面で競争する形になった。相手は軍需生産では経験も古く、それだけに人材もいる大会社であったが、私をはじめ従業員の努力がみのって、当社で作ったものの方が非常に成績が良く、天野製という注文が、使用部隊からあるので、海軍省では、私の方にドンドン注文を出してくれるようになった。

     海軍の方では、愛知時計電機は大きな会社であるし、私の会社のように小さな会社よりも、むしろ信用もあったが、これを製作面で打ち破ったことは、私にとってはこの上もない会心事であった。

    雷道計の内部
    雷道計の内部
  • ようやく完成に至る

     それ以前に、雷道計の水準をそこまで引き上げるためには、相当の苦労をした。当時の天野製作所は、私の個人経営であったが、資本金としては、2万円にも満たないほどの小会社であった。それにもかかわらず、私は雷道計の研究に5万円ほどの資金を投じた。これが完全なものになるまではと、私も何かにつかれたように、日夜従業員とともに努力した。

     とくにこの雷道計は、魚雷を飛行機から海中へ落して所定の方向へ向かわせることが一番むずかしい問題であった。それにはまず、海面に落ちる時の衝撃にたえられるようにする必要があった。このために、工場に近い六郷橋の上から川面に落しては実験した。これも、海軍の秘密兵器であるために人の目を盗み、時には警官の目さえも盗んで行なった。

     しかも六郷川の実験だけでは足りず、工場の屋根から地面に落したり、そのころ羽田で民間航空をやっていた日野という人に頼んで、50メートル、100メートル、200メートルの高度から落してもらって実験したこともあった。

     このような強度試験を行なって、ようやく強い衝撃にもたえ、きわめて精密に魚雷の進度を決定させるものを作るよう大いに努力した。この努力がむくわれて、雷道計では天野式が最もよいという評判をとるようになった。

    「雷道計」のニックネーム

     海軍への納入値段は、大会社の愛知時計電機を相手にして、私の方が1割も高かった。海軍では「お前の方が小さいのだから、安いのが当り前なのに、高いとは何事だ」とすこぶるおカンムリであったが、私は「時計でも、大きいものが小さいものより高いとはかぎらない。反対の場合もずいぶんある。それは物の精度によってきまる」と言い返した。しかし海軍の方では、もうーぺん考えてみろと言って来た。私もさして反抗せず、「ハイ」と言って帰って来て、2日も3日もそのままにしておくと、海軍省から呼び出しがかかったが、それでも我慢して出て行かなかった。私の方としても、せっかく多額の金を投じて完成したのであるから、ノドから手の出るほどその仕事がほしかったが、将来のことを思えば、ここが我慢のしどころと、つらい我慢をつづけていた。

     一方海軍省では、私が出て行かないと、契約官の義務が立たないから、ヤイのヤイのと催促してくる。私もそれではとようやく出て行くと「ええ仕様がない」というわけで、私の方に注文を出してくれた。こういう次第で、私の方がいつも他社より1割高く契約してくるということになった。以来私は海軍省へ行くたびに「天野」と呼ばれる代わりに、「雷道計」と呼ばれ、それが私のニックネームになってしまった。

  • 工学博士を逸す

     私は雷道計の中心となるカプセルの材料の研究には、相当頭をなやませた。内部の構造のことは、東大精密機械科長の青木保教授に教わりに行ったが、材料のことは、もとの大阪高工の冶金科の先生で知り合いであった後藤正治東大教授に教わった。両先生とも私に親切に助言してくれたが、私の説明を聞いて、もしこれが完成したら博士の値打ちがあるとまで言ってくれた。

     それから4年の年月をかけて、とうとう雷道計の満足なものが出来上がった時、そのことを報告すると、その裏づけとして研究資料をまとめて出してくれれば、学位を授けるということであった。

     しかし私も、残念ながら仕事の方が忙しくなり、学位どころの話ではなかった。幸い弟の壮五が、京大理学部を出て会社にいたので、彼にまとめさせて、学位を取るように言ったが、早くに会社を辞めてしまったので、学位は取れずに終わった。いま思えば、あの時もう少しの努力を惜しまなければ、工学博士の肩書が取れたであろうにと思うと、多少の心残りはある。

     この間、雷道計の注文はうなぎのぼりにふえて行った。しかし社内には、これといった技術者がいなかったので、海軍艦政本部雷撃課長に懇請して、台湾鉄道にいた新郷重夫君を家族もろとも軍用機で引っ張って来て、当社の仕事をやってもらうことになった。彼は山梨高工の出で、作業管理を担当してもらったが、彼自身鼻息が荒く、ほかの者たちとソリが合わなかったので、聞もなく辞めてもらった。人を使うのは、まことにむずかしいものである。

    タイムレコーダーものびる

     こうしているうちに、昭和9年に雷道計の試作をはじめてから、生産が動道に乗るようになるまで、相当の時間がかかってしまった。一方のタイムレコーダーもその後は順調にのび、新製品を発表するようになった。

     しかし、雷道計の生産とタイムレコーダーの生産とが、ともに順調にのびてくると、これらを一緒の場所で作るのはまずくなって来た。とくに雷道計は秘密兵器に指定されていたので、海軍では、製作上の秘密が外部にもれることを非常に恐れていた。海軍の方では、雷道計の生産部門を別の所に分けた方がよいという意向であったから、適当な工場建設用地を物色しはじめた。これが昭和13年のことであった。

    初期のタイムレコーダー(その1)
    初期のタイムレコーダー(その1)
    初期のタイムレコーダー(その2)
    初期のタイムレコーダー(その2)
  • 横浜へ工場移転を考える

     そういう時に、たまたま横浜市菊名の地に、工場誘致の話があるということを聞いたので、私は早速地元の有力者である椎橋利助、伊東秀輔の両者に会い、土地を取りまとめてくれるよう依頼した。

     この菊名という土地は、そのころ大して発展していなかったが、土地のお百姓さんはあまり土地を手放そうとしなかった。これも、土地が少ないわりに農民の数が多いので、無理はないと思っていたが、なかなかまとまらず、私もこの交渉には大分ヤキモキさせられた。そのうちに、近くを流れる鶴見川が決壊して周辺が水びたしになってしまった。

     私も知らせをらけて、状況を見に来たところ、ちょうどいまの会社の所から港北区役所に行く道路の上にまで冠水してしまうという状態であった。田畑はもちろん水をかぶってしまったので、なかなか土地を手放そうとしなかった農家の方では、こんなに水がついたのでは、しばらく耕作もむずかしいと考えたとみえて、「いままで話がすすんでいますが、どうですか。水がついても買ってくれますか」と言って来た。

     私は「いや水がつこうが雪が積もろうが、買うと一度言った以上は買います」と答えたので話がまとまり、現在の工場敷地を買った。その広さは、現在の土地を中心として5万坪くらいとしたが、会社の幹部が、300坪の小さな工場から5万坪とは飛躍しすぎるとして反対したため、私は彼らの意見を尊重して5,000坪とした。しかしその後、3,000坪ほどを別のところに買い広げた。

    バカ正直の見本

     その時にこんな話かあった。土地を買うについて世話をしてくれた椎橋君と伊東君は、「将来工場を誘致するのに、売るとか売らないということではまとめにくいし、あとから値をよく買ってくれれば売るという者が出て来ても買わないでほしい。この際土地をまとめるだけまとめて、この金額よりも安ければ買い、高ければ買わないで下さい」と私に言って来たので、それを了承した。

     いまも会社の西南の隅が欠けているが、これは、もう10銭高く買ってくれれば売ると地主が言って来たのを、約束を守って断わった名残りである。いまの土地は昭和13年に1坪3円50銭で買ったが、私はあの時の世話人との約束を守り「10銭安ければ買います」と言って買わなかった。私は、つねに男子の一言を重んずるやり方をしているが、これは私の馬鹿正直の見本である。

    株式会社に改める

     こうして私は、菊名に新しい工場を建設して、雷道計の生産とタイムレコーダーの生産とを分離した。そしてこの機会に、これまで個人経営であった天野製作所を株式会社の組織に改め、将来の発展にそなえた。資本金は199,800円で、株式会社としての発足は、昭和14年3月1日のことであった。資本金を199,800円という妙な数字にしたことは、当時20万円以上の会社を設立することは、むずかしい許可がいるからであった。

  • 第3章 蒲田時代の思い出

    経営者としての私の基本観念

     ここで菊名の工場についての話に入る前に、蒲田時代の思い出について話をはさみたい。

     蒲田にはじめて工場を持った時、私は山梨高工の講師をつづけていた関係上、はじめのうちは工場経営に専念できなかった。このことから従業員の間に、変な考え方が支配するようになった。

     私はもともと、働く者と経営者とは同じく人間だから、秩序を保つ上からは上下の関係になるが、もっと平等な気分を持つべきで、オレは経営首脳者だから何をしてもいいんだというのではなく、社長は社長として職責を十分にはたし、従業員は従業員としての職責をはたすことが大切であると考えていた。

     こういう考え方から、できるだけ従業員を優遇した。会社をはじめる時にも、従業員の生活の面倒は、できるだけ見なければならないと思って、1人に1,000円ずつを退職準備金としていたのも、その現われであった。発明品は10年たたなければ安定しないし、仕事が失敗した場合の責任はすべて私にある。従業員は失敗した場合、失業によって責任を負わされるが、これは不都合だと思って、あとで会社の信用を増したことになったが、1人増員するごとに、取引銀行である第一銀行鶴見支店に1,000円ずつ定期預金をすることにした。

    従業員への配慮

     私の製作にかかるタイムレコーダーは特許製品であり、時間管理機器という分野では、わが国のパイオニアになるものであったので、私はこの事業を完成するには、まず10年の年月はかかるものと見た。

     そこで、従業員を雇い入れる場合、30歳以上の人は、どんなにすぐれた人でも雇わなかった。ということは、30歳の人を採用したとしても事業が安定する時には40歳となり、そろそろメガネをかけるころになって、タイムレコーダーや気象用計器などの精密な作業ができなくなるという細かな配慮からであった。

     そのころは、10時間勤務がふつうであったが、天野製作所は、創業の時から労働時間は、午前8時始業で、休憩1時間をはさんで午後5時終業の実働8時間勤務であった。このほか、従業員の最低生活を安定的に保証するために、できるだけ月給制にし、利益も分配制にした。

     その方法は、出勤日数に給料をかけたものに、各人の評点をかけて按分比例で分配した。その場合、社長も見習工も一点の投票とした。そして自分をはじめ従業員全部の評点を社長も見習工も平等に採点した。現在でも画期的なめずらしい方法である。

    (昭和8年4月8日規定の所員会規約拔萃)

    利益分配方法

     各期末決算ニ於テ純利益金ヨリ投資金ニ対シテ年七分ヲ控除シ左記ノ割合ヲ以テ所員及傭員ニ分配ス

     1. 2/10一勤務振リ・技倆・品行ノ三種類ニ就テ上(3)中(2)下(1)ノ投票ヲ所員ハ所員全員、傭員ハ所員傭員ニテ投票ヲ行ヒ、其ノ平均点数ニ其期ノ総出勤日数ヨリ60日ヲ控除シタル数ト月給ヲ乗ジタル数ニ所員ハ3ヲ所員有資格者ハ2ヲ普通傭員ハ1ヲ乗ジタル積数ヲ以テ按分ス

     日給者ハ日給ノ25倍ヲ以テ月給ト見ナス

     残業及早出ハ其ノ時数8ヲ以テ1日に換算シ、遅刻及早退ハ1時間迄ハ各1回ヲ2時間トシ1時間ヲ過グルトキハ半日ニ換算ス

     2. 2/10―前項ト同一ノ方法ニ依テ各所員及傭員ノ分配ヲ定メ、各個人ノ区別ニテ当所ニ保管シ、後日各員ノ福利資金トナス

     3. 1/10―従業員福利増進及社会公益事業費トス

  • 利益の10%を慈善事業へ

     これと同時に、私は毎年計上された利益の中から、その1割を慈善事業に寄付したいと考えた。これについて私は、これからドンドン社会に出て行く製品は、すべて発明品であるから、これを買ってくれることについては、世間に大いに感謝しなければならない。その気持を最も端的に表わすには、慈善事業への寄付をつづけることだと思った。

     幸い私は、多胡寅次郎という慈善事業家と知り合っていたので、この人に利益の1割を託すことにした。多胡氏はまことに変わった経歴の持主であるので、ここに紹介してみたい。

     彼は、群馬県高崎市の富豪の出身で、少年時代に、同市近在に産する生糸を横浜へ運んで外人に売っていた。これでたくさんの金が自由になることが原因して悪い遊びをおぼえた。これが悪の道にすべり込むキッカケとなり、16歳で強盗殺傷をして、幾度も捕えられ投獄された。そのたびに脱獄をくわだてるという凶悪な人間となり、危うく死刑にされそうになったが、年少のために北海道網走の監獄に投ぜられた。ここもまた脱獄したが捕えられ、42歳でようやく放免の身となった。

     彼は獄中で習ったミシンと足袋の製法とを、その後は東京浅草の貧民に教えていた。私は賀川豊彦氏の紹介で彼を知り、彼の話に私も同意して、利益の1割を彼を通じて社会事業へ寄付することとした。

    1,000円貯金の余恵

     前記の通り私は、1人の従業員を雇い入れるたびに1,000円ずつ貯金することにした。この1,000円は、仕事がうまく行かなくなった時に、それを従業員に退職金として与えるためのもので、昭和8〜9年ごろでは1,000円の金があれば、家族3〜4人が1年間楽にくらすことができた。

     この1,000円の金は、第一銀行の鶴見支店に定期預金として預けたが、この貯金はまた、従業員に対する退職金としての準備のほかに、会社それ自体の資金を増すことにもなり、のちに横浜に工場を建てた際に非常に役立った。

     私は昭和14年に菊名に土地を買い、工場を建てようと決意した時、すでにこの貯金は20万円ほどになっていた。建設資金としては約40万円が必要であったので、この20万円の金をあてることになった。そのころには、すでに雷道計もタイムレコーダーも順調に軌道に乗っており、会社の基礎も十分に固まっていたからである。

     そういう確信のもとに、この定期預金の20万円をおろしたが、まだ20万円ほど不足していた。そこで私は、かねてからの預金先であった第一銀行の鶴見支店長を訪ねて、融資を頼んだ。しかし、銀行としては当然のことであるが、蒲田の工場や機械などを担保に入れろと言って来た。私にしてみれば、会社はまだ私の個人経営であったので、会社を担保に入れるのは、私の一存で決められることで、それでも一向にさしつかえがなかったが、従業員の生活の根拠であるものを担保に入れることには、何か割り切れないものを感じたので、何とかして担保なしで融資をうけたいと思った。

  • 明石照男さんを知る

     無担保融資の話が、鶴見支店長ではうまく進まないので、支店長の了解をえて第一銀行本店をたずねた。そしてこの件について、常任監査役であった後藤謙三氏(のちに当社監査役)に会って話をして、さらに後藤氏から頭取の明石照男さんに話してもらった。

     当時でも会社を経営している人は、だいたい銀行から借金をしてやっており、機械を買うにも月賦で払うという人が、私のような程度の者では全部と言っていいくらいであった。後藤さんは「あなたのような仕事をしている人が、時々定期を入れる。しかも1,000円ずつきまって入れるということは、よほどの風変わりで、あなたにぜひお会いしたかった」と言われた。

    明石照男氏
    明石照男氏

     私のように、銀行から金を借りずに会社を経営するばかりでなく、かえって定期預金をつづけるというのは、ちょっとめずらしいというのであった。そこへ私がちょうど良い具合にたずねて行ったので、後藤さんは、非常によろこんで頭取の明石さんに会わせてくれた。

     明石さんも、後藤さん同様私に会いたいと思っていたということであった。私が事情を話すと、20万円融資の件はOKとなった。その時の副頭取は渋沢敬三さん(前国際電電公社総裁)で、のちに日銀総裁や大蔵大臣になった人であった。明石さんは「渋沢さんは発明考案に深い興味を持っているから、あなたのような人が会うと喜ぶから、ちょっと会ってくれ」と言うので、渋沢さんとも会って話をしたが、非常に話がはずんで、1時間半ほど話をしてしまった。

     当時軍需省からも設備を増強せよとのすすめがあったので、会社は増資をつづけ、ほとんど毎年のように倍額増資をしたが、私が大半の株を持っていたので、その都度第一銀行から融資をうけて増資した。しまいには、そういう資金なら、わざわざ本店へ来なくても鶴見支店の方で融通するというように、非常に信頼してもらった。

    みずから見習工教育

     蒲田の工場時代、私は見習工に、ヤスリやハンマーの使い方を手をとって、基礎から教えた。社長の私がみずから教えるので、見習工も大変気を使ったと思うが、中には他の会社へ行きたいという者があった。見習工は、当時高等小学校を出ると、徴兵検査までは勤務するという誓約書を入れて雇っていたが、途中で辞めたい者があると、快く辞めさせていた。

     すると、すぐ近くに東京計器という当時指折りの立派な会社があった。ここへ行って天野の見習工ですと言うと、試験もしないで、そこの見習工よりも一級上の給料で採用してくれるということであった。私も、非常に教育のやり甲斐があると喜んでいた。

  • 独自の設計と良心的な製作

     タイムレコーダーは元来特許製品であり、だんだんに改良して行って、外国から入って来た機械の真似はしないという方針を取った。そのために、天野製作所を創立して2年ばかりは、良い製品を作るのに非常に苦心した。その結果、その後も新しい機構を発明して、特許や考案もふえて行ったが、出来て売ったものでも、気に入らなければ金を持って行って、返してもらうというようなことをしたりした。また、50台ほど会心の作でないために、ハンマーでたたきこわしたりしたことは、製作している者が、もっと心をこめてやるようにという気持もあったが、良心的に、そういう思い切ったことを、そのころはやったこともあった。

     私は、かねがね会社の資本金は小さくとも、堅実に経営して行きたいと思っていた。同業者では、アメリカの機械の真似をしてそのまま作り、非常に簡単にタイムレコーダーを作っていたけれども、私はそのような苦心をしたために、ある時は、昼間は会社の仕事をし、夜間に設計をするというようなこともした。

     したがって設計の仕事は、夕食をすませたあと、しばらく見習工に話をしてやり、それから取りかかるという状態で、会社にはソファ兼用のベッド――いまも会社の私の部屋にあるが――を置いて、夜中の1時、2時、ときには徹夜して図面を書いた。そして疲れるとそのソファに寝て、翌日また仕事をするという状態がしばらくつづいた。

     すると家の方では、私が会社に泊まり切りでめったに家に帰って来ないので、どこかにいい婦人でも出来たと疑うような滑稽な話があった。当時私の家は藤沢にあったので、蒲田から帰る時には、疲労のあまり眠ってしまい、目をあけてみると、藤沢を通り越していたことがしばしばあった。私は大体において、睡眠時間は1日3時間か4時間くらいで押し通し、猛烈な努力をした。

    出銭を省く

     そのころ、作業に必要なタップとかダイスは、蒲田あたりには売っていなかったために、麻布の古川橋あたりまで、わざわざ買いに行った。ついでにふれると、会社の基礎となった第1号の旋盤も、古川橋の古道具屋で買ったものであった。

     工具を買いに行くために、私も44歳になってはじめて自転車に乗ることを覚えた。そして帰ってくるとまた、こういう寸法のものがないというので、また自転車に乗って行くということで、ほとんど1日中、工具のためにかけまわったこともあって、いまから考えれば、滑稽なことでもあり、またよくやったものだと思う。

     タイムレコーダーを東京方面に持って行くにしても、京浜国道に出てタクシーに乗ると、銀座まで75銭かかった。それが惜しくて、京浜急行の雑色駅まで自転車で運び、それから荷物をかついで品川駅の階段を上り下りして国電に乗り、有楽町まで運んだ。

  • 経営の理想と現実

     前にもふれたが,私の労務管理について,1部の従業員があまりにも甘く見ていて,社長は力がないから,いい条件で我々を待遇しなければ会社をやって行けないのだと言い出した。その張本人が,中谷という工場長であった。私はやむなくその工場長を辞めさせたが,その時に家を一軒建ててやり,退職金として1,000円の金を与えた。

     彼は,その1,000円を資金として5〜6台の機械を買って,終戦後まで仕事をしていたと聞いていたが,いまは中風で長野の方で寝ていることがわかったので,当時からいた山田・高橋・加藤の諸君と出し合って,見舞金を送ってあげた。

     さて私は,企業というものは経営者が自分だけのものだと考えるのではなく,そこから生じた利益を従業員にも十分分配するという方法を考え出したが,社長はこのように甘くしなければ仕事ができないのだという考えを持つ者が出て来たので,それ以来会社の経営は私の専断で行くことにし,山梨商工の講師を辞任した。

     話はもどるが,この利益分配方式について,そのころ文部省に学術振興会というものがあり,私の知人の波多野予備海軍中将が,作業能率関係の責任者であって,私にぜひその方法を発表してほしいと言われたが,私は少なくとも3年の実をへてからにしたいと返答した。しかし断わってよかった。

     私としては当時は失敗したが,それは,私のやり方があまりに急進的で,かつ当時の働く者の考え方が古かったからではないかと思う。いまは大分考え方が変わって来ているから,もう一度これを試みてみたい。そしてそれが成功すれば,わが国産業界に益するだろうと思っている。

     最近当社でも,創立当時とまでは行かなくても,一応利益分配方式を,奨励金制度ということで推進している。近ごろ新聞・雑誌に当社の労務管理やその他の人事施策などがよく紹介されるが,この問題についてはまだまだ結論を得ておらず,私としても,今後もっと研究してみたいと思っている。

    固まった経営の理念

     この蒲田時代は,私としては,自分の会社の経営について確固とした信条をもってつらぬいていると思ってやって来たのであるが,いまふり返ってみると,思いいたらぬふしがたくさんあって,失敗ばかりを重ねたようにも感じられる。しかしこの時代は,いわば経営の学習時代とも感じている。その間に私の胸の中に固まったものが,いくつか出来上がっていったのをはっきり覚えているのである。それが時とともに私のその後の会社経営のうちに,ちょうど小さい芽がつぼみをふくらみ花を開き,やがて実を結んで行くというように展開したように思う。やがて展開して行く小さい芽,それを経営の理念とでも呼ぶならば,その当時には,四つの側面があった。

     第1は,どんなに小さくとも「堅実な」と自他ともに許すことのできる会社,そんな意味で他社の手本になれる会社となりたいということ。これは,「財務的に堅実な」ということが初一念であったが,「技術的」にも堅実なということ,「販売面」でも堅実なということ,というように,だんだん領域がひろがって行った。

     第2に,従業員の「人」としての向上をめざす方針,施策を,機会のあるごとに実行して行きたい。はじめは,これは多少足が地につかない理想主義的なふしがあった。しかし結局,企業というものは,人々の集団的活動であり,社長としての自分は,これらの人々を率いて先導して行くものであるけれども,みんなが,社長である私の考えを理解した上で一つにまとまってくれ,「人」として向上してくれないかぎり,会社の集団としての力は向上しない。経営ということは結局,会社というこの集団を構成する人々を向上させるために訓練することと同じ言葉ではないかと考えるようになって来た。ただ訓練と言っても,学校教育のようなものでなく,修身教育でもない。一人一人が,会社の目標をよくわかってくれて,その上で力を合わせてその実現につとめるようにしてくれる。そういう「人」になってもらう努力というようなものが,ここで私の考えている「訓練」ということにあたると考えている。

     第3に,自社で考えたものをやる,すなわち独自のもの,よその真似に根ざさないもの,それをやるということに徹することである。これは出来上がったものが独自のものであることが大切であり,それが企業の世界では強調されている。私はもっともなことと思っているが,それにもまして,自社で「考える」というその考えること,出来上がってくる独自の「もの」のもととなる「考え」方を,より大切にしなければならないということが,私のうちに固まって来ている。この考えというのは,はじめは「製品」ということに集中していたが,だんだんそれが,「組織」とか「制度」とか,目に見えないものの方向にもひろがりつつあるようだ。

     第4に,どんなにもうかっても,下請はやらないこと。これは,日本経済の明治以来の動きを顧み,また下請企業の日本経済の中の位置を考える時,私としては,そういうものになりたくない。またもう一つは,日本の経済が本当に国際水準から見て,近代化へ脱皮するためには,いまの日本の下請の列に加わらずともすむ能力のあるものは,加わらない方が,脱皮に貢献することになるという考えがあるからである。

  • 座談会の様子
    左から長谷川正衛、山田市作、加藤繁雄、木村与三、高橋敏夫の諸君

    〈座談会〉 6

    アマノ昔話
    出席者
    (発言順)
    高橋 敏夫 昭7.7入社(当社監査役)
    山田 市作 昭6.11入社(元購買課)
    加藤 繁雄 昭8.2入社(購買課部品検査係)
    木村 与三 昭12.6入社(生産部NR組立係長)
    長谷川 正衛 昭9.8入社(検査課長)

    ――いままでアマノの表面的な歴史については、たびたび耳にしていますが、きょうはそのウラ話といったところをお聞きしたいと思います。まず、高橋さんの入社は何年ですか。

    高橋 ぼくは昭和7年の7月に入社。そのときの月給袋がまだあります(笑)。

    山田 ぼくは会社が出来た時。

    加藤 私は8年で、新しい工場が出来たばかりの時です。

    高橋 それで社長が、この坊や今度くるからねと言ってね(笑)。あの時は入るたびに歓迎会をやって餅菓子を買ったんだ。やめる時もそうだった。

    木村 2銭の餅菓子だったね。

    ――長谷川さんはいつごろですか。

    長谷川 ぼくは9年の8月。

    木村 私はずっと遅くて12年です。

    高橋 針工場はいつだったかな。とにかく草むしりをやって、社長からキャラメルを3つもらったことがある。まわりが草ボウボウで塀がなかったんだ。

    山田 7年の9月ですよ。あの草むしりは運動場が目的だったね。棒高跳や機械体操なんかをしていてね。あのころは昼休みというと六郷川の土手へ行って…。もう外へ出ないで内で楽しめ(笑)というわけで作ったんですね。

    ――その当時からレコーダーとスタンプを作っていたわけですか。

    高橋 はじめはスタンプを作り、それを各々レコーダーに使えるようにカードさしをこしらえたんだ。展示室に古いのがあるけど。

    ――あれは直りませんか。

    高橋 もう直らないですね。

    加藤 使っていたのを売った時がありましたね。

    高橋 間に合わなくてね。一番はじめに売ったのはガス電だろ?

    山田 そうそう、10台から15台。

    加藤 ガス電はずいぶん行きましたね。

    山田 毎日行っていた。あそこで試験していたようなものだ。

    高橋 はじめ良いんだが、なじんでくるとギヤーが空回りしている(笑)。

    高橋 地下鉄へ行った時、交流だから大きな音でビーガチャンとやっている。とれを直せと言われても直しようがなかった。交流だから大きな棒を吸いこんで、その大きな音ったらないんだ(笑)。

    ――14年にここへ移ったわけですね。

    高橋 はじめ針工場を借りていて、1年たたないうちに蒲田の工場に移り、それから昭和14年にここへ移転したわけです。

    長谷川 ぼくが一番はじめにこっちへやって来たんだ。

    高橋 14年からタイムレコーダーだけ向うに残った。

    ――それではここは兵器だけですか。

    高橋 そう。レコーダーの方は4人しか残らなかった。ぼくは向うに家があるからということで、最後まで残っていた。急に横浜ではレコーダーが出来ないから、そちらで人を集めるというんで集めた。

    木村 あのころはずいぶん出来ましたね。

  • 高橋 月産130台ほどでしたね。

    山田 そんなにあったですかね。

    高橋 ちょうど19年にこっちへ引越して来たときに 3,200台ほど受注残があったですよ。材料がなく間に合わなくて…今は鉄板など4ミリの厚いのを使っているでしょう。当時は3ミリの鉄板を使って組んでいた。

    ――それでは戦争中の話をうかがいましょう。

    高橋 戦争中は大阪までレコーダーが1人旅したものだ。 こっちで洗面所へレコーダーを積んでね。輸送がきかないから。それから大阪へ電報打って何時の何番目の列車に積んだとね(笑)。大阪じゃ一生懸命それを探して…(笑)。

    ――カツギ屋みたいなものですね。

    加藤 ずいぶん冒険したものですね。

    木村 それでもなくならなかった。

    高橋 レコーダーを売りに行ってアゴを出したよ。社長と行くと空身だもんだから、どんどん歩いて行く。帰りは売れたよと言って、映画みせてもらったりしたが。

    ――昔はキャラメルとかいろいろ余得があったわけですね(笑)。

    高橋 いつもポケットにキャラメルがあってね、オウと言って出したり(笑)。

    山田 食事が面白かったね。兵隊のように当番があって全部をまかなった。

    高橋 社長もメシタキをやるんだ(笑)。

    ――野菜を植えていたとか。

    山田 少し空地があったのでナスなんかも植えたが、でもすぐになくなったね。

    高橋 14年に引越す頃はもうほとんどなかった。

    ――工場をどんどんふやしていったわけですね。

    木村 全然空地がなかったから昼休みにキャッチボールをしたり…(笑)。

    加藤 昼休みに泳いだものね。

    高橋 最初のころはずいぶん泳いだな。2時ごろになると眠くなってしまってね(笑)。

    ――雷道計は?

    山田 9年からだったね。警察がうるさいからと言って、夜中に行って投げた(笑)。昼間やっては人がたかるとかね。秘密を守るために夜やるんだ。下で舟が待っている(笑)。

    長谷川 社長が雷道計の道具を考えろという。機械が何もないんだ。旋盤とミーリングしかない。それで友人のところへ行って夜あいている時にやった(笑)。レコーダーの方は、当時活字がスプリング式でとても狂いが多くて困った。

    ――B型は頑丈ですね。川へ落ちても動いていたそうです。

    長谷川 何しろ製品については皆が苦労している。皆の努力は大変なものだ。

    加藤 だから今の型になるまでずいぶん変わっていますね。

    ――戦争のころの逸話などを…。

    山田 戦争中は何でもかでも注文をとってしまってね。押しつけられた学徒や徴用工が来ても間に合わないんだ。能力の3年ぐらいの先のことをやっているんだからね。

    ――会社ももうかったわけでね。

    山田 毎年増資していたからね。

    長谷川 徴用工の悪い奴は探しても工場にいないんだ。屋根にムシロを敷いて寝てるんだ。ついこの間までそのムシロが、倉庫の中にあったよ(笑)。

    高橋 朝8時になると、どこかに行っていないんだ。おかしいと思って探してみると、天井裏で寝ているんだよ。見つかるわけがない。

    長谷川 学校の成纉の良い人にはそういうのはいなかったね。

    山田 夜はよく火をたいたね。

    高橋 工場の羽目をはがして燃やしたり。

    木村 空襲で半分仕事がダメだったね。

    長谷川 それでも爆弾が一つも落ちなかった。焼夷弾が3本落ちたかな。

    高橋 横浜大空襲の時はもう少しでみなやられていた。とにかく高木のうらのタンボから大倉山までズーッとだから。

    長谷川 もう50メートル違っていたら全滅だったね。

    木村 その時防空壕にいた女の子が泣きだして、大和なでしこじゃないか、泣くなと言ったところが(笑)やはり泣いた子のところは、たいていやられている。

    高橋 僕は防空壕が一杯でしょうがないから、社内の青桐にすがりついていましたよ(笑)。

    ――三重工場は?

    長谷川 三重工場の場所は名張から約一里。行って驚いたね。山のテッペンを平らにして工場を建てたんだ。屋根は木の皮や杉皮だが、機械だけは良かった。

    高橋 こっちは古いのばかり残った。

    長谷川 30万坪の広さを持っている。中には山あり池あり畑ありで何でもあるんだ。工場の間に松茸が出たり(笑)。

    高橋 あの機械があれば大分助かっている。

    長谷川 終戦で接収されたが、山へ上げるのにレールを敷いてロープでつるし上げる。骨を折りましたよ。

    高橋 レコーダーが作れないんだもの。戦争をやっているのに平和産業のものをやっているとは何事だ。国賊だとね(笑)。

    木村 戦後は一時ハカリ、ナイフ、ミソコシなんか作りましたね。

    高橋 ミソコシを料理屋へ売りに行って、イモで実演したが、下へ出ないでみな上へ出ちゃうんで困ったよ(笑)。

    山田 工場は夏も暑かったし、冬もすきま風で寒かった。

    ――今ではスチームも入って…。

    高橋 ラクなもんだね。

    加藤 蒲田時代の人が、こうして集まるなんてはじめてですね。

    長谷川 これに杉山さんでもいれば揃うんだが。

    高橋 しかし社長も昔からみるとずいぶん変わった。昔のように元気だったらたまらない(笑)。

    山田 昔は先頭に立って一緒にやりましたからね。

    長谷川 ごきげんだとチーチーパッパと歌っていた。最近はあまり聞かない。

    山田 忘れたんだよ。

    高橋 ウタを忘れたカナリヤかな(笑)。とにかく私はレコーダーを背負うのは社長に教わったんだ。前にカードラックを下げれぱラクだという。そうすると本当にラックだった(笑)。

  • 明石照男さんの思い出

    昭和32年5月雑誌『青淵』所載

     私はいま「越路号」で清水トンネルを通過したところである。このトンネルを通ると新潟県だと車内の拡声器が叫んだ。雪は急に深くなり、車窓に小雪が降りかかる。私は昨日配達された『青淵』2月号を読みつづけた。

     故明石さんの記事が出るのを楽しみにいつも丹念にその記事を復読するのであるが、本号では見当らぬのをさびしく思った。私は車窓を見るとはなしに見ているうちに、明石さんと私とのつながりを書いてみようと思い立ち湯沢からこの記事を執筆する。

     私は東京蒲田で昭和6年からタイムレコーダーと気象計器との製作をはじめた。昭和9年にタイムレコーダーの記録方法と気象計の起動裝置とを結合したら、いま困っている魚形水雷の試験装置が出来ぬものかとの相談があり、苦心の末昭和12年に完成した。ところが海軍では秘密兵器と市販品とを同一場所で製作することは好ましくないとの話があり、現在の横浜市港北区に土地を求め建築することになった。

     私は蒲田で工場をはじめる時に、三つの条件を定めた。一つは財産を四等分してそのーをもって資本金とする。二つはいかに優秀な人でも30歳を越した人は採用しない。三つは1,000円の利益が出たら一人採用する。この三つの理由は、私の仕事は自分の発明したものを作り自ら売ってみたい、発明品はあたかも子供を育てるに等しく、自ら考えたものを他人にまかせては改良できにくい、また他人に売ってもらっては実用化への進歩改良がえがたい、完成までは発明者自身で苦しむべき責任がある。

     しかし必ず成功するとはかぎらず、むしろ失敗する方が多い。その時に最初の1,000円を与えて退社してもらう準備金であったので、これは第一銀行鶴見支店に定期としておいた。かくして数年経過し、従業員も百数十人となり、この定期も20万円くらいとなった。しかし土地を買い建物を建てるにはさらに約20万円不足する。会社もその時は海軍の管理工場となり基礎も固まったから、この20万円の預金は使ってもよいが、不足の20万円を第一銀行鶴見支店に借りに行ったところ、工場設備一切を担保にせよとのことであった。

     それはもちろん私のものであるが、しかし従業員一同の生活の本拠であれば、考えようによっては従業員との共有物である。私はこれを担保とすることは愉快でない。願わくば約束手形だけで借用したい。期限は1ヵ年以内には必ず返済すると願ったが開き入れられなかった。それより前に、私の友人から当時第一銀行の常任監査役であった後藤謙三さんにあてて紹介の名刺をもらっていたが、別に面会の用件もないからその名刺はそのままにしてあるのを思い出して、後藤さんに面会を申し出た。用件はかくかくで、約束手形だけで20万円貸してもらいたいと申し出た。

     後藤さんは私の申し出にしばらく考えておられたが、頭取に一度たずねてみるとの返事であった。待つことしばらくで明石頭取が応接室に来られた。これが私と明石さんの初対面である。

     明石頭取は、私はよいと思う。そして実は貴君には一度面会したいと思っていた。その理由は、いま仕事をしている人は銀行から借金をしている人のみである。しかるに貴君のように時々一定の定期預金をする人ははじめてであるとのことであった。それはかくかくの理由であると先の第三項を説明した。明石さんは渋沢副頭取に会ってもらいたい。渋沢さんは私のような者を必ず好かれるとのことで、渋沢敬三さんにお目にかかった。

     簡単に挨拶するつもりのところ、かれこれ一時間半ほど話したように記憶している。明石、渋沢両氏の御厚意で私の工場建設も無事出来上り、またその後毎年1〜2回軍から増資をさせられたが、その都度両氏のお降で無事に完了し、戦争に存分協力できた。

     戦争中後藤さんは2回も戦災に会われ、私の箱根の別邸にしばらく安静せられたことがある。明石さんには終戦後しばしばお目にかかって、引きつづき立派な御人格に私淑した次第で、同氏の末の御令息は、私が御世話して私の住居の近くの下宿屋に数年おられたが、仲々立派な方で下宿屋の主人はもちろん、近所の模範として絶賛の的となっていられたことを付記したい。

     渋沢敬三さんはその後日本銀行の総裁となられ、ついで大蔵大臣になられたことは皆さん御承知のことであるが、大蔵大臣になられた時に日本銀行に行き、名刺に「別にお目にかかりたい用件はありませんが、御祝に参りました。御多忙でしょうから帰りますが、一秒でもお目にかかることができれば何時間でもお待ちします」と記して給仕に渡したところ、間もなくお出でになり、しかも御多忙のところ数分間お目にかかる光栄を載いた。

     渋沢さんは、終戦後種々苦労せられていることをうかがい、明石さんが一度渋沢さんをたずねて下さい。必ずお喜びになられますと申されたが、ついにその約を今日まで果しえないことを故人に対して申訳ないことに思っている。

  • 第4章 横浜工場建設から敗戦まで

    父の誤解で弟去る

     まだ、横浜工場の設立に着手したばかりのころ、私はこれを完成するには、私自身一層努力しなければならないと考え、事務所の2階へ家族を移して、工場の拡充強化につとめていた。そこへたまたま父が故郷から出て来た。その時には、私の下に私の妻の弟の杉山玉夫君(専務取締役→監査役)と、私の実弟の壮五と2人の身内がいた。

     杉山君は経理、壮五は技術の方を担当していたが、2人とも会社と運命をともにしようと意気込んでいた。杉山君は明治大学商学部の出身で、壮五は京都大学理工科の出身であった。給料は、その当時から生活にふさわしいものというわけで、杉山君の方は家族が多いので、壮五より10円ばかり上であった。

    新築当時の正門付近
    新築当時の正門付近

     私の父がたまたまこのことを知って、「片方は私立大学、片方は官立大学を出たのだから、官立の方が給料が低いというのは、お前が女房にまかれているからだ」と言った。私は、「官立大学を出ようが私立大学を出ようが、社会に出たらその人の実力次第で、出身学校によって差はつかない。その実力が、私にはまだわからないから、家族の人数によって給料を決めている」と父に言ったところ、父は私のことばを理解してくれず、そのまま壮五を無理やりにつれ帰った。

     その後壮五は神戸製鋼所に入社したが、私はこのように肉身の者が経営に口を出したり、あるいは同族の者を役員に入れることは、良いこともあるが、多くは良い結果は出ないと思っている。

    原商事の資本参加の話

     株式会社天野製作所の仕事は順調に進んだ。昭和14年に19万円余の資本金で発足したあと、毎年のように倍額増資をつづけ、昭和19年には資本金560万円に発展した。戦争も満州事変から支那事変となり、昭和16年には、ついにアメリカ、イギリスに宣戦布告するにいたって戦争も本格的になった。当然のように軍需生産も増産につぐ増産を行なうようになった。

     太平洋戦争がはじまる少し前に、私の会社に外部から資本を入れることについて、横浜の原商事から話があった。この創立者が、あの三渓園を作った原三渓さんであったが、原商事の大番頭の岡田源吉君が会社へ来て話し合い、大体の取り決めができた。

     当時の役員は、私、杉山玉夫、山田市作、長谷川正衛という人たちで、これを原商事の人とホテル・ニューグランドで顔合わせをすることになった。その席上の話で、原商事の方から経理の責任者を出したいという話があり、その他2、3のことで前々から話をしたことと相違する点があったので、私は手を切ることにきめた。結局、この時の話は、ホテルで会食したということだけで終わった。

  • 伊藤忠兵衛氏の資本・経営参加

     このあと、資本提携の話があったのが、先代の伊藤忠兵衛氏であった。この人は滋賀県の人で、1代で大きな商売をし、呉羽紡績、伊藤忠商事、丸紅などを作った人であった。たまたま私の中学の同級生である淵田太郎君が、神戸高商を出て、伊藤忠商事に入り、私が菊名に工場を開いて2〜3年したころには、そこの支配人兼秘書格になっていた。

     伊藤忠兵衛氏は、淵田君から私のことを聞いて、そんなに風変わりな人物なら会いたいという話があった。

     ある日2人が会社へ来た。会社の状態を説明し、工場を見せたところ、当時は物資のない時分で、油をふく布の代わりに糸くずを使っていた。その糸くずの束が屋根裏に積んであるのを見て「天野さん、これは火事のもとになりますよ」と注意してくれたり、道に小さい鉄や真鍮の切れっぱしが落ちていたりすると「こういうものを道に置いておくと、工員がどうしても自堕落になるから、こういうのはできるだけ拾わせた方がいいですよ」などと注意してくれた。

     こうしていろいろ話しているうちに、伊藤忠兵衛氏は私の会社の株を持ちたいという希望をのべた。半分と言いたいところだが3割でも持ちたいということであった。私も、会社の方がだんだん大きくなってくるので外部資本を入れることを考えなければならないと思い、伊藤氏にいくらで買ってくれますかと聞くと、1株85円でほしいということであった。私はそれでは80円手を打ちましょうと言って、全株式の3割5分を伊藤氏に持ってもらうことになった。

     その時に、私は「むしろ株を持ってもらうことよりも、いまはあなたの方は企業整備で人材がたくさん余っているだろうから、その人材がほしいんです」と言ったところ、伊藤氏も賛成し、出しましょうということになった。

     その時に私は一つの条件をつけた。それは、社長の私でさえも従業員より早く来て、しかも遅く帰るのだから、取締役なら少なくとも工員と同じように勤めてくれる人でなければ困ると言った。そこで伊藤氏の女婿の福井菊三郎氏の子息が入って来た。

     福井氏は三井銀行の会長をつとめた大物で、その子息が私の会社の総務部長になった。しかし最初の1ヵ月くらいは朝早く出勤し、夜も遅くまでいたが、そのうちに歯が痛いとか腹が痛いとかで、遅く出勤したり、早く帰ったりするようになった。

     それが長くつづくので、私も伊藤氏に会って「こういう次第だから福井さんには帰っていただきたい。その代わり私は株を85円で引き取ります」と言うと、伊藤氏の方はせめて1割でもいいから株を持たせてほしいと言って来た。

     その理由を聞くと、呉羽紡などが企業整備で大建産業という会社になっており、伊藤氏もすでに老年だし、私を陣営に入れて、行く行くは社長にすることを考えているとのことであった。大建産業の資本金は1億円で、当時としては超大型の会社であった。私はその申し出も、やとわれ社長はいやだからと手を切って、結局1株85円で会社の株を買い戻した。

     伊藤忠兵衛氏とは、こういう事情で縁が切れたが、ずいぶん教えられる点が多かった。

    株式を公開

     そのあと、また大阪商事(いまの大商証券)から株を公開したらどうかという話が持ち込まれ、私もその決心をした。株主に梨本宮をはじめ、前田侯爵、藤山愛一郎氏などの個人や第一生命、安田火災、富国生命などの法人筋を網羅して、大体4割近くの株を出した。

     戦時中は、軍需会社は兵器増産に一生懸命になって、納入代金をもらうことをおろそかにしていた。戦後その代金は、海軍の査定によって受領したが、間もなく昭和20年8月15日を境として、それ以後に代金を受け取ったものは、全部返還するという“戦時補償特別税”が制定されたため、会社の資産はマイナスとなり、株価もゼロとなった。しかし、地元の大豆戸と名張の株主には売価65円で、また従業員へは1株50円で、私の私財で返済した。

  • 科学する会

     戦争がはじまって間もない16年のころ、当時朝日新聞に勤めていた和田四郎次君が私を訪ねて来た。“科学する会”をやろうじゃないかということで私を誘いに来たのであった。会のメンバーは朝日新聞社員和田君と桜木町の佐藤歯科の佐藤君と、いま時計博士として有名な朝比奈貞一君と私とほかに大学教授が3人ほどいた。

     この会の趣旨は、“科学する心”を若い人に植えつけなければならないということで、週に一回ほど食事しながら、具体的な方法を話し合ったものであった。この会は、その後戦争がはげしくなって3〜4ヵ月で中止になってしまったが、めずらしく気持の良い会で、昭和36年1月の横浜市文化賞受賞式の席上で、当時のメンバーであった朝比奈君から偶然にも声をかけられ、このなつかしい思い出にひたったものだった。

    三重県に工場疎開

     こんな中で、私は昭和16年12月8日の宣戦布告を、来たるべきものが来たという感じで受け取った。

     いよいよ戦争がはげしくなるとともに、アメリカの飛行機の攻撃がはげしくなったために、工場を分散疎開させるという問題が起きて来た。そこで疎開先をどこにしたらいいかと考えた時に浮かんで来たのが、三重県名張であった。

     かねてから菊名の工場には、名張方面から見習工を多く採用していたので、この見習工が成人して、横浜、東京に家庭を持った場合に、出身地の田舎に工業が発達するのもいいではないかという着想から、三重県の名張に工場を作った。

    名張工場の地鎮祭
    名張工場の地鎮祭(中央筆者)

     この時には、伊賀上野という話もあって、名張と取りっことなったが、結局、見習工が最も多く出ている名張に工場を建設することにした。実測35万坪と言われる山林、田畑、池などをふくんだ所で、地鎮祭を行なったのは、昭和18年8月25日のことであった。

     そのころには、すでに資材も欠乏し、建設も思うように進まず、木造の掘立小屋のような工場で、屋根も雨もりする所で仕事をはじめるといったような有様であった。

  • 徹底的な作業分析で女子挺身隊も一人前

     この半ば未完成の名張工場では、深度機という海軍の秘密兵器を作った。この深度機も、雷道計同様に、なかなか製作がむずかしいものであった。これは、魚雷が投下された場合、水中に入った魚雷の深度を水面下7メートルの深さの所につねに保つもので、めざす艦船の最も弱い所に当てるための矯正機とも言うべきものである。

     はじめは横浜の工場で100人近くの人々がこれを作っていたが、それでも月に20台か30台しか出来ないほど製作法がむずかしかった。これも雷道計と同じように、愛知時計電機や三菱などの会社でも持てあまし、天野の所ならやるだろうということで、私の方に注文がまわって来たものであった。

     この製作にあたっては、呉工廠の熟練工を指導員として呼んで来たが、指導方法が型にはまって、増産に困った。私はこの点、作業分析をしていけば、何も熟練していなくても出来るだろうと思い、それには思い切って三重工場でやってみようと考えた。

     三重工場は、地元の徴用工と女子挺身隊員ばかりで構成されていた。いわばズブの素人ばかりであった。私は、細かく作業分析し、作業を単純化すれば、女学生でも十分にこなせると判断した。

     女子挺身隊の人たちをこの作業につかせる前に、適性テストを行なった。まずはじめに、全員にヤスリ作業を、次に孔明け作業、そして旋盤作業をやらせて、大体3ヵ月ほどかけた。この間、男子の徴用工には、運搬や道路工事、機械のすえつけなどをやらせた。

     この深度機の作業の中で最もむずかしいのはハンド・ラッピングであった。このラッピングは粗・中・精の3段階に分け、それぞれ分担させた。この結果、はじめてから1年とたたないうちに、1日20~30個出来るようになり、能率が急上昇した。

    見学団感激す

     この深度機を佐賀県川棚の海軍工廠へドンドン送り出すようになると、性能のよい深度機が急増したので、海軍工廠の方でもびっくりして事情を聞きに来た。女学生が作ったものが、いろいろ検査してみると、10年、15年という経験を積んだ立派な熟練工が作るものと少しも変わらない。一つの驚異でもあった。その実情を話すと、工廠の人は、女学生だけでこれほどできるのは不思議だというので、見学にくることになった。

     川棚の海軍工廠では、赤坂という作業部長はじめ2〜3人の人たちが三重工場へやって来た。実際に作業している所を見て驚いて、これは、海軍ならびに魚雷の仕事をやっている民間工場の幹部にも見せようということになって、2回目には、80人ほどの見学団が大挙してやって来た。

     名張の工場は、近鉄名張駅から歩いて25分ばかりの所にあったが、道も悪く、警察署の車以外に自動車もなかったので、巡査が車を運転して運んだ。ちょうどその日は、雨が降り、工場の中は雨もりがしていた。大人の徴用工が傘をさして、若い女子が一生懸命ヤスリを使い、旋盤を扱っているというような奇妙な姿であった。この有様を見て、見学団の人たちがみんなびっくりしてしまった。それが、いままでのやり方では、あまりに熟練工に頼りすぎていたという反省になった。

     見学の終わったあと、当時のことで何もなかったので、窮余の一策でさつま芋のくさりかけた所を蒸して羊かんぐらいの大きさに切って二つに並べ、名張近辺から出るいい焼物にのせて出した。また名張はお茶のいいのが出来るので、それも出したところ、見学団の人たちは、甘味のない時であったので、大変にめずらしがり、「いまごろどうして羊かんなんかがあるのか」と言って驚いていた。私としては、何かだましたような気がして、そのまま笑いですませてしまったが、そんな大変な時代でもあった。

     やがて、女子挺身隊が、「神風」と書いた鉢巻をして整列し、動員されていた音楽の先生が指揮して、「雷撃隊の歌」を歌ったところ、見学団のほとんどの人が感激して涙を流していた。忘れられてしまいそうな歌なので書き止めておく。

    雷撃隊の歌

    1. 狂乱怒濤の しぶきあび
    海原低く突っ込めば 雨霰降る弾幕も
    突擊肉薄雷擊隊
    2. 真心こめて 放ちたる
    魚雷はあとを引きうけて 敵艦めざしまっしぐら
    たちまち上る水柱
    3. わが猛襲に おびえたる
    敵艦隊は逃げまどう 何くそ逃がさん小癪めと
    疾風陣雷追いせまる
    4. 大轟音ともろともに 敵艦一瞬影もなし
    嬉し涙の男泣き
    5. ああ皇国の花と咲き 七つの海に翼張り
    敵を求めて幾千里 行くぞ必殺雷撃隊

  • 軍需視察団長として

     これが評判となって、海軍工廠や民間の工場を指導するよう、海軍から依頼され、団長として視察団を作った。団員は、私が選んだ人ならばどの人でも、魚雷関係の民間工場から随意に加えることができるという特別の許可を得たので、各工場からすぐれた技術者25名を選び出した。

     この視察団は、各工廠や民間工場の仕事ぶり、機械の配置など団員が気づいた点を率直に指摘して、そこの責任者たちと話し合い、兵器の増産をはかるという趣旨のものであった。西は長崎の三菱兵器製作所から佐世保、川棚各工廠、博多の渡辺鉄工所などをまわり、さらに中国地方の東洋製缶、呉工廠、大阪では下請の小さな工場へも行った。名古屋の三菱重工、愛知時計電機、東京付近では三井精機、北の方へ行って新潟県宮内の理研光学などを、約1ヵ月半くらい2回つづけてまわった。

    軍需視察団の一行
    軍需視察団の一行:前列右から3人目が筆者

     民間会社では、場合によっては幹部の配置だとか、機械の移転なども勧告した。人間の問題に対しても、支配人と技師との関係が悪い所などは、二人を引き離してほかへ移すという、ずいぶん手荒なこともした。その結果、魚雷の生産が急上昇し、平均して約3割の上昇をみた。

    憲兵隊に引っぱられる

     戦時中私は、憲兵隊に約1ヵ月引っぱられたことがあった。ある日、東京淀橋の憲兵隊長の名前で、私に出頭するよう通知があった。当時の私は、軍需会社の社長でハバを利かせていたから、出頭して1時間ほど待たされたので、もうこれで帰ると言うと、ようやく軍曹が案内してくれた。

     部屋に通されて「あなた、メガネをかけていますが近眼ですか」と聞かれたので、「そうです」と言うと、「ちょっと見せて下さい」とメガネを取られた。つぎに「あなたノートを持っていますか」と聞くので、おかしいなとは思いながらもノートを出した。そしてクツベラなどポケットにあるものを全部言うままに出した。

     そして「こちらへ」と言うので、下へ降りて行くと、格子戸があるので、おかしいなと思っているうちに、格子戸をあけてうしろから突き飛ばされた。「コラ貴様」とどなったけれども、格子戸の中へ入れられてしまった。中は3畳ほどの部屋で、まわりが板でかこってあった。中には渡辺貫三郎という私の知っている予備海軍少将で、三井精機の常務が入っていた。君どうしたと聞くと、渡辺君は変な顔をしている。話をしていると、外から上等兵が来て「やかましい」と言う。私も腹を立てて「話をしているのに何がやかましい」と言い返すと、その上等兵はえらい権幕で怒りはじめた。

     私は監獄という所は、前から多胡寅次郎さんに聞いて、およそのことを知っていたので、これがその監獄というものだなと考えた。同室の渡辺君は、しばしば調べられていたが、私にはなかなか来なかった。そのうちに私に出て来いと呼び出しがかかった。

     取調官は「君は監督官にワイロを使ったろう」と言った。私は「そんな覚えはない」と言った。しかし、これはただごとではないと思った。というのは、週に一度体操の時間があって、中庭に出る時ほかの部屋の人たちと一緒になるので、顔を見ると、自分の知っている連中が10人も15人もいたからであった。

     私は以前から、海軍の人が来ても、昼に丼ぐらいは出すが、料理屋でごちそうしたこともない。しかし、これはうっかりしたことを言うと、海軍の人にどんな迷惑がかかるかわからないと考えて、何を言われても返事をしなかった。こういうわけで、28日間も淀橋の憲兵隊の留置場にブチ込まれた。出所してから事情を聞いてみると、広瀬という海軍技師が、雷道計を作っている時分に綱島(菊名の近くの温泉)で一度天野からごちそうになったことがあると言ったことから、私が引っぱられたことがわかった。

     このことから私が、綱島以外でいろいろワイロを贈っていたのではないかと疑いを持たれたのであった。当時は、海軍と陸軍の競争がはげしく、陸軍は海軍の関係者を圧迫する傾向があった。この事件の事の起りは、金門商会という会社の経理から発展した由であった。私としては、とんだことからトバッチリをうけたのであった。

  • 横暴な軍人と役人

     海軍と陸軍との競争がはげしかったという話が出たついでに、私の経験を話してみよう。

     私はある時、立川の陸軍技術研究所から自動車で迎えをうけた。「君の方は海軍の仕事ばかりやっているが、陸軍の仕事もやってもらいたい」という話であった。

     私は、学生時代からかくかくの次第で海軍の厄介になっているし、海軍の兵器については多少の知識もあり、仕事がしやすいと説明したところ、どうしても陸軍の仕事をやれと言う。その論争を1日中やっているうちに夜になってしまって、立川の研究所に泊めてもらうことになった。

     翌朝、飛行機に乗せられ、そのまま放阜県各務(かがみ)ヶ原の陸軍飛行場につれて行かれ、そこで1週間軟禁されてしまった。そこでも最後まで陸軍の仕事はできないと言い切ったので、とうとう飛行機でまた返されたことがあった。

     そのころは軍人ばかりでなく、役人も横暴をきわめていた。戦時中の神奈川県知事は近藤穰太郎という人であったが、私が魚の配給が来ないので頼みに行くと、足を机の上に投げ出して威張っていた。「私は軍の管理工場を経営しているが、そんな態度なら私にも考えがある」と言うと、はじめて足を引っ込め、翌日トラック3台に積んで持って来た。それを従業員ばかりでなく、近所の人にもくばったが、宮内という官房長がその配給ぶりを見に来た。

    社長徴用で首相官邸へ招かれる

     昭和18年8月に、日本の主要会社の社長200名ほどが、徴用になって首相官邸に集った。私もその1人として加わった。

     どんな内容であったか、もう忘れてしまったが、そのあと庭で記念撮影をし、一同帝国ホテルに招かれて午さん会があった。そのころはすでに食糧も欠乏していたのに、そこでは、鶏のモモ焼や大きなアイスクリーム、それにコーヒーなども飲み放題であった。そして東条首相が、閣僚をアゴで使っていたのが印象に残った。

     私は、そのごちそうに目を見張ったが、それよりも、われわれはいま豆カスのまじった飯を毎日食べているのに、どうしてここには、こんなものがふんだんに並んでいるのだろうと少々腹が立って来た。私は帝国ホテルを出ながら、そんな考えにとらわれたのをはっきりと覚えている。

    首相官邸での記念撮影
    首相官邸での記念撮影:3列目左端白服が私
  • タイムレコーダー製造の禁止

     戦前にはタイムレコーダーのメーカーが集まって、お互いに助け合い、良い製品を作ろうじゃないかという趣旨で作られた組合があり、私がリーダーとなってしばしば会合を開いていた。

     構成メンバーは、原口電機(のちにつぶれ、一部の者が日本機器を作った)、丸善、服部時計店、日本事務器、それに東芝がやはりタイムレコーダーを作るということで参加していた。それが戦争に突入してからは、それまで別にあった謄写機やタイプライター方面の事務用機械の組合が、企業整備の勢いに押されて、統合することを商工省からすすめられた。そこで、日本事務器工業組合が結成され、会長に日本タイプライターの橘専務が、副会長には私がなって活動をはじめた。

     活動と言っても、この会は、昭和19年ごろには、事務用機械の生産がほとんど全部禁止処分となっていたので、あるかなきかのものとなってしまったが、それまでは資材の分配とか業界の取りまとめなどをしていた。

     タイムレコーダーも、昭和19年までは、工廠や大量の人員を抱えていた軍需工場などでは購入されていたが、昭和19年中頃には、軍需生産に一本化されて、生産が禁止された。

    長男を死なす

     このように、戦争がいよいよはげしくなって来て、昭和19年になると、もう暗いニュースがつづくようになり、わが国内では次第にあせりの色が濃くなって来た。私の長男の卓は、会社の仕事を覚えさせるために私の側においた。これが戦争のころには、工場の検査主任をしていた。

     それ以前には、中支へ出征して2年ぐらい軍隊の飯も食ったことがあったが、一度くらいは戦争を経験した方がよいと思って、私もすすめた。それで一度は無事に帰ったが、だんだん戦争がはげしくなるにつれて、会社の従業員にも出征して行く者がふえていった。

    長男 卓
    長男 卓(たかし)

     そのころの当社には、いわゆる甲類といって「戦時余人をもって代うるべからざるもの」という理由で、戦争に行かなくてもいい者が60名いた。当時の労務部長に神戸という人がいて、毎年甲類、乙類というリストを作って軍の方へ出した。その時も、私の長男を甲類のリストに入れて私のところへ出して来た。私はそのリストを見た時に、他人の子供を戦争に出しておいて、自分の子供を甲類にしておくのではいさぎよくないから、長男を甲類からはずして、自分で乙類に書き変えた。

     そのリストを軍へ出してから間もなく、召集令状が長男へ来た。彼は出征した。そして、昭和20年5月ビルマの野戦病院に入っていた時、イギリスの飛行機からの不法な爆撃に会って戦死してしまった。

     その当時は、悲しいながらも名誉の戦死としていたが、戦死した命日がくるたびに、家にいても小さくなっている。長男は先妻の子であったが、いまの妻が大変よく育ててくれて、本当の母親以上に親しんでいた。そういうことで、妻の方が私より長男をくやんでいて、私としては何もああいうことをしなくてもすんだのにと、時には痛惜の感にたえない。

  • 三重工場の経営に腐心

     名張工場も戦争の末期になると、徴用工の数は減るし、物資の購入も思うようにいかなくなった。名張は三重県と奈良県の境にある山間部だが、これほどの山の中でも、たびたび空襲のために汽車が立往生したり、東海道線が不通になることがよくあった。そのために途中から引き返すことがしばしばあり、あるいは駅で外套を羽織って寒い中を仮睡したりした。しかし、仕事の都合でどうしても名張へ行かなければならない時は、中央線を利用した。

     まる1日の間、大混雑の車中で立ったまま汽車にゆられ、しかも持参した豆カス入りの弁当が、人いきれでくさってしまって食べられず、空腹を抱えてどうにも仕様がなかったというような苦労を、何度か経験した。しかも軍人ならば、1ツ星の2等兵でも大威張りで座席を占めたあとで、一般の人が行列を作って乗車するのであった。私は日本の勝利を信じて東奔西走したが、その間、そういうことに対する不平の念が断片的に出ることを禁ずることができなかった。

     そもそも、この名張に工場を建設した時には、その土地の元老で富永貞英という人に、最初にその橋渡しを頼んだ。そして息子の富永貞一君が、名張の小学校の先生をしていたのを引き抜いて、横浜工場に設置してあった天野青年学校の教師にした。しかし、この名張の工場は、富永貞英君にまかせるわけにはいかなかったので、林一郎という大阪で採用したセールスマンをエ場長格に持って来た。

    空襲に遭う

     戦争がはげしくなった昭和18年から19年ごろにかけては、私は、三重工場と横浜の本社との往復に忙しく、日吉にある自分の家に帰ることはきわめてまれであった。私の留守は、妻と長女とが守ってくれた。

     空襲がはげしくなったある日、たまたま家にいる時に日吉一帯が空襲をうけた。近くの慶応義塾大学をはじめとして方々に火の手が上がった。私の家もいよいよ危うくなった。そのうちに庭に焼夷弾が落ちて、庭内の樹木が所所火を出しはじめた。家には私と妻と娘しかおらず、燃え出しそうになっても、近所の人は自家を防ぐのに懸命になっていて、助けに来てくれなかった。

     私はとにかく家族と協力して、バケツ・リレーで火を消していたが、そんなことではとても消せなかった。そこで火たたきに水をふくませて木を叩いいているうちに、柄が抜けてしまった。今度は防空頭巾を水にしませて消しているうちに、近所の人が消しに来てくれて、ようやく無事に消し止めた。

     その間妻は「何もいらない」と言いながら、火を消していて、家の中の物はほとんど出さなかった。私もそんなものかと思いながら、わずかに、次男の軍刀にと思って「康継」の名刀と東郷元帥の書だけを、いざという時にそなえて外套にくるんで縁側に出しておいた。やがて空が白んでくると、庭につづいた畑に大きな行李と箱が二つ転がっていたので、妻に「あれはどうした」と聞いたら、娘と一緒に持ち出したということであった。

     私はそれにも驚いたが、付近の家が大分やられていたので、妻に家にある金を全部出せと言って、私と妻と娘の有金全部を合わせると、2,000円ほどあった。これを町内会に寄付し、さらにいろいろな衣類や蒲団を全部出させると、8畳の間に一杯になった。それを知り合いの罹災した魚屋、肉屋、農家の人たちに上げようと思って、呼びにやった。

     そのうちにその山がだんだん少なくなっていくので、妻に聞くと「これは子供に残してやらなければいけない」とか、「この着物はお母さんに上げなければいけない」と言いながらドンドン持って行ってしまった。やはり母のカというか、女の強さには私もいささか驚いた。それでも持物の6~7割は付近の人たちに分け与えた。

    ついに敗戦

     一方横浜工場の方は、昭和20年に入ってからたび重なる空襲にもかかわらず、奇跡的に被害からまぬがれていた。しかし時勢のおもむくところは致し方なく、いよいよ運命の昭和20年8月15日がやって来た。私たちはちょうどその日、三重工場にいたが、きょうは天皇陛下の重大な放送があるというので、ラジオを神棚のわきへ下げ、工場の全員をその前に集めて、不動の姿勢で放送を聞いた。

     しかし、私には放送の内容がどうしてもよくわからなかった。多分、これからもますます奮励努力せよというようなお言葉だろうと思って「諸君、いまの陛下のお言葉を奉戴してますます・・・」と言ったところ、次の放送で日本が降服したということがわかって、私は意外のことに驚いた。

     私は何かいままで心のささえにしていたものが抜けてしまったような気分であったが、「これは、われわれの力が足りなかったのだから、そろって県社に参拝しておわびに行こうじゃないか」と言って、1間おきに1人ずつの行列を作って参拝した。

     私は早速、三重工場には10人ぐらいの主だった者を残して、徴用工とか学徒動員などはすべて解散させて、工場を一応閉鎖し、単身急いで横浜の本社へ帰って来た。これが昭和20年8月17日のことであった。

  • 第5章 敗戦のあと始末

    会社閉鎖を決意

     私が横浜の本社に帰ると、蜂の巣をつっついたような騒ぎであった。私は、徴用工をふくめ従業員を全部事務所の前に集めた。生え抜きの従業員に数多くの徴用工を合わせると、一時は1,200名近くになっていたが、そのころでも700~800名はいたであろうか。その人たちに「ひとまず工場を閉鎖するから、旅費、退職金それに蒲団でも作業服でも、持って行きたいものはみんな持って行け」と言って、秋田県、山形県などのとくに遠方から来ていた徴用工から先にそれぞれの故郷へ帰した。

     敗戦というショックで、古い従業員の中からも、会社を辞めたいという者も出て来たので、私は「辞めたい者には退職金を出す。また作業服など持って行ってもよいから申し出るように」と言うと、ほとんどの従業員が会社を辞めて行った。あとに残ったのは役員だけであった。これら残った者だけで、社内の整理をはじめた。

     間もなく連合軍司令部が横浜のホテル・ニューグランドに入った。とにかくアメリカの意向がはっきりしない間は、どのような措置をとったらよいかわからなかった。終戦から1ヵ月くらいの間は、政治的にも社会的に空白状態だった。

    米軍将校に領収書請求

     9月の中旬になって、2~3日前に横浜に進駐した連合軍の将校が、ジープを飛ばして会社へやって来て、社内をくまなく調べた。彼らは、戦前から青少年教育のために建てた青年学校にあった訓練用の銃を見つけて、黒人兵が昼夜そこで立番することになった。

     ほどなくその銃砲類を押収に来た。私は「それは兵器ではない。もし兵器ならば、銃身内に螺条があるはずであるが、これはそれがないから、訓練用のものにすぎない」と言ったが、指揮に来た将校は、武器と認めるから押収すると言った。そこで私は「それでは領収書を書いてくれ」と言ったところ、彼は紙をくれと言う。私はワラ半紙を1枚出した。

     するとその将校は、ワラ半紙を指で半分に切って私に返し、残りの半枚に領収書を書いた。その領収書はいまも持っているが、私はその将校の高ぶらない謙虚な態度に打たれた。これがわが国のかつての軍人であったなら、どうであったろうか。自国の勝利におどって「無礼者」と言って、即座にピストルを抜いたかも知れない。

     それに、そのころは米兵にタテつくことは禁物であるとみられていた世相だっただけに、なおさらその将校の態度に感心した。当時は、綱島のあいまい宿の前に、アメリカ兵が銃剣つきの警戒の中に、行列をつくって順番を待っていて、日本人は側へも近寄れないほどであり、事実、私どもの会社でも、アメリカ兵がくるというので、女性はすべて近くの丘に避難したほどの世の中であった。

     わけても腰が抜けていたのは、県庁のお役人たちであった。かねてから、米軍との間に何かあったら、ただちに通知せよとの県庁からの知らせがあったので、私はその領収書を、すぐに神奈川県庁へ持って行ったところ、県庁の人たちは「それはうけとるべき筋合いじゃない」と言って、だれも尻込みしていた。私は仕様がないので、そのまま領収書を持ち帰ってしまっておいた。

    ジャクソンビルでワトソン氏と会う
    ジャクソンビルでワトソン氏と会う

     その時の将校は、その領収書のサインからジェームス・ワトソン大尉とわかり、アメリカ大使館へ最近問い合わせたところ、フロリダ州のジャクソンビルに健在であることがわかった。そこで昭和37年6月16日に、折からのアメリカ旅行の日程をさいて、ニューヨークからジャクソンビルに飛び、ワトソン氏を訪れた。その日は懐旧談に花を咲かせて同氏宅に泊まり、翌日ニューヨークに帰った。

     ジャクソンビルでは、ほとんど全市をあげて私を歓迎してくれ、新聞やテレビでも大きく取り上げられた。ワトソン氏は、その後大佐で退役し、現在は政府の地方農事相談所長をしていて、ゆたかに暮らしていた。

  • 三重工場のあと始末

     それはさておき、私はこの終戦後の混乱時に三重工場を工場長の不正で失い、また青年学校の譲渡問題で不明確なままにこれを失うという残念なことがあった。

     三重工場は、大阪支店長をしていた林一郎にまかせてあった。彼は、大阪支店長時代、先輩のセールスマンが次から次へと兵隊に取られたのをよいことにして、その当時にも不正を行なって会社の金を着服、横領した。しかし私は、彼には才能があり、心を改めれば何とかよくなりはしないかと思って、三重工場長とした。

     その彼はまたも、戦後の大混乱をよいことにして三重工場をエサに悪事を働いた。工場にあった機械や工具を持ち出したり、あるいは駐留軍と県庁とをうまく操縦したことがあとからわかって、会社もまた私自身も迷惑した。

     このほかにも、近くの人たちの性格に陰険なところがあり、すべてそれが原因しているとは思わないが、私はここへ工場を置いたことは失敗であったと思っている。名張のほかに伊賀上野、津なども、そのころは工場建設地として候補に上がったが、そのいずれかにすればよかったと思っている。

     三重工場の土地は、いまだにそのままになっていて、土地の争いがつづいているが、これは私の考えのいたらなかったところと、いまもって反省している。

    神奈川学園との話

     このように会社では横浜工場も閉鎖しようかと考えていた。しかし建物、機械などは、空襲をうけなかったので、そのままに残っており、いつでも仕事をはじめられる準備はできていた。

     あの戦争中の被害では、横浜市内のほとんどの学校が被災していた。私の工場の中では、とにかく青年学校の建物が空いていたので、この建物を学校に利用してもらうことを考えた。そのころ綱島の小学校が全焼していたので、その校舎として、青年学校の建物を分解して使ってもらったらどうかという話をしたところ、市の当局には、校舎を分解して運ぶ予算もないというので、そのままになっていた。

     そこへ戦災にあった神奈川学園が貸してくれと言って来たので、青年学校の校舎を貸すことになった。一応、校舎を建てるまでということであったが,それも大分日数がたっても、建つ様子がなかったので、もし必要なら、しばらくいてもいいからと言ったところ、佐藤という校長は「いえ私の方は約束通りに立ち退きます」と言って立ち退いた。

     しばらくすると、神奈川学園が神奈川区の方で建築をはじめたので聞いてみると、生徒の父兄の一人である八幡組に建築を頼んであったが、一向にできなかったので、ひとまず天野製作所の青年学校を借りたけれども、立ち退きを食ったので、仕様がないから野天教授をするのだと言ったということであった。それで同校の生徒である八幡組の社長の子供がいたたまれず、親に額んで、その校舎建築を昼夜兼行でやったということであった。

  • 高木学園とのもつれ

     私はこればかりでなく、ほかの経験も通して正直に言うと、教育者という人はどうも信用ができないと思っている。人の前では調子のよいことを言っているが、裏にまわると、人の悪口を言うことなど、何とも思っていない人が多いと思う。ただしこれは私の経験がたまたま悪いものばかりであったためかも知れないが。

     戦時中にも、神奈川一中(現希望ヶ丘高校)の校長黒土四郎君が同校を免職になったので、ある日神奈川工業校長山賀君を同道して私をたずね、私立中学をはじめたいが財団法人になるには50万円の金がいる。私が理事に名をつらねてくれれば、県では50万円を積まなくても許可してくれる。何とか名前だけでも貸してくれないかとの話であった。これは、私が当時軍の管理工場責任者として信用があったためであった。山賀君は、私が青年学校を作る時に厄介になった人で、黒土君もまんざら知らない仲でもないから、私は理事に名をつらねた。ところが、ほどなく彼は私の保証があることをいいことに、私に迷惑をかけた。

     神奈川学園のあとに入って来たのが高木学園であった。はじめ高木学園に、1ヵ月1,000円で青年学校の校舎を貸すことになったが、先方で校舎を建てる見込みがないから売ってほしいと言って来た。そこで土地1,800余坪、建物160坪を合わせて70万円ではどうかと言って来たが、私は戦災にあって気の毒だと思って、60余万円で売ることにした。

     ところが高木学園では、それを一括して払えなかったので、月賦で払うことになった。そのうちに、国内の情勢も落ち着く反面、かつての軍需会社が大痛手をこうむることになった。それは、社会党初の片山内閣の時に出来た戦時補償特別税の割当が来たからであった。

     これによると、昭和20年8月15日以前の兵器への債権で、国から支払われるものは、すべて税金として納めなければならないことになった。その結果、天野製作所もいよいよ整理しなくてはならなくなった。そこで高木学園との校舎譲渡問題もキリをつける必要を生じて来た。

     そこで私は、高木校長に支払方を請求したところ、大分遅れたが、翌年の正月早々に残金を持って来たので、私は「早速あなたの方へ登記するようにしましょう。しかしよく金が出来ましたね」と言うと、「父兄の一、二の人が貸してくれました」との返事であった。しかし間もなく父兄の1人が「天野さん、あんたはずいぶんひどいことをするんですね。年末になって、高木に金を払えと言って来たそうだが、そのために校長が全生徒を集めて、天野から催促があって、これを払えなかったら学校がつぶれると話したから、生徒がみんな金を持って来た」と私に言って来た。

     これを聞いた私は、事実と反するので心外に思い、高木校長を呼んで問いただすと、それらしいことを言ったというので、私も非常に感情を害し、この問題がこじれて来て、登記手続も遅れた。こういうことが原因して、高木学園の方から訴訟を起こした。

     私は、相手が教育者のことだから、反省して謝罪してくるだろうと思っていた。しかし、そういう気配が全然見えなかった。結局この訴訟には負けてしまった。

     この結果、土地、建物の譲渡契約をした時にお互いに坪数で話したが、私が親切にも、坪数の上に地番を書いてやったために高木からいまの境界よりさらに5間内側に入った所まで引渡すよう要求して来た。ちょうど幅が60間あったので、都合300坪をさらに無償で譲り渡さなければならなくなった。私は、そんなに欲しければ持って行けと言ってやると、これには少しは良心があったとみえて、坪数で決めた通りの土地に先方で境界を作って、現在の境ができた。

    寮の土地の話

     また同じころ、横浜市に菊名から寺尾へ抜ける道の右側にあった会社の寮の土地3,500坪ほどと建物をゆずった。その寮は幸いに戦災にあっていなかったが、横浜市交通局長であった船引守一君(のちに助役)に頼まれてゆずることになった。

     その時に私は、交通の便が悪く、横浜でも開けていない港北区の交通機関を良くすることを条件とした。それは、電車をひくのは大変だから、横浜駅から菊名、日吉をへて荏田に抜ける港北一巡バスを通してくれるように伝えた。しかし、ついにそれが横浜市の手では実現せず、いまは東急バスが通っている。私と市のあの時の約束もムダになってしまったわけである。

     このように、私は終戦直後の混乱時に、つづけて三つの大切な土地を失った。

  • 会社業務を再開

     会社の方は、その間、タイムレコーダーの部品のストックが大分あったので、これを組立てて売れば、取りあえずのロすぎができた。こういう事情から私は、ふたたびタイムレコーダーの生産に着手することを決意して、昭和20年11月、資本金15万円で横浜機器株式会社という別会社を設立した。株式会社天野製作所の方は、未回収の金もたくさんあり、さらには戦時補償特別税の問題などもあって、とうてい再建の見込みはつかなかった。

     私は、戦時中は海軍の雷撃の方の仕事をしていた関係から、その方面の人で、終戦で身のふり方に困る人があればお出でなさいと呼びかけると、元海軍技師中尾源吉君ほか10数名が参加して来た。また戦争中にいた従業員も、しばらくの間は離散していたが、まただんだんに復帰して来たので、海軍出の人たちと一緒に仕事をするようになった。

     私はかねがね、55歳になったら、会社の定年でもあるし、仕事を辞め、フランス文学でもやってみようかという希望を持っていた。妻は「あなたのような仕事の鬼みたいな人が、どうして仕事をやめられるものですか」と言っていたが、事実私は、横浜機器の社長には就任していたけれども、実際はただ会社で新聞を見て帰るという状態であって、会社のことは妻の実弟である専務の杉山玉夫君にまかせっきりであった。

    引揚者に援助の手を

     いまふり返ると、終戦直後のあのころには、私に思い出すことがいっぱいある。私は戦後しばらくの間、海軍の各工廠へ未回収の金を取りに行った。戦争中はドンドン仕事をさせられていたので、相当な金額になっていた。しかし、いざ工廠に顔を出すと、舞鶴などでは、責任者の主計中佐に「自分らはもう首を切られるんだ。そこへ金を取りにくるとは何事だ」と頭から叱られた。いま考えれば、私は当然の権利を主張したまでで、何も頭ごなしに叱られる覚えはなかったのに、馬鹿らしいことであった。

     舞鶴のほかに、佐世保・川棚・呉などへも行ったが、川棚の元工廠へ行く途中に、博多駅で、朝鮮からの引揚者が気の毒な状態でいた。食べるものもロクにないようであった。私はこれを見て、ちょうど川棚にあった代理店が、以前は酒造業者であって、酒米が大分あるのを思い出した。そこで、行くたびに1俵ずつ博多ヘリュックサックで運び、それでニギリ飯を作って配ったりした。

     こんなことでも最初のうちは非常に喜ばれ、私はむしろ川棚へ代金の回収に行くよりも、引揚者にニギリ飯をあげることの方に張り合いが出て来たほどであった。こういうことが6回か7回つづき、しまいには酒屋の男を頼んでは2俵もかつがせて、博多の旅館でニギリ飯にして配った。

     そのころ、横浜にも引揚者がたくさん帰って来ていた。私はこれらの人たちを非常に気の毒に思って、桜木町駅へ行って200~300円から500円ほどの金を与えると、まるで神様でも降りて来たように、土下座して拝まれた。私もこのことが病みつきになって、少なくとも私が住んでいる港北区の引揚者には不自由させたくないと思い、市役所から補助金を1万円出してもらって、港北区役所の隣りにバラックを建てて、そこで引揚者の生活資金、つまり仕事して行くために必要な資金を若干出すようにした。いまはその引揚者の中から、立派に一家をなす人々が出ているが、私にとってもこれは大変うれしいことである。

     これと似た話で、連合軍司令部が横浜に出来た時に、それまで支給されていた生活援護資金が一時取り止めになったために、港北区内でも不穏な情勢となって来た。そこで、当時の港北区長であった早川徳次君がそれを心配して、私に何とか援助してほしいと言って来た。私はこの申し出を承諾して、港北区だけは6ヵ月面倒を見ましょうと合計50万円ほど出してあげたことがあった。その当時は、いまと違って生活費が安く、1ヵ月最低400~500円あればなんとか生活ができた。

  • 港区遺族会への奉仕

     また私は、港北区遺族会の会長をしばらくしたことがあった。そこでは遺族の救済にも当たっていた。いまでは、遺族会と言うと、一種の政治的基盤になっているが、はじめは戦死者の遺族が寄り合って英霊をなぐさめるというのが成立の発端であった。戦争が終わったばかりであったので、各町村ごとに遺族会があったのを統一して港北区遺族会という組織を作り、私がその会長をしていた。

     このように私は、戦後しばらくの間、それまでの会社経営からまったく離れて、このような慈善奉仕的な仕事に生き甲変を見出していた。現在は、このようなことには一切関係していないが、あの混乱し切った当時の世相を思うにつけても、あのころのことが、実によい思い出となってよみがえってくる。

     同じころのこと、綱島から鶴見に抜ける道を遺族会の仕事で歩いていたら、デコボコ道に米軍のジープが路上にひっくり返っていた。それをアメリカ兵たちが一生懸命になって起こそうとしていたが、なかなか起きなかった。それを見て私が、あちこちの農民を集めると、5~6人が鍬や棒を持ってやって来た。

     すると、何を感違いしたのか、アメリカ兵がホールド・アップの恰好をした。彼らは農民たちに襲われると思ったらしい。そこで私が訳を話してシープをみんなで起こしてやると、非常に喜んで弁当を出してくれた。それをみんなで分けて食べたが、それは何とも言いようのないおいしいものであった。

    天野製作所の整理

     一方、株式会社天野製作所は、資本金が560万円であるのに、戦時補償特別税のために、損失が1,600万円ほどになった。これではとても回復を望むことはできなかった。そこで私は、菊名とか名張とか地元の株主に対しては、株式をもとの値段で買い取ることにした。その当時の主な株主をあげると

    天野修一
    56,883株
    富国徵兵保險
    6,000株
    安田火災
    4,500株
    日本生命
    2,000株
    大日本ビール
    2,000株
    中川友次郎
    2,000株
    千代田生命
    2,000株
    三井生命
    2,000株
    明石照男
    2,000株
    杉山玉夫
    1,300株
    黒田茂吉
    1,000株
    藤山同族
    1,000株

     私がこの旨通知すると、ほとんど全部の者が買い取ってほしいと言って来た。しかし、中に工場を建てた時に世話をしてくれた地元の伊東秀輔君と私の友人の小沢栄穀君だけは、株を買ってくれとは言わなかった。

     私は、地元の株主には買い値で、また一般の小株主に対しても1株50円で買い取ったが、法人筋とか財閥関係が持っていた株式に対してはそのままにしておいた。

     戦争後しばらくの間は、一方では株式会社天野製作所の整理を進めていたが、一方では、もう世の中がイヤになっていた。そこで持物全部を金に代えて、日本国中を妻と2人で墓参りして、行きついた所が自分の基ではないかと妻と話し合っていた。妻も、それは結構なことですと贅成してくれた。したがって私は、特物をドンドン処分していたので、現金は相当に持っていた。

  • 預金封鎖

     戦後のインフレ高進を抑えるために、政府は預金封鎖を行なった。昭和21年3月のことである。その時私は現金を銀行に預けておいたので、一時は相当に苦しんだ。

     たまたま、その前日富士銀行の横浜支店へ200万円ほどを預けたところが、預金封鎖の情報を聞いたので、すぐに引き返して預金を返してもらい、株券を買った。ほどなくこの株券が、新円で売れたので、野村証券や日興証券に日歩5銭で貸したこともあった。当時は、これらの大証券も日歩10銭や15銭で借金していた時代であった。その時に、野村証券の瀬川美能留君(現社長)と飯田清三君(元社長)とが、私にぜひ紹介したい人がいると言うので、新橋の料亭へ招かれた。

     そこには、いま理研光学の社長をしている市村清君がいて、三愛の店を広げるために20万円ばかり必要だが、日歩25銭で貸してくれないかという話であった。私は、あまりのことにあきれ、日歩25銭もするような金を借りなければ商売できないような人には貸すわけにはいかない、と言って帰ったことがあった。

     その時私の手もとに残った金は全部で300万円ほどであった。この中から選挙に立候補して30万円ほど使い、港北区の生活保護家庭に50万円ほど、地元の大豆戸町会と日吉町会に街灯をつけるためにおのおの5万円ずつ寄付した。さらにCIOS国際会議代表としてベルギーに行くため80万円ほど使ったが、残りの金が一部は株式になっていたので会社再建の原動力となった。

    証券会社のからくり

     終戦直後は、日本を復興しようというスローガンで、証券会社が、さかんに株を買うことをすすめていた。私はそこで、野村証券を通じて小西六、三楽酒造、豊年製油などを買った。この株が、インフレの途中であるために相当上がった。それで私はずいぶんもうかったはずであったが、野村では、私の株を上がる前に売ってしまったと言う。

     私は不思議に思って、理由を問い直すと、電話をうけて売ったという。私はそんな覚えがなかったので、裁判ザタにしたが、向うには専門の弁護士がついていたので、敗けてしまった。これで結局、2〜3千万円の損をしてしまった。

     そこで私は、この問題を苦情処理委員会へ持って行ったところ、結着がつかず、弁護士の費用15万円を野村が支払うということで示談になった。その当時は、世間に金がなくて、日歩50銭でも借りに来たころであった。だから私も、日歩25銭で貸したり、または名張の土地をもっとうまく運用すれば、私は金持になったかも知れなかった。しかし、生命の方は、いままで長らえていたかどうかわからなかったであろう。

    税務署と戦う

     この辺で終戦後税務署と大いに戦った話を書いてみたい。

     まだ終戦の混乱もおさまらないある日、会社へ神奈川税務置の役人5~6人が乗り込んで来て、書類などを調べて行った。そしてしばらくすると200万円ほどの税金の査定があった。私はびっくりしてしまった。とにかく会社は終戦の打撃をうけて、膨大な赤字を抱えて四苦八苦しているころで、とても払う能力もないし、第一何を基準にこれだけの査定があったのか、私には納得がいかなかった。

     私は早速神奈川税務署へ出かけて行って、その査定に不満のむねをのべ、もう一度査定してくれるように要求したが、税務署では、職後のことで規律が非常に乱れており、職場の中でたき火をしているという有様で、とても相手にしてくれなかった。

     そもそも、はじめに査定に来た時に、たまたま私が遺族会の会合に出ていて、タンキリ飴ぐらいしか出さなかったのが、彼らのカンにふれたらしく、食事やタバコなどをあからさまに要求した。1日がかりの仕事に弁当も持たず、タバコがないなどというに至ってはとんでもないことだと、ここでも私本来の強情さが姿を出して来た。

     私はこのような不合理には徹底的に抵抗してやろうと心を決めた。そこで私は、正式に再審査の手続をした。そして戦後からその時までの収支一切を、1銭のごまかしもなく紙に書いて行った。細々とした数字を一覧表式に書き込んだ紙は、畳3枚ぐらいにおよんだ。それを国税局に提出した。

     すると、だんだん査定の額が減って来たが、税金を1銭たりとも出せるような収支ではなかった。約2年間、10数人が入れ代わり調査に来たが、最後には何と3円ほどの査定になってしまった。私はこれすらも支払うべきではないと考えたが、先方では、この査定に当たった者の面子もあるからと言うので、3円ほどの査定に服した。

     私は、このような不合理や不当な権力、暴力に対してはトコトンまで反抗する性質を持っている。とにかく不正なこと、曲がったことは大きらいだが、しかし正しいことには、自分でも意外に弱く、正しいことに形を借りた不正にはしばしば苦汁を飲まされることは、私の不徳のいたすところと、慚愧にたえない。

  • 第6章 会社経営を離れて

    参議院に立候補届

     私は、戦時中に航空魚雷などの兵器を作り、終戦後は早々に会社へ米軍将校が来て、社内をくまなく捜査し銃砲を押収して行くなどのことがあり、終戦後1年ぐらいは世情騒然としていたので、私はアメリカにつれて行かれて、首でも切られるのではないかという時があった。そのうちに、追々巣鴨の拘置所へ連行される人が多くなって来たので、巣鴨行きくらいは覚悟して、財産を寄付したり分与したりして、ひそかに準備をととのえていた。しかし、一向に私の所へその通知が来なかったので、しばらくの間は、不安定な気持で日々をすごしていた。

     そのうちに、参議院選挙が昭和22年4月20日に行なわれることになった。これはちょうど、私が戦犯に問われるかどうかをうらなうには良い機会であると思った。この選挙で立候補届が受理されれば、戦犯には問われないと思って、立候補届を出した。そうすると、それが受理されたので、私は戦犯には問われないということがわかった。

    参議院選挙に落選

     ある日、郷里三重県の大先輩にあたる尾崎行雄氏のところへ行くと、ちょうど息子の行輝君がいて、「今度の参議院選挙に自分は三重県から立候補する」という話を聞いた。父の行雄氏は「憲政の神様」として有名であり、ほとんど選挙運動もしないで代議士になれたほどの声望があり、三重県に固い地盤を持っていた。

     その話を聞いて私は、行輝君に「三重県から君が立候補するということは、お父さんの余光をもらうようなもので、それでは男子としてつまらないではないか。むしろ、何の地盤もない横浜で打って出たらどうか。選挙資金はおよばずながら私が出す。君が参議院で私が衆議院ということで一緒に出よう」と話した。行輝君も私の話に同意したので、参議院への立候補を取りやめて私は神奈川1区から衆議院選挙に打って出た。

     それは新憲法施行後の第1回選挙で、昭和22年4月25日に行なわれたが、松尾トシ、春日正一、門司亮、三浦寅之助氏などが立った。選挙の最中に尾崎行雄翁も横浜へ応援に来て、いまの横浜国立大学の講堂で応援演説をしてくれ、私もタスキをかけて、あちこちで街頭演説をした。

     私のその時の演説の趣旨は、「日本とアメリカは戦争したけれども、いまは仲直りしているから、災害をこうむった日本をアメリカは大いに援助すべきである。個人の場合でも、喧嘩して仲直りしたら丈夫な人が怪我した人を病院へつれて行って手当をする。これが人情ではないか。国と国との間でも同じことで、アメリカは日本を大いに援助すべきである」というものであった。

     選挙というものは不思議なもので、はじめはさほど当選したいという気持はなかったが、いざその渦中に入ってしまうと、私もかなり選挙運動そのものに身を入れるようになった。その矢先に、上記の私の演説の趣旨について警察から注意されたことがあった。私の言うことが、アメリカの気持を害さないかというのであった。

     しかし私は、選挙演説では何を言ってもかまわないことになっていたから、監獄へ入れられても、このことは言うんだと押し通した。その間に運動期間もすぎて、いよいよ投票日になった。フタをあけてみると、私は8,000票近くを獲得したが落選してしまった。当時神奈川1区では、15,000票を取れれば当選とみられていた、しかし定員5名のうち第5位で当選した人は12,000票であったので、もう一歩だったのに惜しいと言ってくれる人もあった。

     この新憲法下第1回の衆議院選挙は、ほとんど新しい顔ぶれで行なわれた。それまでの政界の有力者は、ほとんど追放の憂き目にあっていて、当選者も新顔ばかりであった。とくに社会党と共産党の進出がいちじるしく、いろいろな点で話題を呼んだ選挙であった。私の所属は、自分の所信を押し通すために無所属で、このことがあるいは不成功に終わった原因となったかも知れなかった。

  • つづいて立候補

     その翌々年の昭和24年1月23日に、第2回の衆議院選挙が行なわれることになった。この時には、今度は自分の力だけでやってみようと思った。前回の選挙の時は、尾崎行輝君の関係で行雄翁の間接的援助もあったと思うが、自分の力だけでやれば、天野修一という者に対して、世間ではどれほどの人が関心を持っているかわかると思った。

     そのためには、選挙運動は毎夜行なわれる立会演説会だけに出席することにして、日中は会社の仕事をして街頭演説などの運動は全然しなかった。私に関心のあるものは投票してくれという態度であった。こういう気持であったので、供託金はいずれ没収されるにきまっていたから、そのころ半額で買える電話債券で25,000円の供託をした。

     こういうきわめて率直な態度であったので、私は他の自民党や社会党、あるいは共産党の候補者ともすぐ親しくなった。たとえば立会演説の会場へ行く時でも、途中で候補者の車がくれば、頼んで乗せてもらうということもした。所属は今回も無所属であった。

     このため、その時の選挙費用は、没収された供託金をのぞいては850円しかかからなかった。前回は30万円ほどかかったが、今回は人も驚くほどの少ない費用ですんだ。この850円の内訳は、立会演説へ行く途中でくたびれてサイダーを飲んだりした費用であった。

     たまたま、この850円ですませた選挙の体験をNHK「私たちの言葉」で放送したところ、全国各地から同感と賞讃の手紙が、数多く私に寄せられた。この時の私の得票は2,400票くらいであった。

     この選挙が終わりに近づいた立会演説会のある日、私は候補者たちに、「選挙がすめば、当選する人もあり落選する人もある。そのこけら落しに、一同で箱根にでも行って一杯飲もうではないか」と呼びかけたところ、みな賛成してくれた。それではというので私が世話役となり、その準備を進めていたが、投票結果がわかり、当落がきまってしまうと、もう私がいくら勧誘しても出て来なくなってしまい、結局私1人でこけら落しに行くということになってしまった。

    中小企業対策委員・商工指導所・工業試験所設置

     それと前後して、はじめての知事公選が行なわれた。官選知事であった内山岩太郎君が立候補して当選した。内山君がかかげたスローガンの一つに「中小企業対策」があった。私は、この公約をどのように実現するだろうかと思って期待を寄せていた。すると間もなく、神奈川県中小企業対策本部を設置し、私にその委員に就任するよう依頼があった。

     委員会の仕事は、文字通り中小企業振興策を検討するものであって、60名ほどの委員がいたが、たいていの人は自分の仕事を持っていたので、自然と欠席が多かった。そういう中で、私と石渡清作という県会議員がとくに熱心に活動したので、この2人の発言が委員の中で重きをなすようになった。

     これが一つの機縁となって、神奈川県に商工指導所が設立された時も、私はあっせんの役を引きうけ、所長や部長の人選にもたずさわった。また、ついで神奈川県工業試験所が設立された時にも、私がその中心人物となり、友人の理学・工学博士の池辺常刀君を、県の嘱託にあっせんし設立に関するー切のお膳立てをやってもらった。

     そして池辺君の友人に、四日市の海軍燃料廠にいた北島三省君を神奈川県工業試験所の所長に推して、いよいよその活動が軌道に乗りはじめた。その設置場所も、はじめは、綱島にある安立電気の工場をあてようとしたが、県会議員の関係か何かで、杉田にある石川島重工の工場の一部を買収して、設置した。

     私は、横浜市の電力協議会委員にもなった。これは戦後欠乏していた電力の配給を正しくしようとする趣旨のものであった。そのころは、方々でパン焼きやその他いろいろ食事の用意のために電気を使っており、また何よりも電力施設が破壊されていたために、毎日暗い夜を送らなければならなかった有様で、これは生活に直結する問題であった。

     この委員は東京電力から2人、民間から2人の委員が出ており、私は民間委員の1人として出席していた。方々からたくさんの電力についての苦情が来たが、私はなるべく生産方面に電力を割り当てることを主張した。しかしこの機関もその後、共産思想が多く入って来て、その会の意味も、東京電力の労組の一つの機関のような有様となったので、私は間もなくやめた。

  • 米軍から缶詰をうける

     また職後はまず食うことが先決問題であって、各部落ごとに食糧配給所があった。私が住んでいた港北区もその例外ではなかった。食糧の配給が正しく行なわれているかどうかを調べる食糧配給管理委員があった。私は日吉地区の委員長になり、さらに港北区の委員長にも選ばれた。

     ちょうどそのころ、横浜の元町のトンネルに缶詰がたくさん貯蔵されているということを聞いて、アメリカの第八軍司令部に頼んで放出してもらった。それが、当時の窮乏していた食生活に大きく役に立った。私は第八軍司令官であるアイケルバーカー中将に、お礼に行こうということを発起し、区長、郵便局長など5〜6人で司令部へ行くことになった。私は所用で行けなかったので、当時総務部長をしていた加藤亮三君を私の代わりに行かせたが、あとでアイケルバーカー中将から「また会いたい。いつでも司令部へくるように」という手紙をもらった。

    日本能率協会・事務能率協会の設立に一役

     私はまた、いまは発展をとげ、大いに活動している日本能率協会の設立にも参加した。日本能率協会は、戦時中から活動していたが、半官半民という形で、主として経営コンサルタント的な活動をしていた。それが職後になって、官僚を入れずに、完全な民間の機関にしようということになって、私も、日本能率協会の理事を依頼されることになった。

     それから、日本事務能率協会の創立にも、私は1枚加わった。この協会は、全国各地でビジネス・ショウなどを開いて、さかんに活動しているが、そもそもこの協会が設立された時に創立資金を提供した。

     この協会のそもそもの発起人は、私の中学校時代の同級生であった岩村清一君で、彼は憲法制定に功のあった故金森徳次郎氏(元国立国会図書館長)と知り合いであって、この人を誘った。また私にも「事務の方にコンサルタントがあっていいし、事務能率の分野にも研究すべきものがある」と言って、熱心に誘いに来たので、金森さんに会長になってもらって、活動をはじめた次第であった。

    経営復帰に乗り出す

     この辺でひとつ、そのころの横浜機器にふれてみよう。タイムレコーダーの生産も、たくさんの部品の在庫があり、また需要も徐々にふえて来たので、経営は順調に行った。しかしそれも、発足してから間もなくの間であった。

     私は昭和20年から26年ごろまでは、これまでのべたような奉仕的なことに専心し、会社には新聞を読みにくるくらいという状態であった。社内の状態は、約1万台ほどあったタイムレコーダーの部品を組み立てては売っており、かつての同業者は戦災にあって廃業するか、ほかにもっと手っ取り早い仕事をはじめたので、昭和20年から2〜3年は独占事業で、また会社は旧天野製作所から原価で、1台200円くらいで買って、完成品としては、インフレによって製品の値段が400円から2,000円になり、5,000円に上がり、さらに1万円、2万円となって行って、ついには4万円にまで上がって来た。会社の幹部は、株式会社天野製作所から200円ほどの値段でうけついでいたために「もうかった、もうかった」と言って喜んでいた。

     同業者も、戦後の経済不安や戦争の痛手から立ち直れない所が多く、タイムレコーダーを当社に辞を低くして買いにくるのであった。こういうことがつづいたために、1万台もあった部品のストックも少なくなってくるし、はじめ私の方から機械を買っていた同業者も、立ち直りをみせて来た。

     機浜機器はついに財政状態が悪くなり、従業員の給料も遅配となり、外注会社へ支払う代金や納めるべき税金さえもこと欠くようになった。私もこれを見て、これではせっかく軌道に乗りかけた会社もうまく行かなくなる、立て直さなければならないと思うようになった。私は真剣に、ふたたび会社の経営にたずさわることを考えはじめた。私には、自分が作り育てた会社の窮状を見るにしのびず、私の体内に久しぶりにファイトがわいて来た。

  • 落選者のことば
    横浜市港北区のある落選候補者

    (昭和24年2月4日、NHK放送)

     私は、今度の総選挙に立候補して、ついに落選した者であるが、今、私のたたかった跡をふり返ってみて、負け惜しみではないが、そこに何らかの意義を見出したいと思う。

     立候補した以上は、言うまでもなく当選するのが目的ではあるが、無理な運動をして当選するなど、私の良心が許さないし、選挙民の良識に訴えるよりほかないと思ったので、私は法律で定められてある範囲よりも、はるかに少ない思い切った費用でやって見た。

     そして、お願いすれば、憲政の大先輩尾崎行雄氏にも助けてもらえるだろうとは思ったが、それもやめにして、全然自分1人の独立独歩で何もかもやり抜いて、家族にも友達にも迷惑をかけずにやってみようと決心した。

     だが、その結果はみじめな敗北であり、私に好意を寄せられた方々に対しては、申訳のない次第となったが、私自身としては、少しは国のために良いことをしたと思っている。

     私自身で運転して運動に使おうと思った自動車は故障で動かず、届出用紙は支給されるし、事務用の紙はホゴの裏を使い、そして選挙事務所には、私自身のせまい部屋で間に合わせたから、部屋代はかからなかった。それから看板には、古い物をそのまま使った。このようにして今度の選挙では、私1人が立候補者であり、同時に事務長であり、そして会計主任を兼ねたのであった。

     その結果、私のかけ値なしの選挙費用としては、まず立候補届出の準備として、電車賃が96円、それからタバコは、疲労が増すので5割増しとして、1日30円の割で600円ほどかかり、それにアメ玉が100円とコーヒー代を合わせて全部で810円が、公用私用ともに、私の選挙費用の全額であった。

     なおこのほかに、供託金30,000円と納付金20,000円があるが、私はこれを電話公債で納めたから時価にして25,000円となり、結局全部ひっくるめて、25,811円の経費ですんだ。そして、25回の立会演説のうちで、ラジオ放送の時ともう1回をのぞいたほかは、すべて出席し、さらにたびたび街頭演説も行なった。

     さて、こういう私のやり方には、言うまでもなく、言うに言われぬ苦労があった。毎日、弁当としては昼と晩の2回分をたずさえ、それに水筒を持って、電車と徒歩で押し通した。そして食事は会場の控室ですませ、つねに単独行動でやり抜いた。

     それで、ほかの候補者たちが、トラックや乗用車で威勢良く会場に乗り込んで、大勢の取巻きをしたがえて、演説の際には、盛んな声援があるという有様にひきかえて、私の場合はつねに孤立無援であった。

     私とても人間であり、ことに血の気の多い方であるから、それくらいの費用は、出そうと思えば何とかなる見込みがあるだけに、時々心が動揺することもあった。しかし最後まで、友達や身近な者の援助を辞退して、最初の志をつらぬき通したことは、今ふり返っても、まことに会心の至りで、心から「われ勝てり」と叫びたい気持である。

     選挙運動中の思い出として、とくに心に残ることでは、こんなことがあった。岡津という所に、夜の立会演説会があったが、その帰りにはどうしても2里以上歩かなければならなかった。ところが、その晩はまためずらしいほどの寒さで、それに風さえ加わった。

     私が演説を終えて帰ろうとすると、1人の友達が出口で待っていてくれ、「今夜はあまり寒くて遠方だから迎えに来た」ということだったので、思わずホロリとしたことがあった。またある演説会で、私の話に共鳴した人が、マッサージしてくれたこともあったし、毎日3〜4通から多い時に12~3通もの激励文が、知る人、知らぬ人から寄せられた。

     私の粛正選挙は、小さな一粒の粟にも足らぬものではあったが、決して無意味に終わったのではないということをつくづく感じたことである。けれども私は、ことさらに突飛な真似をしようとするものではない。「三当二落」と言われるような選挙の結果では、まだまだ国民は真底から満足しないだろうと思う。

     ともかく私の場合は、貴重な実験として皆様に聞いていただくだけのものはあったと思う。私のように、たかだか2〜3万の金でも、何とか一通りの選挙運動ができるのであるから、この次の機会には、真に国民が要望するような立派な人々が、進んで出てほしいものである。そうなった時にこそ、政界の浄化が完全に行なわれるのだと思っている。

     負け惜しみと言う方もあろうが、私のこのささやかな体験が、その捨石ともなれば幸いである。

    これに対するある人からの手紙

     始めてお便り差上げます。過日“私達の言葉”で貴方の御言薬をうけたまわりまして、非常に感じたものがございました。口でいふ事と正反対な心を以って平気で世渡りして行く人々を目のあたりに見て来た私が、貴方の御言葉を聞かせて頂き、華々しい様なあの演説の裏に、かくも細心にしかも悲壮に闘った人もあったのかと思うと、嬉しくてなりませんでした。

     “偉人の生涯は皆悲劇であったのだ”とは私の最も尊敬する師の言葉でございました。他の人々は華々しく自動車で…トラックで…。しかし貴方はそれをなさらず地味で、しかも細心の考慮を払はれました。

     落選は致しましても、私は必ず其の努力のつぼみが開く時が来なくては、うそだと信じて居ります。

     遠い土佐の果より、貴方が今の其のお心変らず最後の5分間、いいえ最後の最後まで努力あられん事を御祈り致して居ります。見も知らぬ私が、突然お便り書かせて頂きました失礼の段ごめん下さい。

        天野修一様

    高知県高岡郡蓮池村 青木芳子

  • 第7章 ふたたび会社経営へ

    東銀融資で危機を脱す

     私は、会社を再建するには、まず資金を借りなければならないと思った。早速、取引銀行である富士銀行へ融資を頼みに行ったところ、貸付係が会社を調べに来て、その上で50万円を融資してくれることになった。

     しかしその前に、支店長が一度社長にも会いたいし、会社へも行ってみたいというので、私は支店長がくるのを待っていた。そのころ金を借りるには、銀行の連中にご馳走して、裏でリベートを出すとスムーズに行くということは知っていた。私としては、リベートは出さなくとも、ご馳走ぐらいしてもよかろうということで綱島温泉の「田中家」という料亭へつれて行って、当時いた30人ばかりの芸者を総揚げして、もてなした。

     そして、その支店長といろいろ話しているうちに、彼は囲碁が好きだと言う。私も好きだったので、ひとつやりましょうと、2人で石をにぎった。私が白をにぎり、打ちはじめたら、もう30目も置くうちに、私の方の形勢が良くなった。支店長が石を置けば置くほどこちらがいい状態となった。

     そうすると、支店長が「ちょっと風呂に入って来ます」と言って座をはずした。しかしいつまでたっても帰って来ないので、女中に聞くと、お客さんはもうとっくにお帰りになりましたという返事であった。

     その翌日銀行に行ってみると、きのうまでは貸してくれると言っていたのが、その後協議したところ、50万円という大きな金は融資するわけにはいかない。しかし幸い、自分の知っている人で300万円ほど預金している者がいる。その人を紹介するから話し合って下さいと支店長が言うのであった。

     昭和24年ごろで300万円の預金というと、相当大口の預金であった。私はその人に会ってみると、私の息子より若くみえるほどの人であった。それでも、こちらは借りる立場なので、調子を合わせて話していると、日歩10銭で貸すと言った。このような高利では、会社の経営が成り立たないので、その男から借金することは見合わせた。こうして富士銀行とその支店長の知人からの融資を得ることは失敗した。

     私の友人に銀行関係の人も多かったが、友人のところに借金を申し込むのはいやだった。それだから、その時までは黙っていたけれども、50万円の金がなければ、会社の状態は悪くなるばかりであった。そこで私は、友人で東京銀行の常務をしていた伊集院虎雄君の所へ、進まない気持にムチ打つようにして出かけた。

     伊集院君に会社の事情を話し、融資を頼んだところ、彼は「それでは横浜支店へ行きなさい。横浜支店からお貸ししましょう」と言ってくれ、東京銀行横浜支店から50万円の融資を得て、従業員の給料支払い、外注への支払い、税金などにあて、ひとまず会社の危機を切り抜けることができた。

    会社経営に打ち込む

     私は、社内の様子を細かに見ると、工場の組立、仕上の部門で、ほとんどロクに仕事をしていない。そのころの会社の従業員は、機械工が4~5人、組立工、仕上工が15~6人と合わせて全部で30名ほどであった。これらの人たちが熱心に仕事をやっているなと思って見に行くと、内職をやっているという有様であった。

     工場長の長谷川正衛君に何度注意させても、なかなか直らない。私は従業員に、「君らひとつ内職はやめようじゃないか。その代わり、給料もいまのままでは安いから、思い切って1,000円上げる。それでみんな頑張ろう」と呼びかけた。

     私としては、給料を上げて社内の士気を高め、それをさらに良い方向へ向けようと思った。しかし「1,000円給料が上がるなら、もう1,000円上げてもらいたい」と言い出す者がいた。その男は組立工の1人で、ふだんから態度が悪く、係長の木村与三君も手こずっていた。私は「文句を言う者は、この際会社を辞めてもらおう」と言って、そのあとをさっぱりした陣営に建て直した。

     これとともに、それまで会社の経営を専務取締役の杉山玉夫君にまかせていたが、私が代わって経営の指揮を取ることにした。これからあと私は、ふたたび会社の経営に打ち込んだ。

  • 国鉄の入札に割り込む

     これより前、昭和25年5月27日の土曜日、自宅にいた私に、専務の杉山君から電話がかかって来た。「幹部が総辞職しなければならなくなりました」ということであった。私は、とにかく電話ではゆっくり話を聞けないからと、杉山君を自宅に招いて理由をたずねた。

     杉山君が言うには「同業者の日本事務器(ニデカタイムレコーダー)が、国鉄へ43台のタイムレコーダーを納めることになりました」とのことであった。いまほどタイムレコーダーが普及していなかったその当時で、一度に43台のタイムレコーダーの注文があると言えば、相当の大口であった。

     それまで会社でも、しばしば国鉄に人をやって情報をさぐらせていたが、どういうわけか、ニデカの製品そっくりの購買規格が出たということであった。しかも、入札は翌々日の月曜日午前10時に行なわれることになっていた。

     私はその購買規格をたんねんに読んでみた。時計の誤差は、1日にプラス・マイナス1秒とか、材料の硬度はこういう風だとか、箱の大きさ、外見などの指定があったが、出来ない相談のものが多く、肝心の構造には全然ふれていなかった。さらに奇妙なことには、43台を盛岡、松任、浜松に分約することになっており、受注から納入までが、わずかに15日間しかなく、輸送だけでも精一杯の日数しかなかった。

     私は、これはニデカのセールスマンと国鉄の購買の人とが談合して作った素人細工の購買規格であるとにらんだ。ちょうど東京に当社の営業所があって、いま取締役の沼田誠司君が、その所長をしていたので、沼田君と一緒に翌々日の月曜日昭和25年5月29日の朝入札に行った。

     会社には入札証拠金もなかったので、私個人の金を銀行から引き出して証拠金を持ち、沼田君といくらで入札すべきか相談した。ニデカが自社の製品にピッタリの購買規格を作るためには、相当の金をつぎ込んでおり、そのような経費を必ず入札価格に織り込んでくるに違いないと思ったので、定価より高いくらいでも勝つだろうと考えた。しかし、それでは1番札になっても文句が出る材料となるだろうからとまで考えて、定価通りで入札することにきめた。私と沼田君とは、ここまで決めるのに、東京駅前の小さな喫茶店に入って、コーヒーをすすりながら、全神経を集中した。

     いよいよ国鉄本庁の入札場に入ると、ニデカの人たちが、私たちの姿を見ると、ニヤニヤ笑って愉快そうに、また軽蔑の色がみえた。凱歌はわれにありと思ったのであろうか。私は予定通りに入札した。箱を開けてみると、はたせるかな、こちらが1番札であった。しかしそのあとには、いかに納期に間に合わせるか、という問題が残っているだけと思っていた私に、意外な問題が起きて来た。

    絶対に引き下がらない

     1番札となったものの、国鉄の購買課窓口では「入札価格の発表はしたけれども、まだどこへ注文するかきまっていない」と言われた。そして、きまるまでしばらく待ってくれということであったので、待っていたが、なかなかきまらなかった。そして「翌日来てくれ」ということで、その日はそのまま帰って来た。

     翌日行ってもまだきまらなかった。そしてまた「翌日来てくれ」という始末であった。そういうことが1週間から10日もつづいた。私もその間毎日国鉄の購買課へ足を運んだ。国鉄の購買課にしても、またニデカにしても、完全に立ち遅れていた私の方が、まさか入札に参加するとは思わなかったであろうし、第一に購買規格をニデカ式そのままにしていたので、まさかという気持を持っていたに違いなかった。そこを私たちが割り込んで行って、1番札を取ってしまったので、その始末に困っていたらしかった。

     そこで私も、この件について引き下がって示談にするか、あるいは筋を通して押すべきかということを、会社の主だった者に相談した。国鉄の方からも、「これからたくさん入札があるからここは引き下がってもらいたい。次の入札にはこちらが心配するから」とまで言って来た。

     会社の者は、あとの入札に期待をかけて引き下がることに贅成した。しかし私は「ここで引き下がれば当社の命取りになる。ここを理論的に押せるか押せないか、ひとつ試すことも方法だ」と主張して、1番札の権利を強調した。

  • やると決めたら必ずやる

     しかしながら、納入場所が、石川県の松任だとか、浜松、盛岡など方々に分かれていた。タイムレコーダー43台を、材料の硬度や常識で考えられない時計の精度などのむずかしい規格で新しく作って、監督官の検査をうけ、製作日数もふくめて15日間で、各所に納入しなければならないということであった。

     この規格通りの製品を作って無事納入できれば、会社も前進するが、これができないなら、それまでのように給料の遅配がつづいて、会社が左前になるという瀬戸際の時でもあった。私は、この際思い切って積極的に進むことを決意した。やるときめたら、必ずやりとげなければならなかった。そこで、購買規格の寸法通りの木箱を家具屋へ注文する一方、50台のタイムレコーダーの生産を、従業員に昼夜兼行でやらせることにした。

     国鉄の購買規格では、部品にも硬度の規格があったので、当時まだ数多くあった部品の中から、硬度計を使って、とくに硬度の高いものを選び出して準備した。その一方では、規格には機械の機造というものはなかったが、私が一つ一つ組立てた内部の機構を調べて行くと、良い出来のものが一つもなかった。

     当時は、賃金は請負制であったので、従業員はいい給料を取るために、ドンドンものを作って行き、不良の組立品が社内に山のように積んであるという状態であった。そこで、それらを全部分解させて、再組立てさせ、まず内部の機構から充実させて行った。

    ようやく契約にこぎつける

     一方国鉄の方では、入札はとっくに終わっていたものの、なかなか注文が出なかった。そうしている間に、注文した木箱も納められ、部品の組立も時計も出来上がって、あとは組めばいいということになった。そこで私は購買主任のところへ行って、「あなたがいつまでも決定してくれないなら、購買課長の所へ行きますが、いいですか」と言うと、「いい」ということなので、私は購買課長の所へ行き、「こういうわけでまだ決定していないが、これは一体どういうわけですか」と聞くと、購買課長は購買規則を出して来て、第1条を私に見せた。そこには「1番札といえども落札しないことがある」という意味のことが書かれてあった。「これだから、君の方は国鉄の都合によって落札できないから、入札証拠金を取り下げて帰ってくれ」と言った。

     私は「税金を納めて私は仕事をしているんですよ。アダやおろそかでやっているんじゃない。その入札規則というものは、それだけのものを納入する資格のない、いわゆる経歴のない者が入札価格を安くして落札した場合に困るから出来ているのではないですか。私の方は、すでに戦前から何百台か国鉄に入っており、相手は1ヵ月くらい前に2〜3台入れただけと聞いている。それでも、1番札が引き下がらなければならないのは、常識ではわからないから、説明してほしい」と食い下がった。

     購買課長は、この私の反論に黙ってしまって「あすの10時にもう一度来い」と言った。それからまた翌日の10時に行くと、またあすの10時に来いと言う。そんなことが1週間もつづいたが、一向にきまらないので、「資材局長の所に行きますが、どうですか」と言ったら、「結構です」という答えであったので、私は購買課長の上役である資材局長に会って、この間の事情を話した。

     資材局長は、いま東急車輌の社長になっている吉次利二君であった。私がいままでのことを説明すると、局長は「よくわかった。よく調べておくから、あすの10時ごろ来て下さい」と言ったので、翌日また国鉄へ行くと、購買長の所へ行けというので、課長の所へ行くと、購買課長は、購買規格を出して「時計はプラス・マイナス1秒でできますか」と聞いて来た。そして、「前期は契約後15日間で、それぞれの地に納入できますか」と、その他1条1条念を押して聞いたので、それぞれ全部できますと答えた。

     私がそのように答えたので、購買課長としては何とも仕様がなくなった。そこで、いよいよ契約ということになった。入札してから、約40日目のことであった。私はようやく、国鉄との納入契約書に記名なつ印した。

    検査基準でもめる

     契約書のしまいには、製品の検査は、国鉄の監督官立会いのもとに行ない、それに必要な用具は納入者で準備する、と書いてあったので、私は契約した翌日、監督官にあいさつに行った。

     「こういうわけでやっと契約ができました。ついては、検査用具をメーカーでととのえることになっているけれども、タイムレコーダーにくっついている振子時計というものは、JIS規格でも1分30秒の誤差になっている。この規格書では、誤差が1秒になっている。元来タイムレコーダーは、1分ずつを記録するものであるから、時計は30秒までは正確にしてあるが、1秒の誤差ということは、気象台ならともかく、ふつうでは考えられない誤差です。この検査をどのようにしたらよいのか、自分としてはラジオのゾンデに合わせたらどうかと思うが、これでも差は出ます。どういう機械で検査したらいいか、私の方で作りますから、こういう機械を準備しろと何分の命令をお願いしたい」と監督官に話した。

     監督者も技術者だから、すぐ私の言ったことを理解してくれて、「それでは調べて返事する」ということになった。しばらくして、その後の指示を開きに行くと、今度は監督官と、このような規格を作った購買課と、またそれに関連した規格係の三者が言い争っていることがわかった。

  • 会社の総力あげて

     しかし私の方としては、論争があろうとなかろうと、契約してしまったのだから、ドンドン製品を作り上げて行った。そのうちに、この誤差の問題は、30秒にしようということでケリがついたが、このことで1ヵ月間ほどもたついた。こちらはもう、あと発送すればよいというところまで進んでいた。そして検査条項もきまって、立会検査をすませるだけになっていた。

     会社の総力をあげて作った製品は、外側の箱だけはニデカ製のようにしてあったが、内部の構造は、アマノ式のもので検査をうけた。そして43台のタイムレコーダーを並べて封印し、監督官が翌日までの誤差をとり、1週間検査しても、時計は正確に動いているということで、非の打ち所がなく、検査は無事終わった。

     検査が終わるとすぐ、松任や盛岡など所定の納入場所へ発送した。私はわざわざ盛岡まで納入の立会に行った。どうもくさいと思って調べてみると、はたせるかな、ニデカの製品がすでに倉庫に収まっていた。このために、受け取る方の現場では、すでにニデカ製のタイムレコーダーがあるところへ、アマノの製品がまた来たので、今度はニデカの製品を送り返すのにゴタゴタしたという有様であった。

    従業員に自信生まれる

     こうしてねばりにねばり、私が初志をつらぬき通したこの国鉄へ43台のタイムレコーダーを納めることができたということは、私の会心の思い出の一つである。戦後の混乱がしばらくつづいて、新たに発足した機浜機器も業績が落目になっており、社内の士気も低下していた時だけに、カンフル注射のような効果をあげた。

    国鉄へ納めるタイムレコーダーの完成を祝って
    国鉄へ納めるタイムレコーダーの完成を祝って(2列目中央・私)

     まさに、会社が存続できるかどうかの瀬戸際でもあっただけに、私ともども従業員も一生懸命に働いた。私も、43台のタイムレコーダーをつつがなく完成させて、全従業員とともにその前で記念撮影をした時のことを忘れることができない。

     これによって、ひとまず会社の危機を乗り越え、やればできるという自信を従業員に持たせることができ、ひときわ印象の深い事件であった。ただ気の毒なことは、その時の購買係長は、数々の不正事件が発覚し、この後間もなく自殺したことである。

     またしばらくして、電通省(当時の名称)でも、20台のタイムレコーダーの購入があり、これもニデカの規格で発表された。私は鉄道の例を引いて資材局長の林氏に面会して、その不公平をなじったが、林氏は私の申し出を拒絶した。林氏は他にも重なる事件があった由で、間もなく免官となった。

    • 第8章 30年ぶりのアメリカ・ヨーロッパ

      CIOSに参加

       昭和26年春、CIOS(国際科学的経営会議)がベルギーの首都ブラッセルで開かれたので、日本からもオブザーバーとして数名が参加することになった。私も、日本能率協会理事として、理事長の森川覚三君、住友金属常任監査役の菅谷重平君、住友機械常務の土屋君ほか旭硝子の吉野君という人たちとともに出席することになった。

       はじめ団長には森川君をあてていたが、森川君が連合軍司令部から渡航の許可を得られなかったので、代わりに私が団長となって出かけた。私もずっと以前に、フランス語と英語の心得があったので、団長も勤まるだろうと軽い気持でいた。羽田から香港、カラチを経由してローマに着いた。さらにローマからスカンジナビア航空でベルギーのブラッセルへ行くことになっていたが、ローマで飛行機を降りてくれと言って来た。時間は夕方の6時ごろであった。

       どういうわけで飛行機を降りなければならないのが理由を聞こうと思って、英語で話したが相手に通じない。そこで今度はフランス語で話したが、それでも相手に通じなかった。私の言葉も、長い間使っていなかったために忘れていたということがはじめてわかった。何とか言葉は通じたが、故障で飛行機が使えなくなったので、別の飛行機に乗り換えなければならないことがわかった。その飛行機は、あすの午前3時でなければ出発しないということであった。

      ローマ・ブラッセル

       そこで9時間ほど時間の余裕ができたので、私たちは飛行場からローマの街に出た。もうすでに夜もふけていて、どこも店が閉まっていた。ただ数軒のキャバレーがあいているにすぎなかったので、そのうちの1軒で、5ドルの金をイタリアの金に両替えしてもらい、そこの店の女性に、ローマの街中を案内してもらった。そして真夜中に飛行場へ帰って来た。しかしそれがかえって幸いしたか、飛行機でアルプスの上を通過した時、ちょうど夜明けで、すばらしくいい天気の上に、非常にいい景色を見ることができた。

       ブラッセルで定められたホテルに着いて、さて飯を食うにはどこがいいかと相談した結果、日本での常識を働かせて、デパートの食堂へ行くことにきめた。しかし、ブラッセルのデパートはすばらしい食堂を持っていた。ボーイの持って来たメニューを見ると、フランス語で書いてあって、だれもよく読めなかった。そこで、ほかの人は手っ取り早くマカロニを注文したが、私は「こういう所へ来てマカロニなんてつまらない。もっと上品なものを食うものだ」と先輩らしいことを言って料理を注文した。

       マカロニはすぐ持って来たが、みんなが食べ終わってもまだ、私が注文した料理を持って来なかった。大分長く待ってから出されたが、それが、鉛筆の太さほどの魚のようなものが三つ皿にのっかっていて、あとは、ふつうのパンがニ切れトーストになって来ただけであった。それに値段はマカロニの5倍もする値段であった。私は内心驚きながらもこういう料理を食べなければと、大いに先輩ぶって食べてみたが、塩辛くてとても食べられなかった。

       ホテルへ引き上げてから、辞書でその料理の名前をひいてみると、何とミミズの塩焼きであった。私の30年ほど前の3ヵ年半の海外生活の体験も、年月を経るとすっかり色あせてしまっていた。

    • CIOSの印象

       やがてCIOSの会議が開かれた。CIOSというのは、そのころは世界から22ヵ国の代表が集まって、会社、工場はもちろん、デパート、農場などあらゆる経営上の研究事項の発表や討論などを行なうものであって、いまでも世界的な会議としてつづけられており、世界のほとんどの国々が参加している。

       その時は、日本はまだオブザーバーとしてしか参加できなかったが、私の活動によって正式なメンバーに加入することができた。会議の討議項目も大体、能率の向上・農場経営・デパートの研究に関することであったが、昭和26年の会議の時には、12項目の議題のうち半数がトップ・マネジメントに関するものであった。

       会議には、ベルギーのボードワン国王(当時は皇太子)も出席して、非常ににぎやかであった。22ヵ国から1,600人ほどの人が参加し、それらの人々が、それぞれ各部会に分かれて研究討議を行なった。会期中には、ベルギーの国立工場、印刷所、保健所などを見せてもらった。私は保健所を80人ほどの人と見学した時に、たまたまその代表として、一番遠い国から来た私にあいさつをしてくれということになった。

       はじめ私は、フランス語であいさつすると、一向に反響がなかった。一同ポカンとして聞いている。そこで今度は日本語であいさつすると、はじめて拍手が起こった。

       それからバスでアントワープ(オランダ)へ行ったが、その時に感じたことがある。それは途中でバスが故障して、1時間ほど効外の畑の中で止まってしまった時のことである。その間お互いに国の話などを愉快にしながら、静かに故障が直るのを待っていた。こういう時には、日本では立小便をしたりする者がいるが、彼らはタバコは吸っても、そんなことをする者は1人もいなかった。私はいまだにその時の姿が目にうつる。彼らはやはり日本人よりも社会的訓練を身につけた国民性を持っていることを痛切に感じた。

      ヨーロッパ再見

       CIOSの会議が終わったあと、私は30年ぶりにヨーロッパ各地とアメリカ国内をまわった。私がかつて3ヵ年半をすごした時は、ちょうど第1次世界大戦の直後であったが、その時も第2次世界大戦のあとであった。その30年間、ヨーロッパの姿は大きく変わっていて、日本に帰ったら、いかに会社を良くし、会社を経営して行くかという問題を抱えた私には、目にうつるものがすべて新鮮に思えた。

       この時の印象は、当時の『東洋経済新報』に掲載されたが、それをあとに抜萃(259―263頁)してあるからお読みになっていただきたい。

      良い環境と高い給料が企業を良くする

       その事柄のうちとくにここに述べたいのは、こういうことである。スイスの時計工場は、外部の者にはめったに見せない所であったが、私は幸いにしてそれを見ることができた。そこで感じたことは、労働環境が実にすぐれているということであった。これからの工場は、どうしても労働環境を良くして行き、そして給料も改善しなければならないと感じた。私に昭和6年に事業を起こした時の心がむくむくと頭を持ち上げて来た。

       こういう気持で、昭和28年の夏に帰国したが、このことが、私がCIOSの会議と、そのあとの各地の視察で得た最大の収穫であった。このあと、CIOSの会議には、2年後の昭和28年1月にふたたび参加した。私にとっては、自分の企業の立場を知るに良い機会であった。

    • センピル卿に会いそびれる

       私はこの旅行で、昔の学校の友人だとか、日本にいた人など、いろいろの知り合いを各地に訪問した。中でも残念だったのは、ロンドンで、かつて私が海軍に在職していたころ、日本へ帰る佐渡丸の船中で一緒であったセンピル大佐に会いそびれたことであった。

       私はロンドンに着いてから急に思い立って、当時のセンピル大佐が壮健であるかどうか、ホテルのフロントで電話番号を探してもらった。しかしロンドンには、センピルという名前が多くてわからなかったので、昔飛行機乗りで有名であった人だと告げると、それならロード・センピルだと言った。日本で言えばセンピル卿というわけであった。そのころは上院の委員長をつとめていた。

       それで、調べあてた電話番号で早速センピル氏に連絡したところ、ちょうど避暑に行っているということであったので、私はさらに避暑先へ電話したところ、センピル氏は大変に喜んで、私の名前もはっきり覚えていた。センピル氏は、あすロンドンに帰るから、議会の方の仕事をすませたあとで、トラファルガー広場に近いアセニアム・クラブで会おうということになった。

       翌日私は、所定の時刻にそのクラブに行ったが、センピル氏はなかなかやって来なかった。待っている間に、日本から持って来た広島の原爆の惨状を写した写真をそのクラブにくる人たちに見せた。するとみな気の毒なことだと言って、眉をしかめていた。いま核爆発の実験反対を最も強く運動しているのはロンドンであると聞いているが、この時の私の行為が少しでも役に立っているならば、本当に幸いであると思っている。

       ー方センピル卿は、議会の議事の都合で、約束の時間にとうとうアセニアム・クラブに来れなかった。私はそのまま帰国したが、その時に丁重な陳謝の手紙が先に私の家に着いていた。しかし会えなかったのは残念であった。

      イギリスとアメリカの女性

       このCIOSの会議の帰りに、パリからロンドンへ渡る飛行機の中でのことであった。私の隣りの席にイギリス婦人が坐ったので、私はあいさつをしたが、相手は知らん顔をしてすましていた。やがて飛行機がドーバー海峡の上にくるころ、大分ゆれて来た。すると、私の手をにぎる人がいたので、ふと気がつくと、くだんの女性が飛行機に酔ってしまっていた。

       私はスチュワーデスをすぐ呼んで介抱させたが、「袖すり合うも他生の縁」とか、さっき私があいさつした時に、少しくらいはあいさつを返してもいいものだと思った。

       ついでサンフランシスコからホノルルへ向かう時に、アメリカ婦人が私の隣りに乗って来た。私は「タバコをのみますか」と聞くと、彼女はすぐラッキーストライクを出してすすめてくれた。それがキッカケとなってだんだん親しく話しはじめた。彼女はサンフランシスコの田舎の方に里があって家族はホノルルにおり、戦後主人が佐世保に進駐していたが、いまはライジングサンのセールスマンをしている。きょうはホノルルの飛行場まで迎えに来ているということであった。

       いろいろ冗談も交わして、ホノルルに着いた時、私は窓口の近くの席を彼女にゆずってやった。彼女は「あれが私の主人であり、2人の子供も来ている。老婦人の1人は私の母親であり、もう1人は主人の母親である」とまで説明するのであった。そして、飛行機を降りる時には一番先に出て行って、子供や母親の見ている前で主人と抱き合ってキスしていた。

       その前に飛行機の中で、私が「ホノルルのこういう所に泊まるのだ」と言うと、「それなら自動車で送ってやろう」と言っていた。私もそれをアテにしないでそこから離れ、荷物を受け取りに行っていると「ミスター・アマノ」と呼ぶ声が聞えるのでふり返ると、その婦人の子供が来て私にレイをかけてくれたばかりか、「ママが呼んでいる」とのことであった。そこで約束した通りに自動車に乗せてもらい、別れる時も「あす半日空いていないか。空いているならホノルルを案内してあげる」と言ってくれた。

       翌日くるかどうかと思っていると、ちゃんと時間通りに自動車で迎えに来てくれ、ホノルルを案内してくれた。そして彼女の家にも案内してくれた。家はそう広くなかったが、中級のサラリーマンの家であった。私はそこで子供2人を相手に遊んだり、刺身にご飯というようなご馳走までしてくれた。

       その後私が日本に帰ってからも、クリスマスのあいさつなどを欠かさず、現在もつき合っている。同じ女性でも、イギリスとアメリカとでは、国の性格の違いから、私が経験したところでは、これほど違っていた。

    • 《欧州の旅先から》『東洋経済新報』昭和26年10月20日号
      日本機械工業の反省

       30年前私はアメリカとフランスに、いずれも1年半ぐらいいたが、今度来てみると1週間ぐらいの間語学は駄目である。それもそのはず、長い間英語もフランス語もノックアウトだったのだから…。しかし、追々耳もなれて、いまでは欧州に来て50日目であるが、昔のようにゆかぬまでも、大体の仕事には用が足りる。

       私は18歳から機械工業にたずさわり、経験からいえば1940年までの日本の工業は、かなり詳しいつもりだし、それ以後はおぼろ気ながらも大体わかっているつもりである。が、私の考えに間違いがあるかどうか確めるために、帰国したならば早速日本の一流工場を、少し見せてもらおうと思っている。これだけ前置きして私がいままで見て歩いたベルギー、ドイツ、スイスの工場で切に感じたことをもう少しまとめてのべてみよう。

      ドイツの機械工業 ドイツでは約2週間滞在中一流工場を相当見て歩いた。彼等は相変らず、基礎(foundation)を考えている。一工員を鞭達するとか、監督するとかいう末梢的なことより、機械に物をいわせることに主力をおく。

       ある工場では、太さ(dia)1インチの鋼丸棒のネジ長さ1メートルを切るのに25秒である。しかも、そのネジは立派なものだ。またある工場では、厚さ1インチ、太さ30インチ、歯数60の鋳物の歯車の車を切るのに1分20秒である。しかもこれを1人で4台受持っている。なお、測定は1万分の1ミリまで測れるものを持っている工場もある。

       各工場のマネージャーは、いかに生産を上げるかということよりも、いかにして良い品物を作るかということに専念している。

       戦後日本の工業会社は、手持材料で鍋釜をつくって食いつなぎをしていたものがたくさんあったが、ドイツではもっぱら工場の復旧とか、改良に努力したことが十分に察せられる。したがって彼等はほとんど無配当か、3%も配当があれば大したものである。

       この点、日本の家屋が木造であり、彼等の建物が煉瓦か石造りであるごとく、基盤がシッカリせねばならぬと痛感した次第である。

      スイスの時計工業 私が30年前に見たスイスの時計工業は、組合で総合検査する家内工業式のものが最も発達し、良質の時計が造られていた。が、今度来てみると、会社組織の大資本で経営しているもの――たとえばオメガ、ロンジン、インターナショナルのような工場で作られたものが断然よい。時計の内部を調べても歯車が全然違う。

       よい時計は歯車が研磨してあり、軸、ベアリングなど小物に至るまで互換性を持っている。この国では、時計工場は絶対に見せぬのだが、私は特別に見せてもらった。製造方法も昔とは全然変って機械の良いものをフンダンに使っている。そこで、時計工業に使用する機械の製造工場を見せてもらった。それは想像以上入念に作られており、殊に戦後設計したものが多い。私はスイスの工業家、技術家の勉強ぶりには全く敬服した。

      直接従業員と間接徙業員 わが国で実際に生産に従事する人と、事務をとる人との比率を見ると、100対15というのは非常に少ない方で、多いところでは、100対25ぐらいの割合であるように思う。

       私がいままで見て来たベルギー、スエーデン、ドイツ、スイス、イギリスでは、いずれも後者が前者の5%ぐらいであり、特にスイスのごときは3%程度である。それも女子が大多数を占め、男子の数は女子の10%以下である。スイスのジュネープの工場のごときは、3,500人の工員技術者に対して、事務員(販売関係を除く)は30人ぐらいで男子はわずかに2名である。この少人数で工賃、請負の計算と何から何までやっている。会計は男1人に女2人で、しかも受付までやるのである。

       これは事務器械を思う存分駆使することからできるのであって、欧州各国どこへ行っても工員50名ぐらいに1台のタイムレコーダーと、タイムスタンプとがあり、事務員の横には計算器とタイプライターがおいてあることでも、この間の消息を如実に物語っている。この点日本の経営者はよく考えていただきたい。

       たとえ生産原価が安くても、付属費が多ければ原価に割掛けをせねばならぬから、どうしても高く売るということになる。石炭にしても、日本のものは高く、かつ1人当りの出炭量が少ないのは事務関係の従業員が多すぎるからだ。日本から来た某大会社の重役は、欧州で偶然あった私に、これは帰国したら大いに改良せねばならぬと嘆息していた。

      日本工業の打開策 いままで見て来たところから私の結論は出来ている。大体次のことくだ。日本が工業立国ということを叫ぶならば、電力を工場に潤沢に使用させること、電力をいまの2倍以上にすることはぜひ必要である。これと同時に機械の製作方法を変えることである。

       それにはいま日本にある機械をアテにしないこと、欧米から一流の機械を買ってこれを基礎に紡織、車両、船舶から時計のごとき細かい工業までに使用する機械を作ることである。私が見て来た一流の機械は、技術者(日本でいう熱練工)が使用していない。設計がいいから黙ってハンドルを動かし、ボタンを押せばそれですむ。彼等は熟練工というものを考えてはいない。

       これらの機械を買うには約5億円かかる。それでまず、よい機械を日本で作ることである。各社はめいめいが買わずにまとまって買い、1ヵ所で模範的かつ基礎的な工場を新設する。これを5ヵ年は無配当にする。

       確かに日本の工業は、欧州にくらべて20年以上遅れている。が、しかし、日本海軍が大正4〜5年ごろから昭和14~5年頃までに長足の進歩をとげ、莫大な金を投じて軍艦や兵器の購入先であった英国を凌駕した経験があるのだ。その努力をもってすれば、10年といわず5年で一応は欧米に追随できると思う。

    • 《ニューヨーク通信》『東洋経済新報』昭和26年10月27日号
      アメリカ雑感

      米国の機械工業 アメリカに来てから私は、ニューヨークを中心にフィラデルフィア、ニューヘブン、ハートフォードなどにある一流の機械工場を見学した。どの工場も非常に忙しく、2交代、3交代で作業していた。欧州では、有名な工場以外1週46時間作業で、受注状況もよくないが、アメリカでは、準備生産の工場でも、1ヵ年先でないと注文を受付けないのがある。

       工場に入ってみると、欧州にくらべて職工の作業ぶりは実に緩慢だ。欧州(イギリスを除き)ではこちらから話しかけないと、黙って仕事をしているが、アメリカの工場ではこちらから何か話しかけるのを待っているようにみえる。

       工場の機械の配列や作業順序はドイツが一番合理的なようだ。フィラデルフィアのS.K.F工場の検査制度のごときは、実によく整備されていたが、流れ作業という点はあまり考慮していない。これには驚いた。また欧州では作業中牛乳やコーヒー等が飲めるように設備してある工場をしばしば見受けたが、アメリカではそれが見当たらない。

       機械工業における工員1人当りの生産高は(昭和26年当時)、欧州もアメリカも、1ヵ月少ないところで10万円(邦貨換算)で多いところは50万円という話である。配当はアメリカでも、日本のように3割ないし5割もするという会社はない。せいぜい8分で普通3分とか5分である。ドイツなどほとんど無配当だ。この利潤は、設備の改良とか新たな研究費として充当するから、設備のいい点で日本とは段違いである。

       さらに会計、庶務、販売などの一般管理に従事する人数は、欧米いずれも日本と比較にならぬほど少ない。1人当たりの生産高が多い上に、付属経費が僅少だから、労賃は日本の2倍ないし3倍にもかかわらず、生産コストが低い。日本のように賃金が安すぎるのでは、将来欧米に伍して絶対に太刀討ちできない。経営面で思い切って転換しない限り、日本の工業立国など思いもよらない。

      米国の労資関係 日本の会社では社長や役員などが、従業員に親切であったり寛容な態度であると、かえって仕事がやりにくくなるというのは、こうしなければ仕事がやりにくい、または上役が無能であるからだと、大変な誤解をする従業員が多いためである。

       日本の労組の幹部の中には、会社の重役の悪口を言ったり、大声でどなったり、演説が上手でなければ駄目のように考えている人が多い。また組合員もそう思っているようだ。が、欧米の組合幹部は、机の上に立ち上って演説をブッたり、会社幹部をカン詰にするようなことはしない。組合に不利の点はあくまでも合理的に抗議するし、会社側もこれをできるだけ受入れている。双方ともきわめて紳士的だ。

      日本の留学生 日本から短期留学生が大勢来ているようである。私がニューヨークに着いた当時は、ちょうど夏期休暇であったから街では随分大勢の学生を見かけた。

       彼等の中には実にキチンとした身なりの人もいるが、ネクタイなしで市内を歩いているような者もいた。またホテルでも、スリッパで食堂にくる者もあった。相当のインテリであるはずの彼等の中に、こういう人のいるのは誠になげかわしい。吉田さんは外交官のエチケットをやかましくいうという話だが、これを見れば全く同感せずにはいられない。

       ところで、日本人の2世はなかなか活動しているようだ。殊に終戦後あまり豊かでない1世や2世の人々が各地で演説をして得た金を寄贈したり、自腹を切って粉ミルクや衣料類などを、ララ物資とともに日本にしばしば送り届けてくれた好意は、日本人として心から感謝しなければならない。

    • 第9章 新会社の設立から今日まで

      新会社を設立・合併へ

       その後日本へ帰ってから、私は会社の状態について考えることがあった。横浜機器ではとうてい良くならないし、いくら私が良くしようと努力したところで、このままでは馬の耳に念仏だと思い、私は別にモデル会社を作ってそれにならわせるようにした方が会社を良くする早道だということを考えた。

       当時私はカタログをたくさん持って帰ったので、そのカタログを一ぺん整理したいと思っていた。それには相当頭のある人に頼まなければならないというわけで、私の知人で東大教授をしている山名博士(元海軍技師)にそのことを依頼した。しかし山名君はちょうどコンバーターを岡村製作所で設計していて、ちょっと具合が悪いということであった。そこで同君の紹介で堀輝一郎君にカタログの整理をしてもらうことになった。

       引きつづいて私は、モデル会社を設立することを堀君に相談して、尾園鉄次郎君(取締役)に来てもらって、天野特殊機械株式会社を作った。この新会社で、リクレス(ドレーン分離器)、モイスレス(常温乾燥空気発生機)などを開発して行った。とくにリクレスは製品化もうまく行って、新会社はほどなく軌道に乗った。

       そのうちに、同じ場所に横浜機器と天野特殊機械との二つの会社があって、社長が同一人であると、経理は完全に分けているにせよ、そこにトンネル資金というようなものがあるという印象を外部に与えることと、両方別々にしていたのでは非能率なこともずいぶんあって、またこの小さい資本で少人数の会社であることは、発展性が遅いと感じたので、合併することに踏み切った。

       天野特殊機械の設立は昭和28年であって、合併は昭和31年のことであった。この合併の際に私は、会社はそれほど大きくする必要はないが、必要な程度の大きさと設備の更新は行なわないと将来性がないと思い、堀君にこのことを相談したところ、堀君はやはり5〜6人の少人数でやって、十分な利益を上げたいという意見を持っていて、私と意見が合わなかった。それで堀君は会社を辞めたが、ここに天野特殊機械――社名は昭和28年設立の天野特殊機械と同じであるが、実際は横浜機器が主体となったもの――が新たに誕生、現在に至っている。

       こうして会社を近代化する方向へ引っぱって行った。

      いかに高能率・高賃金を実現するか

       私は昭和26年にCIOSの会議に出席したあと、ひどい戦禍をこうむっていたドイツを訪れたことがあった。その時に、あるドイツ人が私に「日本のカメラはドイツの真似ばかりしている」と言われた。私はそれに対して「私もひとついいカメラを作るから、君らに批判をしてもらう時期がくるだろう」と言って別れた。

       それから2年後、前年のCIOSの会議で私が尽力して日本を正式のメンバーとしたために、次の大会の準備委員として、私がローマに行くことになった。この機会に私は、会社近代化についての私の構想をもう一度たしかめてみたいと思って、進んで戦後2度目の外遊に出発した。

      会議の時にローマ市長と会う
      会議の時にローマ市長と会う(CIOS実行委員一同)

       ちょうど、先年私がドイツで広言したように、天野特殊機械にいた日野次郎君が単限レフの構想を持っていて、これを生産するための工場を建設する考えを、海外を見て回ってたしかめようとも思った。実際に2年ぶりに海外の各工場を見ると、やはりまず労働環境から良くしなければならないという感じを深くした。わずか2年間ではあったが、その間のヨーロッパ各地の復興ぶりは、たしかにめざましいものがあった。

       要するに、環境を良くして設備を近代化するということ、すなわち「高能率・高賃金」は、ごくありふれた、だれが見てもうなずかれることであるが、それをどのように実行するかについては、方々の工場を見たり忠告をうけたりして帰国した。それが昭和28年1月から3月にかけてであって、それ以後鋭意会社の体質改善に努力して今日に至っている。私は現在でもそれに満足はしておらず、この問題は、これからの私についてまわる問題であると思っている。

    • 雷道計再生産を逸す

       その間、私にとっては非常に残念なことがあった。それは、そのころようやく復活して来た海上自衛隊で使用する「雷道計」をふたたび生産するチャンスを逸したことであった。

       私は、戦時中海軍へ行くと「ヨウ雷道計」と言われたくらいであったが、終戦と同時に兵器の生産はやめていた。しかし、私がヨーロッパ、アメリカをまわっている時に、防衛庁では、魚雷をふたたび使用することになった。それで魚雷の注文をうけた新三菱重工では、戦時中雷道計で名をはせた当社へ、それを作らないかという話を持ち込んで来た。

       そのころすでに軍需生産をやめており、また一般情勢から言って専務の杉山君は、その話を剣もホロロにはねつけてしまった。その話を私は、帰国してからしばらくの間は知らなかったが、堀輝一郎君から、お家芸であった雷道計をどうして作らないのですかと聞かれて、私ははじめて、戦後雷道計の需要が、わずかながらも生じていたのを知った次第であった。

       私はすぐ新三菱重工へかけつけたが、先方では逆に剣もホロロのあいさつであった。だんだんにさぐってみると、天野で雷道計の生産を断わられたので、愛知時計電機へ三拝九拝してやってもらったということがわかった。私も防衛庁へ運動したり、種々方策を講じてみたが、とにかく数が少ない上に、新三菱重工としては、愛知時計電機に無理に頼み込んだという義理もあるので、とうとう雷道計をふたたび生産するチャンスを失ってしまった。

       私としては、昔あれほど苦労したことがみのらなくなり、非常に残念であると思っている。こういうことを断わらないで、すぐ生産に取りかかるという感覚は、経営者としては非常に大切であると思う。ふだんは昼あんどんのようでも、イザという時に気のつくことが必要であると思う。国鉄へ納めたタイムレコーダーにしても、もう少しで逃がすところであったが、もしあの大口注文がなかったならば、今日の会社の発展は見られなかったに違いない。

      カメラ進出始末記

       ここで、さきほど少しふれたカメラについて話をしてみよう。私は、数あるカメラの中でも、どこにもないきわめて独創的なカメラを作ろうという気持を持っていた。日野次郎君のアイデアをとり入れて1限レフの製作をはじめたのは、昭和28年の春であって、翌29年のはじめには「アマノ66」と銘打って、この1限レフカメラを業界に発表した。

      “アマノ66”
      “アマノ66”

       いまでこそ1限レフはめずらしくないが、そのころとしては、この「アマノ66」の新しい機構は業界を驚かせた。大体1限レフは、シャッターがフォーカルプレン方式が多く、シャッターを切る時に映像が一時消えてしまう難点があった。しかし「アマノ66」では、クイックリターン方式を採用して、映像が消えることを防いだので大いに注目された。

       日本での特許8件、実用新案9件も取り、またアメリカ、ドイツ、フランス、ブラジル等の特許6件も取った。日本はもちろん、欧米からも代理店を希望してくるものが数多く、また技術提携したいと言ってくるものもあった。その一例として、アメリカのミネアポリス市にあるハニウエル社からは、同社の露出計と組み合わせて、アマノ・ハニウエルとして売り出したいと言って来て、とりあえず月5,000台ずつの出荷を希望して来たが、私は主体を当方で考え、単に露出計だけ付設するのでは、ハニウエルをつける値打ちがない、アマノだけならば出してもよいと返事した。

       またドイツのザイカ社からも、技術提携したいと言って来た。しかし、カメラの販売をよく調べてみると、国内へも国外へも代理店を十分に利用し、また代理店に十分に利益を与えなければならない。メーカーとしては利益はまことに少なく、しかも流動資金の比重が多い、いずれのカメラメーカーも、これでなやんでいることがわかった。

      “アマノ66”で撮影した写真
      “アマノ66”で撮影した写真(長期信用銀行・大野員義氏撮影)

       それに、新方式を採用したものの、機構に難点があることがわかり、それを克服できないままに年月を重ねてしまった。そのうちに、国民の気持がカメラから電気器具に移ってしまったという市場の動向もあったために、昭和28年3月から33年2月まで約5年かかり、研究費も約1,500万円以上をついやしたが、私はカメラ界進出を中断した。

      “アマノ66”と同時に作った35ミリカメラの試作品
      “アマノ66”と同時に作った35ミリカメラの試作品

       この「アマノ66」のほかにも、私は35ミリカメラで、フィルムを捲き上げると同時にシャッターがセットされるという独特なシステムを持ったカメラも考案した。しかしこれも「アマノ66」と同じように、製作を断念した。

       このようにカメラ製作を中断した私の見通しはよかった。昭和31年ごろから、カメラブームが去ってしまうにしたがって、倒産するメーカーが続出する状態がつづいた。

    • タイミングよく工場建設

       戦後第2回目の外遊から帰ったあと私は、まず工場を建設しようと考えた。それまでの社内の工場は、戦前に建てた木造の工場ばかりが残っていて、冬は寒く、夏は暑いという当然の気候条件を必要以上に感じさせられるという有様で、このために作業能率もかんばしくなかった。実際に工場建設に着手したのは昭和32年の夏であったが、それまで私は、資金の調達を行なう一方で、建築費の安い時機をねらっていた。ちょうど、昭和31年から32年にかけて、神武景気と言われた空前の好景気がやって来て、建築資材が大幅に値上りしたので、その反動で値下りするのを待っていた。

       すると昭和32年の中ごろから景気が下り坂になり、今度はナベ底景気がやって来た。そこで私は、すかさず工場建設に取りかかった。工場の設計は、長さ約60間で、幅は柱なしで、できるだけ広いことを要求したが、現在の技術では最大6間であるとのことであったので、60×6間の3階建とした。さらに2階と3階とは板張りにすることによって、梁と柱の材料の節約をする設計を依頼した。この結果、初期の予想よりも約1,000万円の経費を節約することができた。

       とくに、屋内に1本の支柱もないことは、作業の能率向上に大きな効果をあげたが、それよりも大きな効果は、近代的な工場で仕事できるという自信を従業員に与えたことであった。昭和33年3月にこの工場が完成するとすぐ、木造のうす暗い工場から移ったが、従業員の顔に大きな喜びの色があったことを、私は見逃さなかった。

      直接販売に改める

       このほかにも私は、会社を立派なものにするためには、製品そのものを良くすると同時に販売を強化することだと考えた。そのころは、製品販売のほとんどを全国各地の代理店に頼っていたが、生産計画を立て、サービスを強化するためには、直接販売のシステムをとることの方がよいと考えた。

       昭和25年、はじめて東京支店を日本橋のライカビルの4階においた。支店と言っても、せまい部屋に机をおいていたにすぎなかったが、これが戦後直接販売に乗り出す第1歩となった。私は、販売にも、生産と同じく研究部門が必要であると考え、杉山専務や沼田君(はじめの東京支店長)に説いた。いまで言えば市場調査を行なう部門がいると説いたが、結論は出なかった。この問題は大切な問題なので、私は無理押ししてはいけないと思って半年そのままにしておいたが、結論が出なかったので、私の考えをそのまま実現することにした。

       私はこの場合、市場調査のモデル地域に静岡県を選んだ。静岡県は、名古屋市の事務機・文房具の販売店篠田商会に販売権があったが、成績が良くないので、まずここを当社の直接販売地域とし、ここで得た製品の見通し、需要の程度を他の地域に生かそうと考えた。

       その担当者に菅原正君(現販売部長)を選び約2ヵ月間にわたって市場調査を行なわせ、さらに九州一円を約6ヵ月調べさせた。この結果にもとづいて、昭和32年8月に開設したのが福岡支店であった。

       名古屋の話が出たついでに、名古屋支店にふれてみよう。

       名古屋方面の販売は、戦前から全面的に篠田商会にまかせていた。ところが一向に販売が伸びないので、先代の社長に、もっと売ってくれなかったら私の方が支店を出すと通告した。私はもともと、名古屋地方の産業その他は十分に伸びる余地があると見ていたので、代理店の販売ぶりが歯がゆかった。

       そしてそのまま1ヵ年様子を見ていたが、1年たっても伸びない。さらに半年のばしたが、積極的に売らないので、東新町にあった睦田ビルの2階に支店を設置した。これが戦争の最中の昭和18年3月であった。ところが篠田社長が飛んで来て、支店を引っ込めてくれと言って来た。しかし私は、本社として支店を出した以上、支店を廃止することはできない。第一に1年も前から予告してあると言い、さらに支店は篠田と競争するのではなく、援護射撃を行なうものだと説得した。それ以後は両社とも売上げが伸び、私が名古屋支店を設置したことはうまく行った。

       支店ものちには広小路に移り、積極的な販売を行なったが、空襲で焼けた。そして終戦と同時に名古屋支店を閉鎖したが、その後直接販売に乗り出すことになって、昭和31年12月にふたたび名古屋支店を設置した。

    • 奨励金制度のアイデア

       直接販売を行なっていくうえに、最も必要なことは、言うまでもなくすぐれたセールスマンである。すぐれたセールスマンを採用するには、まず知識・教養を持った大学を出た人を集め、給与を他よりよくすることだと、私は考えた。

       そこで、大学卒のセールスマンを募集する一方、製品を代理店におろすのと同じ値段でセールスにおろすということを考えて、その定価との差額を販売奨励金として支給した。この結果、中には月10万円もの給与を取る者が現われたが、会社にとってはそれ以上に有利な面が出た。それは、まず何よりもセールスマンが販売を伸ばすことに熱意を持ったことと、直接販売によって需要の見通しがつき、客先の注文や意見をかなり正確にとらえることができたからである。

       しかしもう一方では、生産に従事する人には奨励金というものがなかった。セールスマンの中には、大学を出て1〜2年目にすでに5万円、10万円の給料をとる者が出ていたので、やがては生産に従事する人からも、奨励金制度の希望が出るだろうと思って、昭和34年1月に生産奨励金制度の発表を行ない、 同年4月から実施した。

       この制度をはじめるにあたって、奨励金の半分はないものとして貯金し、会社はそれに対してできるだけ高額の利子をつけるということを提唱した。当社は若い人が多く、余計な浪費をするという私の老婆心から、そのようなシステムで発足した。

       しかしながら、会社の給与の支払範囲はきまっているため、生産奨励金制度が実施されると必然的に、それまで高額を記録していた販売奨励金が下がって来た。そういうことから、昭和35年7月には、セールスマンを主体として労働組合が出来た。

       いずれにしても、この奨励金制度は、業績の向上にしたがって、従業員が良い給与を得られるシステムであり、私としても、従業員の給与が少しでも良くなることを望んでいるので、良いアイデアであったと、誇りに思っている。

      成功した株式の公開

       それから会社近代化の過程で忘れてならないことは、天野特殊機械の株式公開であろう。会社の株は、従業員に多く分けていたが、何と言っても公開されていなかったので、流通性に欠けていた。そのために従業員が持株を処分したり、利用したいという場合、あるいは退職する場合には、遠慮がちに株を買ってくれと言ってくることがしばしばあった。

       それに、これから会社が発展して行くためには、株式を公開して資金をひろく社外から求める必要もあると思って、昭和33年7月東京店頭市場(いまの市場第二部)に公開することになった。

       これによって、従業員の持っている株でも、売りたい時に売ることができ、自分の会社の株がどのくらいの値段で社会で評価されているかを従業員が知ることは、会社に対する自信を大きくすることにもなった。それに、最大の効果は、「天野特殊機械」という名前が、一般に大いに知られることになったことであろう。幸い公開してから、株価は好調な業績を反映して高い水準にあり、増資もとどこおりなくすませている。

       私は株式を公開するに当たって、4大証券の中から日興証券に幹事会社をお願いした。市場への売出価格は80円であった。これについては、75円で日興証券が引き受け、差額の5円は手数料その他にあてるということで話がきまった。公開株数は、私は20万株ではどうかと言ったが、日興証券は10万株にしてもらいたいと言って来た。当時はそれほど人気がなかった。

       市場の評判が良ければさらに株を公開するという手筈になっていたが、将来値上りした場合には、その時の値段によってきめようと、私は日興証券に念を押しておいた。しばらくすると、日興証券から私に来てほしいという連絡があったので行ってみると、どうも売出し価格が80円では高いようだから、75円で出してくれ、それについては3円の手数料で72円で引き取りたいと言って来た。そこで私は「当社の株を公開することは、結局私の持株を出すわけであるが、役員会の議決を経ている問題であり、さらに日興証券としても、半年近く当社を研究した結果、専門家が値段をつけたわけだから、以前通りの値段で売り出してもらいたい」とつっぱねた。それに「利益も2円、3円と言わずに5円くらいあなたの方でもらわなければ、商売にならないだろう」と言って、私も笑っていた。

       日興証券でも、それではじめの方針通り80円で売り出すことになった。さて売り出してみると、当社の株はたちまち100円から120円にも上がった。日興証券でも、これに気をよくして引きつづいて10万株ほしいと言って来た。こういうわけで、株式の公開は成功した。最近、第2市場の活況を聞くにつけても、それにさきがけて株式公開に踏み切ったことは、快いことの一つである。

    • 紫綬褒章受賞のいきさつ

       私は、昭和34年11月30日、紫綬褒章をいただいた。早くからタイムレコーダーの研究に努め時刻記録時計をはじめとする数多くの発明考案を完成し、およそ30年にわたり事業をすすめる一方、輸入品を一切駆逐した功績がいちじるしいということで、私としては、顧みてまことにおはずかしいことだが、ありがたくいただくことにした。

       褒章については、昭和29年ごろに神奈川県から、藍綬褒章をやるから、ほしければ書類を出すように、と言って来たので、私は、ほしければ出せとは何事だと思ってそのままにしておいた。その後、当時の神奈川県商工部長に会った時、たまたまその話が出た。商工部長が言うには、ほしければ出せと言ったのではなく、藍綬褒章受賞の候補者に推薦するから書類を出してほしいと言ったのだということであった。それがわかった時には、すでに選考の期間がすぎてしまっていた。

      紫綬褒賞受賞の時
      紫綬褒賞受賞の時:うしろに立つのが妻

       そして昭和34年になって、ふたたび県庁から藍綬褒章の候補者に推薦したいからという通知をうけた。その矢先に、今度は科学技術庁の方から紫綬褒章の候補者に推薦したいという通知があったので、私は藍綬の方を辞退した。それは、藍綬褒章は、教育衛生から農商工業の発達まで広い範囲にわたって公衆の利益をおこし、公けの事務にはげみ、その効果いちじるしい者に授与されるのに対し、紫綬褒章は、学術、芸術上の発明改良、創作に功績いちじるしい者に授与されるというので、私にとっては、紫綬褒章の方が名誉になると考えたからであった。

       その日私は、長年つれそって私を助けてくれた老妻と、従業員代表として高橋敏夫君を同伴して受賞式に出席した。時の科学技術庁長官中曽根康弘氏から褒章と賞状をうけ、正午からは皇居に入って、天皇陛下からお喜びの言薬をうけた。

      従業員の待遇は能力中心に

       いま私の会社には男子2、女子1、の割合で従業員が約750名いる。平均年齢は24歳であるから若い男女が多い。私は、戦時中三重工場で女子挺身隊を作業分析によって、熟練工に負けないようにむずかしい製品の深度計を作らせた経験があり、そのころから、女子も男子同様な作業ができるものと考えていた。

       昭和28年ごろ、私は社内に女子従業員の大量採用を提唱した。そのころは、紡績など一部の業種をのぞけば、女子の作業はきわめてかぎられた分野しかなかったが、私は女子でも、仕事の種類、性質により、また作業分析の結果、当社の作業ならば、十分使える可能性があると見て、女子従業員を採用することにした。

       そのころは、私のところのような業種で女子はほとんど進出しておらず、またどんな職業でも女子の給料は低かったが、私は、男子と同じ能力があれば、当然同じ給料を支払うべきだとして、社内では、昇給や賞与の際にも、一切の差別をつけないことにした。これが、当社の特色の一つの男女同一待遇として、「婦人週間」などの時に、テレビ・新聞にもよく取り上げられる。

       いま世界中の注視をあびているEEC諸国ですら、この男女の質金格差の大きいことが泣き所となっている。例をあげると、フランス9.2%、西ドイツ15.7%、イタリア、オランダ30~40%という大きさである。EEC自身の発表によると、この格差を1963年6月に10%、1964年の終わりに0にする方針で進むということだ。

       私の会社のように、数多くの女性が男性と同じ仕事をしており、重要なポストを占め、原則として貸金に差をつけないことは誇ってよいことだと思う。とにかく“才能にふさわしい地位と収入”ということが当社のモットーで、女性でも非凡な才能を持っていれば、それだけの待遇をしている。女性だからと言って差別することはない。ただ仕事によっては、女性に向くものと向かないものとがあり、女性に向かない仕事では当然女性を使わないこと、これは経営者の当然なすべきことと考えている。

       この私の方針は大成功を収めた。昭和28年以後続々入社して来た女子従業員は、男子ではできない仕事を次々と開拓して行った。1つ1つの作業の処理時間では、男子の方がたしかに早いが、それが連続すると、かえって女子の方が忍耐強く好成績を収めたのであった。

       女子採用にふみ切るには、社内に多少の抵抗はあったが、私は思い切って女子採用を行なった。たまたま、作業を単純化することによって、女性が男性と同じように働いている事例が、日本生産性本部を通じてアメリカのノースウエスタン大学のプロダクション・コースのケーススタディとして「アマノ・コース」となっており、ハーバード大学にも登録されているのは、私にとっても会心事の一つである。

    • 座談会の様子
      左から高富弘子、加藤ヨウ子、海野みさ子、谷岡美佐子、井上トヨ子、山宮信代のみなさん

      〈座談会〉 7

      女子従業員、社長を語る
      とき
      昭和37年7月16日
      出席者
      井上トヨ子(生産部仕上係)
      海野みさ子(生産部NR組立係)
      加藤ヨウ子(生産部仕上係)
      高富弘子(生産部仕上係)
      谷岡美佐子(生産部部品管理係)
      山宮信代(生產部仕上係)

      海野 社長さんは、言ったことは何でもやり通すわね。新工場だってそうでしょう。

      山宮 あんなに大きく建てるとは思わなかったわ。

      高富 それに建ちはじめてから案外早かったでしょう。

      山宮 私が会社へ入ったばかりの時、社長さんに「どうだ」とポンと肩を叩かれてね。あれよくおぼえているわ。

      海野 直接教えられたことはないけど、はげましてくれるわね。

      谷岡 でも最近は社内をあまりまわらなくなった。

      井上 以前は日に2回くらい来たわね。

      海野 この間食堂で「元気か」って声をかけられたの。私が「たまには私の方にも来て下さい」と言うと、午後からすぐ私の方に来て下さったの。おどろいちゃったわ(笑)。

      谷岡 伊東へはじめて社内旅行したでしょ。あの時、石に腰かけていた社長から「あの子と一緒に遊んでやってくれ」と言われて見ると、入ったばかりの女の子が1人ポツンとしていて、そんな所まで気を使っているのかと、感心させられたわ。

      加藤 横浜の町の中でも会ったことがあるの、すると必ず声をかけてくれるわね。そして、一緒にお茶を飲もう…とかおっしゃって(笑)。

      高富 社長らしくない社長さんね(笑)。

      海野 以前はよく洗いざらしの国民服を着ていたでしょう。だから入社試験の時、面接でいろいろ聞かれたけど、社長さんだとは思わなかったわ(笑)。

      井上 本当にかざらないから、社長にみえない。

      山宮 社長さんはいつまでも若々しいですね。

      加藤 何かヒケツがあるのかしら、教えてもらいたいわ。10は若くみえるわね。

      谷岡 だれにでも声をかけてくれるでしょう。

      海野 ほかの社長と違って親しみがありますものね。

      井上 何でもユーモラスに言って下さるから叱られてるとは感じない。

      山宮 私たちは叱られるようなこともしないし(笑)。

      高富 前は電車で通ってらしったから、朝などよく一緒だったわね。

      谷岡 ほとんど毎日駅で一緒になる。奥さんが作った弁当持って歩いていましたね。

      海野 いまでも時々電車で帰るでしょう。駅の売店でお孫さんのお土産買っているのを見ますよ。

      谷岡 お花のけい古で遅くなると、会議を終えた社長さんがよく立ち寄って下さったり。

      海野 大分前なんですけどね、私が門から外へ出たらどこに行くんだと言われたので「パンを買いに行きます」と言うと、社長さんが「うまいパンを買ってやる」と言って、わざわざパンを買って下さった(笑)。

      山宮 そういう社長は、ほかにあまりいないでしょう。私たちが会社へ入った時には、女性は10人もいなかったでしょう。だからよくおぼえていてくれるのね。

      加藤 そのあと私たちが入った。

      高富 8人ね。

      井上 はじめは男子ばかりだったから、はずかしかった。

      山宮 食堂の真中を通って行くと、みんなにワァーと言われて(笑)。

      海野 でも社長さんはじめみなさん親切にしてくれたわ。

      井上 お汁粉を正月に煮たり、お米の配給があったりね(笑)。

      谷岡 いまは女性も多くなったし、工場も広くなったから、社長さんもあまりまわって来られなくなったし、声もかけてもらえなくなった。

      海野 何かさびしいわね。

      谷岡 これからは健康第一にしてもらわなくては。

    • 〈座談会〉 8

      会社幹部からみた天野社長
      とき
      昭和37年7月17日
      出席者
      尾園鉄次郎(取縮役・検査部長)
      沼田誠司(取締役・特殊品部長)
      菅原 正(取締役・販売部長)
      西川喜八郎(取締役・開発部長)
      鈴木毅一(総務部長)
      手取徳次(生産部次長)
      浅賀俊一(経理課長)
      黒丸養之助(倉庫課長)

      手取 昭和32年の春でしたか、箱根塔ノ沢の環翠楼で、はじめて新工場建設の構想を聞かされました。

      尾園 部課長会の席上でしたね。

      手取 あの時社長は、コンベア・システムを取り入れた工場を建設すると言いましたね。コンベアは運搬機械で、それ自体が目的でなく、これによって流れ作業をやって、ムダのない生産管理をやっていくという趣旨でした。

      座談会の様子
      左から尾園鉄次郎、菅原正、沼田誠司

      尾園 タイムレコーダーをコンベアでやっていいのかなと思ったですね。もっともあの時はカメラもやることになっていましたから、自動機やコンベアを購入したいという社長の話だった。

      手取 たしかに、そのころ部品にバラツキが多かったんです。コンベアでやれば、品質も良くなるという社長のアイデアが成功したわけです。しかしその時は、われわれはそういう考えではなく、鉄筋コンクリートなどムダだと思ったですね。ベルトがけの旋盤があったりして、精密機械を作るのにはほど遠かった状態ですから、まず内容を充実してと思った。

      尾園 会社を発展させるには人がいる。そのためには立派な建物でいれものを良くしなければということでした。

      沼田 もう一つ、32年から33年にかけては景気が悪くなって建築費が安くなって来た。その時に作っておけばという考えもあったですね。

      菅原 昭和32年の8月に福岡支店が出来て、私が赴任したんです。ちょうど工事に取りかかるという状態でした。

      沼田 工場を新設したのは、やはり社長が外国へ行って見聞された上ではないですか。建物が良く、環境が整備されれば必然的に良い品が作られるというお考えのようでした。

      黒丸 スイスへ行って来られてずいぶん変わりました。

      菅原 あのころは、九州では石炭が間題になりはじめ、景気も悪かったんですが、販売面では積極策をとるにはかなりの冒険であった。そこを社長一流の考え方で、景気の下り目に事業を拡張し、それがうまく次の景気の波に乗ったわけです。

      座談会の様子
      左から鈴木毅一、西川喜八郎

      浅賀 昭和32年ごろの売上げは少なかった。1期で大体9,000万円だったですねそれから、ここまで発展して来たのは、株式公開が大きな役割を占めていますね。株式を公開しなかったらここまで発展していませんね。

      西川 私自身も、それがなかったらこのような発展がなかったと思います。

      尾園 私は昭和28年に旧天野特殊機械が出来た時株を持たされた。500円を300株でしたが、正直の話、これは会社へ勤める保証金みたいなつもりでいて、もどっては来ないと思っていました。

      菅原 社長の頭脳は柔軟というか、事業家だけに、ふつうの人より時代に敏感ですね。それにカンが非常にいい。需要予測にしても、32年ごろは、いまより調査機関が発達していなかった時期ですから、一種の冒険を行なったわけです。それが当たったと言えると思います。

      西川 社長は、ヒントをちょっとした所から持って来ますね。新聞記事とか外をまわって気づいたことから。

      尾園 物の見方、考え方が非常にするどい。われわれのしゃべることから、大切なことをちょっと引き抜く。

      菅原 支店を短い時間で見て、各店の欠陥を指摘される。どこからそれをつかんでくるか、私にもわからないですね。

      浅賀 それからNR1本にふみ切ったこと、これも会社の発展に役立っています。

      沼田 われわれがふだん考えていないと見のがすようなことから、何かをつかむ能力はすぐれていますね。それに、さかのぼれば、戦災をうけていないということが良かった。

    • 座談会の様子
      左から手取徳次、黒丸養之助、浅賀俊一

      黒丸 部品や機械がずいぶん残っていましたからね。

      沼田 戦後は、アマノのタイムレコーダーはそれほど有名でなかった。軍関係へ納入するのが多くて、一般には入っていなかった。しかし残った部品でいち早く作りはじめたために立直りが早かった。そのころ、“アマノ”と言えば、ふつうの人は、どこの会社が作ったタイムレコーダーを売っていたのかなんて言われましてね(笑)。

      菅原 本当に市場が組織化されたのは昭和32年ですね。ふつう生産会社の社長は、物を作ることを主体とした考え方なんですが、社長は販売を中心においた考え方ですね。そのころまで、メーカーが直接に売るという考え方はなかった。そこに着眼して、直販勢力を大きくして行ったんですね。

      浅賀 その意味で奨助金制度は成功しましたよ。

      沼田 社長の性格は、何か意図されると、それを徹底してやり通す。これが随所に出て、うまくやって来られた。そういう力がどこから出るのか。

      西川 社長の性格と言えば、働きもので、忍耐強い。

      鈴木 最後まで、思ったことをやり通す人ですね。私が海軍から戦後ここへ来た時に感じたのですが、民間会社の社長は、原価計算にするどいと思った。また私がはじめて設計してA5判の紙に書いたら、大きすぎると注意されました。

      尾園 設計用紙が葉書くらいの大きさだった。

      菅原 出張されると、汽車弁のかけ紙のウラをメモにする。われわれがそこまで気がつくかどうか。

      沼田 それに非常に正直ですね。自分の思ったことをそのまま表現する。何かにつけてヒタムキになれる。

      浅賀 私は事業家として少し正直すぎると思うんです。もっとズルサがほしいですね。

      西川 瞬間瞬間に正直なんですね。

      手取 人情の機徴にも通じていますよ。私の家内が病気だと聞くと、ポンと数万円くれたり、いよいよダメな時には奥さんが修道尼をつれて来られてね。私は、いままで今日やめよう明日やめようと思ったことが何度かあります。それが今日ここまで来てしまった。

      西川 この間、ある協力会社の社長が亡くなった時など、棺を開けさせて「あんたにはずいぶん厄介をかけた」と言って、頭をなぜてやっているんですね。われわれは、そうしたいと思っても、それができるかどうか。

      浅賀 正直さのあまり人の言葉をそのまま信じてしまうこともありますね。

      沼田 われわれとは考え方の次元が違うのではないですか。

      手取 はげしい反面やさしいんですね。

      浅賀 私は、かえって涙もろい人だと思いますね。

      尾園 いままでの社長のやり方などを見ていますと、いつか社長が「物事をなしとげるのに、半分は考えて、あとの半分は努力する」と言っていますが、たしかにそのような気がしますね。

      沼田 自分の考える所まで持って行ってしまう。

      西川 その反面、トコトンまで考え、絶対に損をしないという信条を持っている。

      沼田 私はその前だと思う。やって行けなかったらすぐやめる。よければそれで十分だという考えだと思いますね。

      尾園 損をしても、わけのわからない損はしない。自分でやってみて失敗して損したなら仕方がないということですね。カメラの場合がそうでしたね。調子悪いと、部品を一つ一つ組んで納得する。その時に私に言ったのは「自分が知らない理由で損をするのはイヤだ」ということだった。NRでもはじめのうちは一つ一つ自分でやっておられた。

      手取 NRにダイカストを採用する時に、フロシキに包んで持って帰られた。それを採用してくれるかどうか心配だったんですが、翌日出社してすぐ「これでやれ」と。自分で納得してから事をはじめますね。

      社長に望むこと

      尾園 健康第一にということですね。

      鈴木 それが一番でしょうね。

      黒丸 私は、自分のお歳をよく考えて仕事をしていただきたいですね。

      西川 偉大なる経営者になることを望む。

      沼田 企業が強いから別に問題はありませんが、それなりに対外的な関連をうまくやっていただきたいですね。

      浅賀 後継者は考えていると思いますが、はっきりしてもらいたいですよ。社長にもし何かあったら大変ですからね。

      菅原 これからは、世界のヒノキ舞台で成功することを当面の目標としているでしょうが、総力を結集してその方向に持って行くこととともに、国内需要安定策の遂行をとくに望んでおきたいですね。

    • 第10章 私の回顧談

      これからは世界の桧舞台へ

       最近になって、会社も一応軌道に乗った。いまのところ生産も販売も好調である。そればかりか、現在では海外へ大きく雄飛しようと思っている。回顧すれば、私としては会社の仕事は面白いから、思いなやむことは少しもなかった。備えがあるから、従業員の生活のためにかけずりまわることもなかったし、要するに金の苦労だけはなかったことが、会社発展の一つの原因だと思っている。

       それはそれとして、この30数年間、私1人の力から4人の従業員を集めてはじめたタイムレコーダー製造中心の会社が、従業員も約700名を抱える中企業に発展し、相手とする人々も、いまや日本、アメリカで3億人になろうとしている。その経験が積み重なったエッセンスが、近年の新工場建設と機械設備の更新、奨励金制度、技術者養成所と工業技術研究所の設立、人材の登用、嘱託、参与制度についての考え方、労働組合のことなど、取り上げればキリがない数々の事象となって現われている。

       これら一連のことを考えると、そこには、企業経営の急所ということが感じられるのではないかと思う。自分のことながら、私は経営者として良いカンを持っていると自負している。何かみなさんの参考になれば幸いであると考えるので、これらの事柄を一つ一つ取り上げて、私の回顧談としよう。

      新工場建設で体質改善へ

       新工場の建設については、さきに少しふれたが、もう少し話してみたい。これに要した資金は1億2,000万円ほどだが、その当時は会社の経理状態もよくなかった。昭和32年春のことであったが、建設の構想が出来たので、部課長全員を箱限塔ノ沢温泉に集めて、新工場の構想を話した。そのころは、まだいまほどの設備投資も行なわれておらず、何よりも資本金1,500万円の小会社が、資本金の10倍もかかる工場の建設に着手するとは、会社の幹部ならずともびっくりする話であったかも知れない。

       しかし私としては、会社を発展させるためには、入れものを良くしなければならないという強い信念を持っていた。このために、幹部の間に多少の危惧の念を持つ者もいたが、私は自分の考えを強く押し進めた。もし、あの時にねらいをつけて建設に着手していなかったならば、工場を建てることはさらにさらに遅れて、それだけ会社の近代化も遅れたか、あるいは建築費の高騰で、相当の資金を必要としたであろう。

       それから私は、入れものを良くするばかりでなく、機械設備もドンドン新しく、高性能なものに変えていった。そのためには、外国製機械を入れるなど費用はかさんだが、相当数買い入れていった。このため、かつては木造の工場でベルトがけの機械で作業していたのが、一転して、鉄筋コンクリートの工場の中で、コンベアも通り、自動盤など性能の良い機械をも動かすようになった。これと言うのも、「高能率・高賃金」を行なうためには、設備の近代化を行なわなければならないという私の強い信念にもとづいているからである。

      昭和34年ころの工場全景
      昭和34年ころの工場全景
    • 奨励金制度の成功

       奨励金制度についても、前に少しふれたが、私の会社で実施しているこの制度は、他社の手本となっている。

       当社の奨励金制度は、戦中と戦後の短かい期間実施したが、半永久的に制定したのは、昭和32年の販売奨励金である。その動機は、代理店販売主義から直接販売第一に切りかえたためであったが、代理店にマージンを出すなら同じ程度をセールスマンに支給したらいいじゃないか、会社としては損得ないうえに、販売予定が早くわかれば生産計画も立てやすいし、納入先の意見を早く聞くことができれば、会社のサービスも良くなる利益があるではないかというごく単純なことから考えたにすぎない。

       もちろん、わが国の経済情勢が良かったことにもよるが、この制度が成功したことは、このところずっと当社の売上げの伸びになって表われていることでも言えるのである。最近でも、この制度をつづけながら、さらに売上げを伸ばし、全国くまなく販売網をはりめぐらせるために、代理店販売も重視し、全国各地に約180の代理店組織を持つに至っている。

       私は、販売奨助金制度を採用する一方で、大学新卒をドンドシ採用した。製品を作るために研究設備が必要であるように、販売を増進するためにはすぐれた販売研究機関が必要で、その人々による市場調査とか販売政策の立案が必要である。そしてこれを、いま販売部長となっている菅原正君に担当してもらい、タイムレコーダーの需要動向を確かめた。

       販売奨励金より2年遅れて、生産奨励金制度を実施した。生産奨励金は、必ずしもつけなければならないという理由はなかったが、販売だけに奨励金制度があって、生産にはないというのはおかしいという意見が、将来必ず出てくると思ったので、そういう意見が出てくる前に、生産奨励金制度を実施した。

       とくに制度実施にあたって私は、「諸君の給料を2倍にしたいが、早急には無理なので、この生産奨励金制度によって、1年目にまず5割増、2年目に100%増を達成しよう」と呼びかけた。この私の呼びかけ通り、昭和34年12月にはまず50%の生産奨励金がつき、さらに実施2年目には100%を達成した。

      あの世に持って行けない金

       また私は、かねがね青少年の企業内教育を重視していた。戦前には、社内に「天野青年学校」を設立して教育をし、終戦後はしばらくとだえていた。昭和33年に「天野技術者養成所」を設立して、会社の中堅層を育成することにした。

       ここでは、他社のやっているような卒業後の義務はつけず、また年齢、性別、学歴等の制限なしに、一定の能力を持っている者であれば、だれでも入所できるようにし、学力の程度も、短大に匹敵することとした。

       また最近になって、東大名誉教授の富塚清氏を所長に迎えて「天野工業技術研究所」を設立した。幸いにも私の家族は、生活に憂いがないから、私の作った財産を、私はあの世に持って行かずに、現世に役立てるため財団法人を作って、世の中のためになる研究をしてもらった方がよいという結論を得たので、これを投じてこの研究所を設立した。

       世の中に役立つ、ということのために、この研究所では、いまは公害防止についていろいろな研究をしている。私は、この研究所に対して金を出したが、こうしなければならないというような口は出していない。とにかく、私の投じた小さなことが、何か世の中の役に立てば、これに越したことはないと考えている。

      天野工業技術研究所設立披露パーティー
      天野工業技術研究所設立披露パーティー:中央は藤山愛一郎氏、右端は富塚清氏
    • 川は流れてこそ

       ここでもう一つふれたいのは人材の登用ということである。機械設備を良くし、制度もととのえば、あとは、それを運用する人次第である。最後には、人の出来がいいか悪いかで勝負がきまる。私はこの人材の発見ということを最も重要視している。これは何も、良い人材を発見して登用するということだけではなく、ある人がその才能以上の地位を占めている時でも言えることである。

       私は社内で折にふれての忠告や教育には十分意をそそいでいるが、当社の特色として、役付登用試験、職員登用試験を行なっていることがあげられている。学歴がどのような人でも、その能力にふさわしい地位と収入が得られるという当然のことを趣旨として、従業員に勉強させるという意味もふくめて出来た制度である。

       しかしこの場合問題となるのは、同年に入った者が、同じように昇進していくことは、むずかしいという点である。ある人は部長にもなるが、ある人は係長にとどまるということがある。しかし私は、係長にとどまった者が不平を抱く前に、なぜ自分が上に上がれなかったか反省する必要があると思う。

       将来、当社に残る問題はここにある。だから、中にはそれを不満として会社を辞めて行く者も出てくる。これもやむをえないと思う。川は流れてこそ清らかであるが、流れが止まってしまえばドロドロになってしまう。例えが悪いかも知れないが、これから会社をリードして行く場合、ここに難点があるであろう。

      嘱託・参与制度の特色

       同じく人の問題であるが、私は、きわめて特色ある嘱託・参与制度を採用している。当社の定年は55歳であるが、55歳になったからといって、すぐ会社を辞めて行けというのは、当人に対して非常に残酷なことである。他社では定年になった翌日から収入の3割を減らし、せいぜい長くても60歳までで会社を辞めてもらうケースが多い。

       この点当社では、これらの人々を嘱託にして、収入も毎年1割程度減額して65歳までの在社を認めている。これは、私は恩恵であると思っているが、当人としては、必ずしもそうは思っていないようである。この点にむずかしい人事の問題があると思う。

       また参与制度は、長らく在社して会社に功績のあった者の老後を見る方法として考えたものである。長い間会社に勤務していて、明日から会社にくる時は、門衛にことわって来いというのでは、当人にとってはさびしいかぎりである。そこで、これらの人々を優遇し、功績に感謝する気持の表われとして採用したものである。だから給料を1/3にして、その人が死ぬまで、昔の恩給のようなものを支払いたいと考えた。しかし私のこの考えを、その年齢に達した人は素直にうけ入れてくれない。人の問題は、私にとって最も頭をなやまされる問題である。

    • 労組についての私の考え

       つぎに、労働組合のことであるが、戦後当社にも共産系の組合が出来た。そのころは食うにも困っていて、社内の人々は上下の区別なくまず食って行くことが先決問題であったのに、組合は会社の存立そのものを危うくするような方向に進んだ。私は断固反対して、そういうことをやる人は会社を辞めてくれと言って、追い出したことがあった。

       その次に出来たのは、昭和25~6年ごろの総同盟左派の組合であった。その時は組合をエサにする人が会社に入って来た。それも主謀者が組合の金をゴマかして自滅していったが、社内がゴタゴタして、地方労働委員会に提訴したりしたが、私はこれにも頑強に闘った。ある日、労委内の便所で労働者代表と偶然に会ったら、「天野さんにかかると敵いませんよ。何か逃げ道を作って下さい」というようになった。最後に10万円出してくれれば手を引くと言って来たが、私はつっぱねた。最後には委員会の顔を立てると思って出してくれと頼まれたので、1万5,000円出した。

       昭和28年に出来たのは、総同盟のもので比較的穏健であった。私も設立当時にはあいさつをしたり、事務所を提供したが、そのあとはほとんど活動らしい活動をせずに終わってしまった。

       また昭和35年には、セールスマンが組合を作ったが、これは生産奨励金をつけるについて、販売奨励金が減少して来たことに対する不平が主な原因であった。しかしそれが表面に出せなかったので、いろいろなことを言って来たが、私は相手にしなかった。この組合も結局、就業規則違反があり、最小限の懲罰で終止符を打った。

       戦後は、大体以上の組合が出来たり消えたりしたが、いずれもそういう運動が食い込む余地のないほど、会社の経営が良かったので、さしたる事は起さないでいる。私はこれらの体験を通して、むしろ健全な組合であれば、出来た方が経営はしやすいと思っている。労働組合の本来の姿は、産業別の労働組合であると思うが、この形の組合は日本では発達しにくい。いきおい企業内組合が単位になっているから、視野もせまく、極端にも走りやすい。結局、スイス、オランダ、スエーデンなどで行なわれている代議員制度、ドイツの従業員代表の経営参加制などが最もよいと思う。

      私の後継者について

       私もすでに72歳となり、他から見て老境に入ったらしい。そこで、知人からよく聞かれることは「あなたのあとは誰がつぐのか」ということである。

       私はいままで、事業を堅実にして行くことが、よい後継者をうる最短距離であると考えて来た。はじめは長男の卓(たかし)を考えていたが、戦死した。他の2人の男子は、それぞれの専攻に進んで来ている。私の周囲の人々は、私の子供が私のあとをつぐのが最もよいと言ってくれる。しかし、私は子供の教育については自由主義でやって来た。そして、彼らはそれぞれ相当に育って来た。また、私の事業が今日くらいに、あるいは私がこのごろ胸にひそかにえがいているくらいに、将来成長するであろうとは、予期しなかった。ここに、子供を後継者とする道程にいささか距離がある。

       私の知人で、子供を後継者としてから一層繁栄した例もあり、また反対の例もある。私が若かりし30歳ごろに英国に行き、ビッカース製鋼所を見学した時に、その工場の隅で小銃の銃身の曲りを直している中年の職工を見た。案内者は彼は当社で最高給の職工であると言った。私はしばらく彼の作業ぶりを見ていたが、実におどろくべき早さで仕事をさばいて行った。彼は父の作業場に毎日弁当を持参して来て、父の仕事をおぼえて父のあとをついだ。また父は祖父のあとを私と同じ方法でついだ、私のこの仕事は、祖父からうけついでいるのであって、私はこれを栄誉とし、また満足していると、私に話した。

       これは、英国工業発展の基因の一端を知らしむるものだと思う。世界的に有名なスイスのシップ社は、中学校の理科の先生が、教材の製作を思い立ったのが原因で、子孫連綿として今日の発展をなし、ドイツのシーメンシュッケルト会社、ボッシュ社とも子孫が後継している。米国のタイムレコーダーのトップメーカーであるシンプレックス社も、創立以来70年以上たっているが、父のあとを子供がついで盛業している。このほか二世になって繁栄したもの、衰微したもの幾多の例を私は知っているが、子供から孫へと継承し、極小企業から漸進して超大企業になり、人類に貢献している幾多の例を知っている私は、私の子供が私の後継者となることを希望するが、また彼らの意志を曲げてまでも植樹する決意になれないことも事実である。

       端的に言うならば、いまは「時が解決してくれるであろう」ということである。

    • 私の育児法
      昭和12年ごろの子供たち
      昭和12年ごろの子供たち

       子供に、「勉強せい、勉強せい」と言うことは、お前は勉強しなければ人並みに行かないということと同じで、子供に自信をなくさせるからやめた方がいいと思っている。私は子供が勉強していると、むしろ「そんなに勉強するな、遊ぼうじゃないか」と、いつも私から誘うものだから、妻がイヤな顔をして「お父さんがいつもそういうことを言うから良くならない」などとこぼしていた。私は、子供には自信をつけさせてやることが大切だと思う。

       さらに付言するならば、学校へ行くのは立派な社会人になるめに行くのであって、良い成績を得るために行くのではない。だから学校は教科書を習うのではなく、社会人となる基礎を習うのであって、成績は必ずしも良くなくともよいと思う。

       一人前になったら何をしてもいいという父兄がよくある。私も父からそう言われた。そうすると、卒業して月給取りになると、やれやれと思って酒も飲み出し遂には身を持ちくずすことにもなる。「飲みたい時に飲め」と言ってやった方がよい。私の子供も、大学生になると、酒は飲みたい、タバコは吸いたいということになった。そこで酒代という名目をつけて、学資の一部に入れて送ったことがあった。

      私の夢

       かれこれ40年前にあった関東大震災で、私は、名古屋から海軍の駆逐艦で食糧を運んだことがあった。その時の悲惨なことを再現しないためにどうしたらよいか、とつくづく考えた。私はその数年前欧州に行っていた時に、ベルリンの街が、主要な所はみな6階になっていることを思い出して、銀座通りを東側でも西側でもよい、一並び抜いて、新橋から日本橋まで6階建てとして道路を広くする。将来6階を連結することで飛行機の発着場になると、市長の後藤新平さんに献策した。

       これは一時実現するかにみえたが、結局元通りのせまい銀座通りとなり、屋根もデコボコになった。また近ごろ東京都心の交通地獄を見てこんなことを考えた(雑誌『青淵』昭和35年10月号より)。

       生産都市の建設――北海道・岩手方面、長野・岐阜方面、中国地方、四国、九州の各地方に1〜2ヵ所、なるべく農耕地をさけ、山間または不毛の原野を選んで、従業員10万人以上をふくむ生産都市を建設したい。この都市に、家族と彼らの生活物資を供給する機関をはじめ、最高教育もうけられる学校、大映画場、劇場、音楽堂などの娯楽設備、病院など東京大阪に居住するよりもはるかに快適な生活をなしうる諸々の施設を完備する。これら諸々のことに従事する人口は、一都市で100万人以上となるであろう。

       この生産都市は、化学、紡織、機械、醸造などわれわれが快適な生活をいとなむに要するものを生産するように案配して分割設備する。動力は、もちろん原子力によることが望ましい。この都市と現在の都市および新都市間は時速400~500キロ以上の高速地下交通方式で結ばれ、生産設備をはじめもろもろの生活機関は、さわやかな光線と空気とを取り入れられた地下にあればこの上もなくうれしい。かくして

       (1) わが国人口の約1,000万人が、現存都市と容易に交通しうる田園山間生活ができる。

       (2) 人口都市に集結するいろいろのわずらわしい問題が解決する。

       (3) 世界東西両ブロックの原子力戦からさけられる。

    • 家族に囲まれて
      家族に囲まれて:後列左から長女多喜子、次男和夫、三男杲、前列左から孫、三男の嫁、妻、孫、孫、私

      座談会 9

      家族と語る
      とき
      昭和37年2月18日自宅で
      出席者
      天野貞子(妻)
      天野和夫(次男、立命館大学法学部教授)
      天野 杲(三男・東北大学工学部助教授)
      藤川多喜子(長女・東京電力社員藤川道夫妻)

      ――お小さい時のお父さんの思い出からお話をはじめていただきたいと思います。

       おやじから叱られた記憶があるか。オレは叱った覚えはないけれども(笑)。

      夫人 それはもう忘れてしまった(笑)。

       記憶がなければ、大して叱られていないんだな(笑)。

      夫人 杲(あきら)ちゃんが一番叱られたね。

       浦和の高校に行ったとき、譴責を受けたがあの時も叱りはせんよ。

      夫人 あの時は自分で責任を負ったんで、自分がしたわけじゃない。

      ――お父さんはやさしかったでしょうか。

       ふつうじゃないですか。こわいわりにやさしい面もあった。

      夫人 やっぱり仕事の人でしたから、子供に打ち込んで教育しようなどということはなかった。だから子供に接するときはいつも冗談半分で…。その影響か子供がひょうきんだった、ことに3番目のは(笑)。

      ――というと放任主義だったということでしょうか。

      夫人 小さい時はね。

       放任ではなかったですよ。

      夫人 やはりこの通りの気性ですから、きびしいことはきびしかったんです。だけど、ふつうの時はふざけてしまっているんです。鼻をつまむとか、追っかけるとか、かまってね。

      多喜子 とくに叱られた記憶はないんですけど言葉で叱られなくて、ピリッとした所があって(笑)。どこの家でも父親というのは、そうではないでしょうか。

      和夫 まあそういう意味ではふつうじゃないですか。

      ――子供の教育方針はございませんか。

       私は仕事一点ばりであったけれども、子供に対しては自由に行きたいと思っていた。戦死した上の子供だけは、会社のあとをつぐようにしたいと思って、会社の仕事に直結するよう仕向けて行ったけれども。和夫、杲には、自分の好きなことをやれと言っていたが、別に何をやれとも言わなかった。

      夫人 シツケはきびしかったですね。夜でも遅く帰ると心配になるらしいんですね。それで、帰ってくるのを持ってでなければ眠れないんですよ。やはり親心というのか、心配になっているんですね。ふだんは枕に頭をつけるとすぐ眠れるのに、子供が帰って来ていないと、「まだ帰らないか、もう9時になる。もう10時になる」と言って、私もそのたびに心臓がドキドキしちゃって(笑)。

       和夫はわりにおとなしい方で、大して記憶はないが、6~7歳のころ、鵠沼で病気になった。2人の男の子が1年か1年半寝たきりで、看護婦をつけていた。多喜子は赤ん坊で、トラホームにかかるし、おばあちゃん(夫人)は寝ついてしまって、私も肋膜にかかった。そのころはたくわえも少なかったから、身代かぎりをするか、病気が治るか、どっちが早いかと思ってね。あとは大体子供らは順調だった。

      夫人 ずいぶん丹精した子なんですよ。ずいぶん弱くて…。

       バイタ・グラスを買って来て、家の中に紫外線を通すなどして。

      夫人 結核療養所みたいにそれを貼ったんです。それですっかり丈夫になった。

       太陽を直射させて、畳を上げて板敷きにしてやった。だから別に放任でもなかったんだよ。これでずいぶん心配したんだよ(笑)。

      夫人 ですけど、主人なども親がなくなってから、最近親のありがたさがわかったんですよ。親がいるうちは、そんなにも思わなかったらしい。やはり子供というものは、太陽の光をうけていると慢性になってしまって、そうありがた味を感じないでしょうが、よく人から、お子さんがゆったりしていると言われるんです。それは苦労しておりませんの。主人が修業したころのような苦労はないんです。いまでも、天野さんのお子さんだからとおっしゃる人もありますが、父親は小遣いをやるというような配慮は一切しておりません。それでも、何となくゆったりしているのは、父親の後立てがあるから、安心感があるんじゃないかしらと思うんです。

       うまいことを言うね(笑)。

      夫人 本当に娘でも質素にしていて、よく働くんです。子供たちの家へ行っても。決して贅沢していません。ときによるとかわいそうになることがあるんですよ。それをまた苦にしていません。嫁にもめぐまれているんです。

       それは生まれつきの性質ですね。

      ――小さいころに勉強を教わったということはないですか。

      和夫 ないですね。

       小学校3年ごろまではそうかも知れませんが、記憶するかぎりでは、教わったことはないですね。

       勉強はおかあさんが見た。私はほとんど見なかった。勉強を見るどころでなくて、むしろ遊ぶ仲間でね。相撲につれて行ったかな。

      夫人 相撲だとか、動物園だとか。そんな所でしょう、昔は。

      和夫 中学ごろまで、映画というものは見なかった。

    • 夫人 ですから子供もやはり、そのような興味も趣味もなかったでしょうね。ですからカチカチの方です。和夫はよく弟や味の世話をしました。幼稚園でも、入園していない自分の弟を同じに坐らせて、いろんな面倒を見ていたらしい。

       それから鵠沼へ行って、庭にトマトや西瓜を作ってそのうちに病気になった。

      夫人 それは主人の厄年でしたよ。

       そうそう42だったな。あの時はつらかった。

       むしろ父とは遊んだ方の記憶が多いですね。たとえば将棋をやったり、海水浴に行ったりね。大山へ登ったの覚えていますか。

       うん、3人で行った。

       小学校の時ですね。

       片瀬で2人を船に乗せていたら、急に嵐が来て、船がゆれはじめた。和夫が杲を抱いて突っぷしている。私は船を漕ぐのに一生懸命で、子供と3人で溺れ死ぬのかと思ったことがある。

      和夫 僕は鵠沼の思い出は少しありますね。西式体操をやらされて、あれが非常に苦痛でしてね。体操をやりながら九々をやらされたんですよ(笑)。あの体操は家じゅうでやったですね。

      夫人 やはりこの2人は訓練も鍛錬もしましたけれど、末の娘は親も年を取って来ましたし、女の子だからと言うんで、あまりやらなかったですね。

       私の兄弟は男ばかりで、お婆さんに育てられた。名前が「小たき」というんだ。その名前をしのぶために、長女が生まれたとき小を取って「たき」とし、仮名ではおかしいんで、多喜子名とづけた。多喜子の記憶はあまりないんだけれども、空襲の時に防空ごうを出たり入ったりして、火を消したっけね。多喜子の結婚については心配はしていたけれども会社も忙しかったし、あまり面倒を見なかった。

      夫人 とっても仕事に打ち込んでいましたから子供のことはあまり細かい所は面倒を見ませんでした。その代わり本は自由にあてがえてもらえたものですから、子供としてはしあわせでした。

       多喜子の結婚式の時は悲しくて、宝を取られるような気になって(笑)、挨拶するときに涙でつまっちゃってね。小さいころよくおぶってやったが、本当に嫁入りさせるのが惜しくてね(笑)。

       一般的に、おやじの仕事もあるし、私たちは学校の関係で離れていましたから、思い出というより、おやじの過去の仕事だとか、おやじの話から伝わる対人関係、そういうようなものを通して批判するということだったんじゃないですか。直接の思い出となると…。

      和夫 やはり家庭生活の思い出は少ないですね。鵠沼の家でやった体操とか、父が縁側でやっていた研究などですね。そういう断片的な記憶があるだけで、連続したものがないんですよ。

      夫人 まったくこの人たちは非常時に育っていますから、それほど父親と一緒に遊びに行ったとか、楽しんだという思い出はないんですね。

       時代の影響が特殊な環境を作ったんですね。何か思い出深いものがあって、それを通しておやじを観察するということはなかった。ただ、ことにふれて、将来子供を自由に好きな方にやらせると言われたことは覚えています。あとは一般的な思い出で、碁はずいぶんやったですね。

      夫人 杲はなかなか強いんです。和夫はお父さんだからと思って、上手に加減して打つんです。杲はしゃにむにケンカして打つ(笑)。

      ――負かしてばかりいたわけですか(笑)

       いやいや、そんなことはないですよ。みんな同じぐらいじゃないですか。

       最近で楽しかったのは、和夫が兵隊から帰ってくる、杲も帰って来て、家の前の防空ごうをこわして畑を作ったりしながら、夕刻になると風呂をわかして入って、ビールを飲みながら碁を打っていたころだったな。

      夫人 碁を打っている間は、本当に仕事を離れて愉快そうでした。

      多喜子 これだけ3人そろうのはめずらしい。

      夫人 いつもすれ違いの連続でね。

      ――戦後の選挙の時には相当活躍なさったとか。

      夫人 多喜子は選挙の時によく働いた(笑)。最後の追い込みに入って、この人がトラックに乗ると言い出して。こんなにうまい話をするんなら、なぜもっと早く出さなかったと言われて。

      多喜子 半分忘れていました。言われて思い出しました。赤面しますわ。

       お父さん、どうしてまた選挙なんかに出たんです(笑)。

      夫人 いまから出た方がいいくらいでしたね。あの時は少し早すぎた。

       いや、なってもいいという気はあったけれども、それほど議員になる気はなかったし、国家のためにという気もなかった。やってみると一生懸命になって(笑)、熱病みたいなものだな。

      夫人 うちの者も、はじめのうちは、お父さんは事業家で、政治家じゃないとみんな反対していた。さて立ってみると、家じゅう夢中になってしまって。

       レクリエーション(笑)。

       あれは思い出としてはよかったよ(笑)。それから外遊して、ニューヨークに行ったら、昨年文化勲章をもらわれた水島さんと湯川秀樹さんに会った。「私にこういう勉強をしない息子が仙台にいるんで、これを放っておいたらどうにも仕様がないので、どうしたらいいでしょう」と相談した(笑)。湯川さんは「こっちへよこしたらいいでしょう」と言われたので、結局湯川さんに頼んで、プリンストン大学へ留学させてもらった。ドイツには和夫が法科でいいから、留学させようとしたら、話が食い違って行かなかった。恩に着せるわけじゃないけど(笑)、おやじとして割合に心配してやっている方じゃないの。そして、プリンストン大学の方から成績表を送って来いというので、浦和へ行ったら、成績表をくってもなかなか出て来ない。ビリの方から出て来て、見たらCとかDばかり(笑)。CをBに、DをCに書きかえて教務主任に出したらバレちゃってね(笑)。そんなことがあったよ。

      夫人 杲はやれば出来たんです。

       そうそう、中学のときに1年だけがんばってトップを取って、「お母さん、これでボクの実力がわかったろう」と言って(笑)。

      夫人 ラジオにこり出してしまってね(笑)。

    • ――いままでの思い出の中から、お父さんの良い点、悪い点をひとつ。

       男を判断するのは仕事でしょう。その点尊敬しますね。非常に仕事をしたということが良いのか悪いのか。また人間として仕事をするのがいいのか、人間が社会の機構の中に入って、全体としての能率が上がった方がいいのかですね。どうしても後者を取りたくなりますし、判断がむずかしいですね。僕は、おやじが物質を通して、いわゆる立身出世ということを考えて努力して来た。それがあまりにも人生の大部分を占めすぎているという批判的な意識が、小さい時からあった。逆に、物質的なものを狙わないで、精神的なものを狙って行きたいという意志が出て来たですね。ですから私は、個人的には収入の低い仕事をやっていますけど、物質に対する欲望は現在ほとんどないですね。その代わり精神的な満足には強い欲望を持っています。おやじの性格の反映というか反動というか、そういうものが、息子の時代になって現われたような気がします。だからと言って、おやじがやって来たことを積極的に批判するとか、あるいは反対するということはない。それはそれで一つの人生なんで、自分がそれをまたくり返す気にはなれない。もう少し違った面が、人生にはあるんじゃないか。それはおそらく中学を卒業するころから、そう思っていました。

       私は中年以後に仕事に結びついた。その動機は失業したからだね。そこでたまたまタイムレコーダーというものを考えて、やりはじめた。そのときは別に金をもうけようという気はなかった。それによって生活の糧にしようとした。それが運よくだんだん良くなった。良くなればますます良くしたいというのは、だれでも思うことなんだ。そうすれば、大部分が物質に結びつくことになる。私は若いころから仏教も研究したしキリスト教にも入った。若いころから苦労もしているし、経営の中にそれを生かしている。
      しかし、事業する者が物質を追っていくと悪いという反動が出るのは、それが良くないからであって、おやじのやっている事業は、たしかに世の中のためになっているんだということに教育されていれば、自分もそのあとをやろうという気分になると思う。子供は自由に自分の生涯を追って行けということをくり返して言っているから、そういう意見になったと思うが、自分は職業を選ぶなら精神的な方を選ぶというなら、それでよい。

       私の言っているのは、1日24時間のうち睡眠時間をのぞいて、大部分の時間を事業や人事の問題を考えている、そういう人を目の前に見ているから、自分は何を考えるべきか、世の中の真理とは何かということを追求するのについやすのも、一つの人生だということが基本にあるわけです。おやじのやっていることは間違いというのではなく、これは一つのやり方で、これで非常に愉快にやって行ける人もあります。そうでない行き方もありうるんじゃないかという気持を子供のころから持っていた。たまたま私自身の性格が、その方に向いていたんでしょうね。

       初代は非常に苦労するが、二代目は杲のような考えがあると思う。初代はとにかく基礎のない所から築き上げたから、24時間を48時間にも活動しないと大きくならない。それが二代目になると、杲のような考え方をするようになると思う。

      和夫 それは職業によっても違うでしょう。私の場合は、本職をやるのが一番楽しいですよ。抵抗がないですから。しかしサラリーマンとなると、仕事が楽しみにならない。職業によって千差万別だと思うんですよ。

      夫人 なかなか「父を語る」でなくなってしまって、「父が語る」になってしまいました(笑)。

      ――お父さんの影響をうけたことはございませんか。

       さっきも言ったように、おやじは半面の生活をして来た。自分はそのもう一つの半面の生活をしてみたい。それもどちらがいいという価値判断ではないのですが、その意味で、それが自分の性格に反映して行くということが、非常な形響をうけていますね。

      多喜子 知らず知らずのうちに、父の影響をうけているというようなことが、ちょくちょくありますね。倹約することとか。

      和夫 多喜子は、家に長くいたからでしょうね。

      夫人 子供たちは割合幸福に暮しているんです。主人が若くても生活力がありましたからでしょうね。本当に主人のような苦労をして育っていませんから、そこにすでに人生観が違って来ているんです。しかし、血は争えないもので、主人の強い性格が3人に入っています。

      和夫 それはそうですね。おやじは頑固だと思いますが、自分も頑固だと思いますよ(笑)。

      夫人 3人とも強うござんすよ。それがまた孫に行っているんですからね(笑)。

       強いというのは、人を押しのけるというように感知される。強いということでなくて、筋道を通すことだよ。

      夫人 学校で先生から、どの子も正義感が強いと言われました。多喜子でも、先生がエコひいきをすると、突っ込んで行ったりしたらしいんです(笑)。ですから、父のいい面もうけついでいるんです。

       ”も”というと、どういうわけなんだ(笑)

      ――最後に、お父さんに望むことをお聞かせ下さい。

      和夫 とくに希望はないですが、いままで仕事は自分の全力をあげてやって来ているわけですし、仕事もそれなりに、りっぱに形が整っているわけですから、自分の親として考えると、多少ゆっくりしてほしいということですね。あんまり仕事の方にばかり集中しないで、人間の生活をエンジョイするといいますか、その辺のことですね。事業や家庭については、これからこうしてほしいということはありませんね。

       僕は、もう何もしないことを望みます。何もしないと言っても、おやじのことですから、何かするんです。その程度のことで(笑)。

      多喜子 いつまでも元気で生きていて下さいと、それだけです。

      夫人 私も仕事としては、これで順調に登って行きましたから、心にゆとりのある晩年をすごしてもらいたいと思います。

    • 天野社長の横顔
      天野社長の横顔
      天野社長の横顔
      涙もろさ

       昭和36年3月1日のことである。天野社長は、前年の暮から体調が思わしくなく。1月、2月と病床にあったが、ようやく病もいえて出社して来た。そして毎月1日は全員を集めての朝礼があるので、病気見舞への感謝の気持をのべようとして壇上に立った。

       壇上に立った社長は、一場に集まった従業員全員をグルリと見渡したが、肝心のことばが胸につかえて出て来ない。

       「みなさんの元気な顔を見てうれしい…」で絶句してしまった。メガネの奥には、キラリと光るものが見えた。

       この社長の姿を見て、ワンマン社長として恐れをなしていた従業員もビックリしてしまった。会場にはシーンとした空気が流れたが、これで社長に対する親近感が一度に盛り上がって来た。

      食べ方

       天野社長の一番の好物は、夫人の作った弁当である。ノロケでなくまじめに、「老妻の作ったものが一番うまい」と言っている。夫人は「外でうまいものを食べているから、私のものがことさらうまく感じるのではないかしら」とおっしゃっているが、外ではとくにきめて食べる所はなく、たいてい行き当たりバッタリに入る。

       食べるのは、スシ、ソバ、洋食など多彩だが、イワシの目ざし、大根の葉の漬物など郷里で小さいころ食べたものが非常にうまく感じられるという。ただ。ウズラ豆だけは、中学時代の4年間朝昼晩下宿で食べさせられただけに、好物とは見受けられない。

       また食べるのに、これほど時間をかけてうまそうに、そしてたのしそうに食べる人もいないだろう。ごはんの一粒一粒を実にかみしめるように食べる。まるで、その日の食事が天から与えられたものであるように。

      ハッパ

       ふだんは人の言うことをよく聞き、またそれ以上に意見ものべる天野社長だが、一朝ことあるときに示すきびしい態度、スピーディーな動作は、やはり長い間経営の第一線にたずさわっていた者の年輪を感じさせることが多い。

       製品の完成が1ヵ月も先だなどと言うと、ときには、あと1週間しかない、今月の末に完成させろということもしばしば。1週間あればできないことはないというのが持論らしいが、部下にハッパをかける気合も堂に入ったものだ。

       気がついてみると、社長のペースに乗せられて、いつの間にか仕事をしていたということもある。あり余る書類を片っ端から目を通し、「目が2つあるから、2行ずつ読める」と言って、かなりの速度で読み、チェックし気づいた点をかたわらの封筒の裏を使ったメモに書き込む。これが、社長としての職務をはたす天野修一の姿である。

      大久保彦左衛門

       天野社長は、県や市のお役人から「大久保彦左衛門」というアダ名を奉られている。

       曲がったことがきらいで、相手がたとえ役人であろうとも、正しくないことは正しくないとハッキリ言うことが、このアダ名の由来であろうが、こんなところがいかにも天野修一の人間像を浮き彫りにしているようで面白い。

       たしかに、県や市の部屋へ入って行くと、「天野が来た」というので、みんな一斉に振り向いて、部屋の中に緊張の色がみなぎる。また会合のときなども、必ず意見を最初に求められる人物でもある。ウルサイことを言うわりに、また口に毒があるわりに、ハラに何もない点、このアダ名がピッタリだが、彦左衛門の相手役である一心太助の出現はまだ聞かない。一心太助は、はたしてだれであろうか。

    • 叱声

       つねづね天野社長は、「ワシは会社の若い人と話をするのが非常にたのしいんだ。しかし話しかけられる方としては、年も大分違う年寄りの話では退屈するだろう」とさびしそうだ。座談会や懇談会で接する従業員は、社長の人間的な面に、認識を新たにさせられることが多い。

       「ワシは君たちを叱るんじゃなくて、教えて上げているんだよ」という社長のことばも往々にしてそのまま受け取られないが、社内には社長の叱声を浴びない者はないくらいだ。それでもあの声を聞かないとさびしいというファンが、比較的古い社員の方に多い。

       しかし、筋道を立てて社長の意見に反パクすると、それ以上のカミナリが落ちる場合もあるが、「わかった」と言ってくれることも多い。こうなればしめたもので、あとの仕事のやりやすさ。だから、一度はこの叱声のカベを越えないと、本当の仕事はできないという見方もある。

      日本語が一番いい

       天野社長が昭和26年にCIOS(国際科学的経営会議)に列席した際、ベルギーで保健所を見学したことがあった。その時の一行は、世界各国から約80名ほどであったが、一行を代表して「最も遠い国から来た人」としてあいさつすることを要請された。

       はじめフランス語であいさつの言葉をのべたが、みんながキョトンとしているので、つづいて今度は日本語であいさつしたところ、今度は拍手がまき起こったとのことであった。

       それから2年のちに、ふたたびCIOSの会議でローマへ行った時のこと、ローマ市長の主催でパーティーが開かれ列席した。すると、またもやあいさつの指名が来た。そこで今度ははじめから日本語であいさつの言葉をのべたところ、意味がわかったのかどうか、大変な拍手が起きた。

       この経験から天野社長いわく「やはり日本語が一番いい」。

      愛読書

       天野社長の愛読書は、吉川英治作の『新書太閤記』と『宮本武蔵』。いずれも、平凡な生まれと人間から、日々努力を重ねて、名をなした点に強い共鳴を感ずるからであろう。

       とくに宮本武蔵の言ったことば「吾当事不為後悔」を好んでいる。会社経営という大切な仕事、毎日の生活態度に、こういうことを言える心境になることを希望している。

       72歳になる今日でも、時々泊まる会社の寮の一室の灯は、夜遅くまで消えない。蛍光スタンドの灯の下で、経営書を読み、会社の書類に目を通し、さらにはいろいろなアイデアをかたわらのメモに書きつける。

       70歳をすぎても(天野社長は40代を自称しているが)、おとろえを見せぬ明せきな頭脳と行動力は、若いころからの人知れぬ努力のたまものであるのかも知れない。

       とにかく豊臣秀吉と宮本武蔵に惹かれる天野社長。その取り合わせには、たしかに共通した点がある。

      外国人と話する時

       天野社長は、外人と会って話をする機会が多いが、そんな時はきまって坐って話をすることにしている。これに対する天野社長の意見は、「日本人はどうしても外国人とくらべると背が低い。だから立って話をすると、背丈に影響されて話の内容にどんな引け目を感ずるかわからない。しかし、坐れば、日本人は足が短いだけだから、そんなに高さは変わらないから対等に話ができる」ということである。

       天野社長が外国語で話すことができ、しかも相手の言葉がわかるのは英語とフランス語だ。しかしアメリカ人やイギリス人と話をする時はフランス語で、フランス語をしゃべる相手には英語で話す。

       理由は簡単である。「アメリカ人のフランス語とワシのフランス語は同じくらいのカだ。またフランス人の英語とワシの英語も同じくらいの力だ」。

    • you are strong

       天野特殊機械は、アメリカにある世界的に有名なスプレイガン・メーカーであるデビルビス社の製品を販売しているが、この社とは昭和26年に天野社長が欧米を視察した時に契約を結んだ。しかしデビルビスは、天野特殊機械を日本総代理店としてなかなか認めなかった。

       たまたま、本年3月にこのことについて同社のセールス・マネージャーをしている副社長が来日した時に、天野社長が種々交渉に当たった。先方では、ぜひ貴社の工場を見たいと言って来たが、先年当社の販売部長と生産部長が渡米した時に同社を見せなかったのを知っていた天野社長は、「あなたの見るべきことは、当社のセールス・パワーであって、作る力ではない」と言ってガンとはねつけた。

       そして、総代理店にするよう予備交渉を行なっている間にも変わらぬ天野社長の合理的な強気の態度に、デビルビス社も、再検討することを約束して帰国したが、帰りしなに彼はコブシをにぎってみせて、“you are strong”と言った。

      ゴルフ亡国論

       「あんなに広い場所を、しかもかぎられた人達が金とヒマをついやして、わがもの顔で使うのはよくない。ああいう場所は、耕やして作物でも植えた方がいい」というのが持論である。

       経営者ともなれば、ゴルフの誘いをうけたり、話を聞いたりする場合が多いが、そのたびにきまって相手に言うのが、この持論だ。「ゴルフはタメにならない。こんなことが盛んになれば、しまいに国中ゴルフ場になってしまう」と主張する。

       だから、ゴルフのクラブに手をふれたこともなければ、ゴルフ場に行ったこともない。天野社長の前では、ゴルフの話は禁物。「第一、あんな小さな女の子に重いバッグを持たせていい気になって楽しんでいるとは…」までくると、天野修一の面目が躍如としているようだ。

      見学には手続き

       世界有数の電機メーカーGE社の副社長が昭和36年夏当社を訪れた。彼は原子力関係の会議で来日したのだが、とくに日本の中小企業の実体を見たいという希望があり、これを聞いたある日本人が、たまたま当社を知っていたので、すぐにつれて来た。

       彼とすれば、工場内部を見たかったが、社長は彼に会って話を聞くと「アメリカでは工場を見せろということは自分の財布の中身を見せろということと同じであろう。もしあなたが本当に工場を見たいなら、しかるべき筋を通すなり、あらかじめ見学個所や日時を指定してからくるべきであろう」と言ってはねつけた。

       GEの副社長は、この話を聞いてあっさり了解した。とかく日本人は簡単に工場の中を見せてしまうが、やはり見せる以上、こちらとしては、先方の希望をあらかじめ聞いておいて、できるかぎり先方の便宜をはかるのが本当の礼儀であって、何もわからないままに見学をOKしてしまうのはよくないことだというのが社長の考え方である。

      仕事の握り方

       つねづね社長は、宮本武蔵を例にひいて、仕事の握り方についてこう言っている。

       剣を握る時、その握り方は強すぎてはいけない、つねにやわらかく握らなければならないと、武蔵はその心得をのべているが、これは仕事の場合でも同じことだと思う。仕事を強く握れば、仕事にふり回されてしまうこともあるが、仕事をやわらかく握り、時に応じて強く握って打ち込み、またもとのやわらかさにもどる、この心構えが仕事の上にぜひ必要なことであろうと思う。すなわち臨機応変というやつだ。

       このことは、つねに自分のペースで仕事をするということに通ずる。仕事にふり回されず、かえって仕事の方をふり回す、自分の思う通りにやる、これが仕事を行なう極意だ。仕事を強からず弱からず把握する。そして時に応じて強くも握れば弱くも握る、これが仕事のコツだ。

    • 第11章 これからは

      何度か生命の危機に

       長い間をいろいろ回顧してみると、その間に生命の危機にひんしたことが何度かあった。18歳の時に、先輩を頼って呉工廠へ実習に行っていた際、その先輩の家に職工が刃物を持って文句を言いに来たことがあった。私はちょうどその家に厄介になっていたので、つき出された刃物をにぎってしまった。その傷あとがいまも左手についているが、危ない所で刺されずに、かえって2階から路上へ投げ飛ばした。

       またそのあと三井三池の鉱山へ石炭掘りに行って脚気にかかり、重態になった。やっとのことで私は故郷に帰り、2ヵ月くらい安静にしていて、その間お炙をすえたりして治療に専念した。

       それから、中学から高工へ進んだ間の発育盛りに、家計の無理を押して進学し、同級生について行くために勉強もしたので、体の方はそう頑健ではなかった。海軍に入ってからも、しばしばカゼをひいたり、胃を悪くしたりした。月に3日や4日、時によっては1週間も休むということがつねにあった。それが、アメリカに行き、フランスへ行って日本に帰ってくると、ケロッと治ってしまった。それからは、きわめて頑健になった。

       海軍時代にも、戦艦「比叡」の艤装に従事していた時に、私は最上甲板で鋲打ちをやっていた。その時に、何のはずみか足がすべって落ちたことがあった。二つデッキをくぐって、三つ目の足場で、ようやく肘をはって助かったことがあった。もし両肘をこの時につかなかったら一番下まで落ちてつぶされていたのではないかと思う。

       また「筑波」という軍艦が、横須賀港内で突然爆沈したことがあった。この時も、私の離れるのがもう5分も遅かったら、艦もろとも爆沈の被害をこうむっていたのではないかと思う。また大西洋の真中で、あわや決闘におよぼうとした時も、生命の危険にさらされていたに違いなかった。

       また昭和29年9月、老妻と北海道へ旅行した帰りに、函館の代理店の人が接待してくれたのを振り切って、一本前の青函連絡船に乗ったために、洞爺丸沈没の危難をまぬがれることができた。

       これらをふり返ってみると、だれにもそういう経験があるかも知れないが、何だか自分だけ妙に危害からまぬがれる幸運があるような気がする。

      事業場の危機も

       生命の危機もあった代わりに、事業の危機もまた何度かあった。それをくぐり抜けて今日にいたったが、私もここぞと思うことが何度かあった。それをどうしてのがれたのか。

       一番はじめは、雷道計を試作研究していたころのことである。そのころ資本金が2万円足らずの時に、5万円もついやした。これがうまく行かなければ会社が立ち行かなかったろう。これを私以下、みんなが寝食を忘れて努力した結果、この危機をくぐり抜けることができた。

       また戦時中に深度機を作った時も、本社では熟練工を100人ほど使っても能率が上がらなかったのを、女学生の学徒動員に作業分析した上で作らせ、成功をおさめた。が、これはむしろ製品に対する危機と言えよう。

       そして、戦後、税務署から会社に200万円近い査定があり、私はこれに対して再審査を要求して、ねばりにねばったあげく、2年かかって3円の査定にした。これは、私のねばり強さが克服したものだが、そのころの会社は、200万円も払える金がなく、不当な査定ではあったが、これもうまく潜り抜けることができた。

       そのころ、社内に労働組合が出来た。悪い時には悪いことがつづくものだが、杉山専務は、「仕様がない」と言っていた。しかし私は、この危急存亡の時に、お互いの主張ばかりのべて要求ばかりしていては会社は存続して行かないと思い、従業員全員の前で話した。すると、みんな恐ろしい顔をしてにらんでいたが、私は会社の現状を話して協力を求め、それをうまく解決した。

       ついで国鉄に納入したタイムレコーダー、これも一つの危機であった。また会社を再建するためにどうしても必要な金を、富士銀行で貸してくれなかったのも危機であった。これを東京銀行に頼んで金を作り、会社を再建することができた。

       同じころ、会社では給料の遅配がつづいていて、従業員の士気も上がらなかった。そこで私は、会社の空気を改め、体質改善をすることを考え、その一歩として給与システムを改善した。それまでは、家族手当や住宅手当などを支給していたが、これらを本給にくり入れて本給一本ヤリとした。ついで、そのころ2時間残業をするのがふつうであったが、残業を止めることを提案して、その2時間分を本給にくり入れた。はじめの間はその試みも成功していたが、だんだん残業したいという申し出があった。しかしそれも、賞与を渡す時に、残業をやらなければならないなら、管理が悪いと言って、申し出のあった管理者の支給を減らしたら、ピタッと止んでしまった。

    • 勉学と仕事の2本立て

       私は、いま自分のこれまでの人生をふり返ってみると、ほとんど勉学と仕事の2本立てですごして来た。音楽とか美術とかの趣味を身につける余裕もなかったから、老年の今となってはそれらに関心はあっても鑑賞眼は全然ない。

       アメリカやヨーロッパへ何度か行っても、向うでは音楽を聞かせ、絵画を見せることがご馳走であるのに、これに対して、私は一向に興味を感じない。いい絵を見ればいいと思うし、いい音楽を聞けばいいと思うだけで、はたしてどこがいいかということは、はっきりわからない。

       私としては、非常に残念に思っているが、もはや手遅れとなってしまった。

       これらのものは、いまではひとつも私の余暇をなぐさめてはくれない。たまに余暇があれば睡眠を取っているか、仕事のことを考えているかである。私の日曜日は、たいてい家にいて、ゴロ寝するか、良い番組のテレビを見ているかである。私は宴会とかその他を極端にきらって、経営者としてはそういうものに出て時間と体力を消耗するよりも、会社の将来に思いをいたすべきであると考えている。

      私が今日あるのは

       このように考えて来て、私は自分をここまで導いてくれたものは何か、また企業をここまでにしてくれたものは何かについて考えた。まず私が社会人として今日あるのは何のお蔭か思い起してみよう。

       私が最も影響をうけた人と言えば、わずか私の22年間にすぎなかったが、祖母をあげることができる。祖母がいかに慈愛深かったかはさきに紹介したが、私も少年、いや幼年時代から、先祖の墓参りに毎日つれて行かれるたびに、人にめぐむ“喜び”を植えつけられた。私は、自分の周囲の人々、家族をはじめ会社の従業員その他もろもろの関係者が本当にしあわせな生活をしてくれるように祈りの気持でいっぱいである。

       また、中学のはじめのころ、往復48キロの道を通学するのに1つのオムスビを残すように言われ、しばしばその言いつけを破ったが、その精神が、いつも私の気持の中に残っている。私は思い切って事に当たることもあるが、石橋を叩いても渡らないほどの用心深さがあるのは、それが最も私に残っているからであろう。

       そして私の父は、5円の汽車質をかけて3円50銭の貯金を取りにくるほどきびしかった。私はこの行為で、貯蓄の尊さを身にしみて知らされたし、足りない場合にはアバルイトをして、それをおぎなった。

       さらにキリスト教青年会に入っていたおかげで、大阪で高工時代の3年間をすごしながら、いろいろな誘惑に打ち勝つことができ、さらには勉強に集中することもできた。あの当時の私は、一歩間違えば、どこまで曲がって行ったかと思うと、いまは無宗教で、その当時もあまり信仰は深くなかったが、やはりどこかにキリスト教の良い面が残っていたのであろうと思う。

       一方の私は非常に生意気であったと思う。とくに中学、高工にかけて、人より年若くして入学したから、ふつうで行けば体も小さく、学力も劣っていたであろう。それを何とか人に遅れまいと頑張ったので、いろいろな人と衝突もした。しかし私は、つねに勇気(見方によって蛮勇かも知れない)と正義心とを忘れなかったと信ずる。中学時代、せっかく学資の援助をしてくれるという小菅氏に余計なことを言って、先生の仲介をオジャンにしてしまったり、校長の息子をなぐったりしたことはこれに属するであろう。また中学入学早々のストライキには、私ともう1人だけで通学したのも、誇らしい思い出となっている。

       その反面、私は馬鹿正直であったと思う。戦後いろいろの教育者に苦しめられたり、横浜の土地を買収する時に失敗して、変な形に土地を買ってしまったり、フランスから帰国した時に同僚からだまされたりしたのは、そのいい例である。

       しかし私は、これまでのいろいろなことについて良いことも悪いこともあったが、弁明はしない。ただ率直に書き記して、大方の参考になれば幸いと思うだけである。

    • 企業人として

       また企業人として、まずまず今日あるのは、何のためであろうか。それを分析してみよう。

       私は自分ながら非常なこり性であると思う。別の言葉で言えば気が短いのであろうか。とにかく結果が出るまでは、徹夜してでもやり抜いて来た。とくにタイムレコーダーをわが国ではじめて企業化した時、あるいは雷道計の試作品完成に力をつくした時など、いずれもほとんど昼夜兼行でやって来た。これと思うことはトコトンまでやらないと気がすまないという損な性質も持っている。

       そしてまた、企業では数字をとくに重んずべきであるとも思っている。企業の損益計算を重視するのはもちろんのことであるが、そこまでにいたる頭の回転の遅速をも問題にすべきであると考える。私もこれらの点については、まずもうける仕事よりも、損をしない仕事を心がけて来た。いつも、従業員に十分な給料を払い、株主に適正な配当を出し、さらに会社が今後発展して行ける程度のそなえができれば、それほどもうけはいらないと思う。このむさぼらないということは、大変むずかしいことであって、企業の失敗者を見ると、むさぼりすぎて足駄をはいて、その上に背のびまでして、失敗した割合は非常に多い。

       それから経営者の頭は、必要のない時には昼あんどんと言われても、一朝事ある時には、人並み以上な回転を示さなければならないと思う。その意味で、昭和25年に日本事務器と競った国鉄へのタイムレコーダー入札は、私の最も快よい事の一つである。

       もちろん、これらの事柄を実現できたのは、私1人だけの力ではない。実にたくさんの人の力を借りてここまでやって来た。私としても、私を中心に、みんなが喜んで協力してくれたことを非常に感謝している。

      最後のむすびに

       私は昭和37年5月30日から同年6月30日まで30日間というごく短い期間ではあったが、アメリカを旅行してみて、非常に得るところがあった。アメリカには都合4回行っているが、そのたびに新たな視野を私に与えてくれた。

       今回の最大の収穫は、30数年この方作って来たタイムレコーダーやタイムスタンプが、アメリカ各社の製品とくらべてみて、何ら劣ることがないばかりか、かえってわが社のすぐれた技術をもってすれば、アメリカ市場の50%は抑えられることの自信を持った。

       もちろん、わが社の技術は、何と言っても日本向きになっており、簡単なたとえで言うならば、ハシで食事をとるように出来ている。しかしこれをアメリカに持って行った場合、ハシのままでは、50%も抑えるほどに浸透しない。これをナイフとフォークで食事をとれるように改めて行けば、すなわちアメリカの習慣、風俗に合わせたものに改良して行けば、大いに浸透できるとの見通しを得た。

       50%を抑えられるまでには、種々の難関があり、到達する道も容易ではないが、私のこれまでの経験と努力、従業員の十分な協力を集中すれば、近い将来それが可能となると思う。

       思えば、私の事業も、私1人の研究からはじまって段々にその活動範囲を広げて来た。いまやアメリカ国内2億の人口を相手とする仕事がまさにはじまろうとしている。私としても、このことを思う時、そぞろ胸の踊るのを禁じえない。

       また今回のアメリカ旅行から2日の日程をさいて、いまはフロリダ州ジャクソンビルで、地方農務園芸相談所長(政府機関)をしているジェームス・ワトソン氏――かつて当社へ武器を押収に来た時、私が領収書を要求して1枚のワラ半紙を出すと、彼はそれを指で2つに切り、1枚を私に返してもう1枚に領収書を書いた――に17年ぶりに会うことができたのも、また快よい収穫であった。私のこの訪問は、ほとんど全市民の歓迎をうけ、テレビ・新聞などで大きく報道もされた。私は彼のあの時の行為に打たれて、その領収書と私の感想とを書いて社内にかかげている。

       このアメリカ旅行で、私の前にもう一つの新しい仕事の分野が出来た。すなわち、いかにわが社の製品を多く輸出できるかどうかである。国内市場を確保することはもとより、手はじめにアメリカ市場を国内と同様、その70%を占めたいと考えている。それが達成されるのはこれから5年はかかるであろうし、アメリカのつぎに考えているEEC諸国や共産圏の国々への進出を考えると、さらに5年あるいはそれ以上になるかも知れない。こういう広範囲な仕事に、自分の全生命を打ち込むことになる。私はおそらく、死ぬまで自分の仕事、事業の経営に一身をぶつけるものと思う。それが幸福かどうかは読者の判断にまかせるとして、ただこのことに全生命をつぎ込んでぶつかって行くだけ、というのがいつわらざる現在の心境である。

    • “天野特殊機械社内新聞”より抜粋
      “天野特殊機械社内新聞”より抜粋
      No.1 大久保彦左衛門

       人は私を大久保彦左衛門という。私は大久保彦左衛門という人はどういう人であったか知らないが、庶民的であって、幕府の権勢者に好かれなかった、徳川幕府初期に存在した武士であったらしいということぐらいは承知している。

       そうとすれば、私が庶民的であるかどうかは知らないが、市、県はもちろんその他の官庁に行っても、粗略に取り扱われない代わり、あまり好感ももたれないようである。いろいろの会合でも上席にすえられるが、けむたがられるようである。これは商人としては良いことではないと、ときには反省することもあるが、ときどきズバズバ言うことが悪いらしい。

       人生100年として、人間の働き甲斐のある期間を20歳から80歳までに拡げても60年で、実際に役に立つのはその1/3で、20年ぐらいであるとすれば、そう悠長にしてはいられない。ふたたび人間に生まれて来られるかどうか判らないから、生あるうちに、少しでも人々のためになる働きをし、また、この世を享楽するためにはそう人さまのご機嫌をとってはいられない。私の“屑かご”を当分この紙面で整理してみよう。

      No.2 普段の研究

       政治は専門家でなければ出来ないか――21年4月6日NHKで放送の要点――

       私は去る3月27日夜、芦田均さんが、自由党をのぞいては大臣になった経験のある人がないから、内閣を取ってもうまく行かない、ということを放送されたのを聞きました。

       そこで、私はこの芦田さんのお話が真か偽かを考えてみました。

       戦争のことは軍人に任せておけと言った東条英樹さん。飛行機のことは我輩に任せよと言った遠藤中将を思い出しました。尾張の貧農の家に生まれて、青年期までウロチョロした豊臣秀吉は戦争専門家の徳川、毛利、島津を降して天下を平定した。外国でもフランスの英雄ナポレオンは砲兵中尉にすぎず、スターリン、ヒトラーを並べてみても、これという専門家は見当たりません。

       そこで、私は“自分は専門家である”と考えるくらい危ないことはない。何事も“研究”と“経験”とが、ことを成しとげるのであると公言して間違いないと思う。明治維新の中心人物の伊藤博文、木戸孝允、山県有朋の諸氏のことを読めば、私のこの考えが正しいことが判ってもらえましょう。私は西郷南洲のいった、名誉もいらん、金もいらん、命もいらん者ほど強いものはない、ということを思い出しました。そして、こういう人が敗戦日本を立ち上がらせるバックボーンとなるのでしょう。

      No.3 労働組合の幹部に与う

       労働組合の幹部に与う――22年1月NHKで放送の要点――

       長い間、圧迫された言論が、急に自由になった諸君の喜びには共鳴する。しかし、このために無軌道な行動をして、一般人に迷惑をかけてもよいということはない。

       昨年来、次から次へと絶え間なく起こっている労働攻勢、すなわち電産スト、新聞報道スト、炭鉱スト等々、ことに交通機関のストにいたっては同じ勤労者に大きな迷惑をかけている。

       敗戦は自分らの責任ではない。官僚と資本家との責任である。いまや天下は労働者、いな組合幹部のものであると大呼し、マッカーサー司令部から与えられた自由をみずから勝ちとったように振るまい、組合に加入出来ない大多数の貧困者、浮浪者、零細企業の従業員のことを考えずに独走しつつある現状が、のちに労働運動に禍となりはしないか。

       長い間恩顧をうけた人々を反動と呼び、先輩を極悪人のように叫ぶ諸君のきょうこのごろの言動を、静かに反省することを切望する。

       わが国は役人を尊敬し、労働者をいやしむ悪い習慣がある。しかし、その罪は労働者側に全然ないとは言いきれない。役人の素質の低下した今日でも、なお労働者より上であるように思われる。労働者の人としての成長を諸君は考えるべきではないか。

       組合の幹部諸君よ、職なく、しかも衣食住の難儀に追いつめられている幾多の同胞、海外引揚者、困窮せる遺家族等は誰に向ってストライキをすればよいのか。

    • No.4 欧米人の考え方(1)

       私は、26年春CIOS(国際科学的経営会議)に出席した。一行のうちに、わが国大工業の役員で知名の経済学者がいた。私は、スイスの有名なシップを訪問するから、何なら同行しないかと勧誘したが、彼は日本語のわかるドイツ人を通訳としてつれて行くから、と言って私の同行をこばんだ。

       私が、その会社に行くと偶然にも、彼は通訳同伴で応接室に先着していた。ちょうどその時に会社の営業部員が応接室に現われて、私だけは工場に案内するが、彼にはカタログをやるから、それを持って帰ってくれと言って、工場を見せることを拒否した。その理由は、私は技術者であるから仕事を見てもわかるが、彼は経済学者であるから、仕事を見てもわからない。わからない人を案内することは無駄であるということであった。

       彼は日本の有名な会社に30年もいるから、技術のことは十分にわかると言って、工場視察を強要したところ、いかに長くいても、生粋の技術者と経済人とは見る勘どころが違う。そのうえ通訳をつれてくるような人には熱意がないと言って、ついに彼を応接室から帰した。

       28年冬に私は、ふたたびCIOSの会議でイタリアに行った時、ドイツのシュツットガルト市にボッシュ工場を訪ねた。応接室に、わが国で有名な電機会社の専務がいた。この会社は、彼には展示室だけをみせ、工場に入ることをこばんでいるから、いま工場を見ることを交波中との話である。私からも彼の工場参観を懇望したが、私にだけくまなく工場を案内し、彼には許可しなかった。理由は彼の訪問理由が不明確であるということだった。

       私の学友の紹介で、わが国1、2を争う電気メーカーの重役が、先年私に面会を求めた。彼は、生産性本部から米国に派遣されるのであったが、米国からぜひドイツに行きたい。それはシーメンシュッケルトの工場を参観したいためである。しかるにどこに行っても紹介状を得られないという。たまたま彼は私の学友にその話をしたところ、友人はもしかしたら私が役に立つかも知れないと言ったので、最後の手段として私を訪問したのであった。私はシーメンシュッケルトの副社長を知っているから、一度諾否をたずねてみようと返事をした。

       彼は、彼が日本の有名な電機会社の最高幹部であると知ると許可をしぶるだろうからと言ったが、私はありのまま、しかじかの会社の最高電機技術者であるが、貴工場を参観させてもらいたい旨を率直にしたためて、航空便を出した。ところが折り返して、喜んで参観させる旨の返事が来た。彼が帰国した話によれば、いずれの会社にも秘密にしている研究工場までも、くわしく見せてくれ大変に歓待してくれたということであった。

      No.5 欧米人の考え方(2)

       昭和26年4月、私が北欧スエーデンに行ったときは、春の最中で市内、公園いたるところ百花らんまん誠に美しい風景であった。

       コペンハーゲンの日本在外事務所を訪れたところ、ちょうど国際スケート選手の競技があるから見ないかということで、これを参観し競技場から出た時に、1人のスエーデン人が私にお茶を飲まないかと誘った。

       彼は、私を立派な料亭に案内して、大変なもてなしをした。夜も大分ふけたから辞去しようとしたところ彼いわく、まだ明日まで2時間ある、今日一杯話をしようではないかということになり、とうとうホテルにたどりついたのは夜12時すぎになった。大変なごちそうで、一体どれほどかかったのかと考えたが見当がつかない。そこで彼が支払いをするときに、女中にやるチップを見たら、なんと日本金にして1万円ぐらいである。しからばこのごちそうは18万から20万円ぐらいはかかったと想像される(計算のうち1割はサービス料としてあるから、その5分ぐらいをチップにするのが常識である)。

       翌日私は在外事務所を訪れて、初対面の外国人にかくかくのごちそうをうけたが、返礼はどうしたらよいかとたずねた。事務所長は最後に彼にサンキューと言ったかと聞くから、もちろん言って別れたと答えたところ、別に返礼はいらない。数日前に日本を出発した私から日本のナマの話を聞いたことは、彼としては非常な利益で、20万や30万では買えないホットニュースであるとのことで、私はなるほど彼らの商売意識は大したものであると感服した。

       私が27歳のときといえば、40年以上も昔のことであるが、海軍からアメリカ合衆国に派遣され、ニューヨークに着いて下宿を探した時に、排日米人を親日にしたこともあるが、彼らは物事をいかにも合理的に考える習慣がある。

       昭和26年に渡欧した時に、30数年前に下宿したパリ郊外の家を訪れたが、その家族は引越して終日探したが、遠い昔のことで、地理も忘れついに訪れることが出来なかった。その翌日、私はパリ市で開かれた欧州の機械展示会を見に行った。その時にクリ・ダンという特殊施盤メーカーの社長に会ったので、その話をしたところ、その日彼も一緒になって、私の昔の下宿の引越し先を探してくれ、ついに見つけた。

       その社長は私の昔話を聞いて大変に喜び、彼の特許の特殊旋盤の販売権を私に託したいといったが、私はその方の専門ではないからと言って、わが国の専門メーカー数社の名前を教えて別れた。彼はその翌年私の指名したうちの一つの津上製作所と提携した。津上の社長は、昔から知り合いの間柄であるのに、彼からは何の挨拶もないが、クリ・ダンの社長からは丁重な礼状が来た。

      No.6 欧米人の考え方(3)

       26年春、ニューヨークに行った時に、地下鉄を待つ間に構内で喫煙した。ところが1米人が私のそばにツカツカ来て、ここで煙草を吸ってはいけないと注意してくれた。私はサンキューといって煙草を消した。日本では電車の中で煙草を吸う人を見うけるがだれも注意しない。私も面倒くさいから横を向いている。

       26年にドイツに行った時の話…ある会社に昼の休憩時刻についた。多数の従業員が日光浴をしていた。彼らは私をみて、珍しそうに寄って来た。英語のわかる人はいないかと言ったら、インテリらしい人が2~3人来た。私が彼らにその階級をたずねたところ、彼らは別に役付ではないが組合のリーダーだと言った。「君らはそんなに働いても利益は資本家が持って行くから馬鹿らしいではないか」との私の問いに「ドイツ人のだれでもよい、ドイツ人が金持ちになることがドイツの復興に役立つことだ」と答えた。この気持がドイツの復興を早めた大きな原因ではないかと私は考えた。

       ドイツのシュミット博士は、戦前数年日本に滞在して、わが国の航空機の発達に尽力した人である。私は知人の紹介で彼をケルン市の自宅に訪ね、夕食をともにし、デュッセルドルフ市の私のホテルに帰る最終のバスが出るまで、家族の人たちと談笑した。最終バスに乗るため辞去したが、彼は家族とともに私をバスの停留所まで送ってくれた。ところが、バスは私らの待っているのに気がつかなかったか素通りした。

       彼は大変に私にわびるとともに、バスの事務所に行ってその不都合をなじり、もう1台特別仕立のバスを出せと談じこんだ。バス会社は彼の強談判で、私1人のためにバスを出した。ドイツ人は筋を通す人間だと思った。

       日本人は紹介状を簡単に出す。時には汽車で多少意気投合すると、名刺にスラスラと書いて渡す人がある。欧米人に紹介状を頼むと、その目的をクドクドたずねる。面倒くさいから、いらないと言いたいくらいに念を入れる。しかしいったん出したら、その先にたずねて行く前に別便で細かく知らせてあるから、紹介がきわめて有効である。またもらった人も行ったか行かなかったか、先方に面会してどうであったかの通信を、紹介状をくれた人に出す習慣である。

       私は欧米に行く人から時々紹介状をたのまれる。しかるに、日本人はもらったあとは何の通信もない人が多い。私は紹介状を渡すと同時に、被紹介者にも通知するが、そういう人は来なかったという連絡を受けることがある。だから近ごろはよほどでないと紹介状を出さないことにしている。

    • No.7 欧米人の考え方(4)

       私がタイムスタンプの製造をはじめた時に、ドイツでベルンハード・キョーラーという軽便なスタンプがあることを聞き、これを調べたいと思い同社から1台取りよせた。

       1951年ドイツに行った時に、この会社をたずねたところ、2坪ぐらいのテントを張って老人とその息子2人とが、ゴム印を手製の粗末な机に並べて売っている。私の想像とはまったく違ったみすぼらしさであった。老人は本年76歳だといった。身体は頑健そうであるが、頭髪は全部白くなっていた。私が来意を告げると彼は飛び上って、長い時間私をジッと見つめ、そのうちに涙をポロポロ落した。

       私の訪問を彼は非常によろこび、何度も私に感謝した後、彼は私に言った。「自分は戦争中3,000人の従業員を使って兵器の製作をしていたが、戦禍で工場は全滅した。今は、こんなにみすぼらしい姿であるが、必ず昔のようになってみせる。日本もドイツと同様に敗戦して、難儀しているだろうが君も頑張ってくれ。もう一度ドイツと手を握って旧態に立て直そうではないか」。私は彼と固い握手をして別れた。4~5年来、彼から毎年カタログを送ってくるが、ナンバーリングから打抜きがふえ、ナンバーリングの種類がふえ、昨年暮に来たものは10数種類の製品となり、立派なカタログとなってきた。11年後の今日、老人はまだ丈夫か、あるいはその子息が親の仕事を受けついでいるか知らないが、とにかく着実に発展していることは想像出来る。

       私が30歳前の若い時に、英国のビッカースという会社を訪ねた。日本海軍から多量に兵器を注文したところで、英国でも有数の兵器工場である。しかしそのころは第1次欧州大戦後で、兵器の製造は非常に少なくなって、工場はきわめて閑散としていた。大きな工場の隅で、小銃の銃身の焼き入れ時の曲り直しを1人の工員がしていた。彼は私に自分でこの仕事は3代目であり、大きな誇りを持ってこの作業をしている。自分の父の仕事場に幼い時から毎日弁当を持って来て、この仕事を見習った。私の父も同様に祖父から習ったのだといった。この会社にはそういう人がたくさんいると、案内者は私にいった。その技術を世界に誇るこの会社のわけが、わかったような気がした。

      No.8 欧米人の考え方(5)

       アメリカで会社に行って社外でご馳走になってごらんなさい。案内人は2枚の領収書をレストランに請求します。1枚はお客のもの、1枚は自分のもの。お客のものは会社に請求し、自分のものは自分で払ったという証拠を会計に見せるそうです。

       私が先年ドイツへ行った時、ミュンヘンのシーメンス会社から、案内つきで大変なご馳走になった。案内人は副社長ローゼあての領収書をうけ取っていた。聞いてみると、これは会社からではなく、ローゼ氏のポケットから出るそうです。

       アメリカで自動車に私を乗せて他に案内した会社があった。案内人は会社の車を使用した。会社に通動するときは自分の車を使うが、お客を案内するときは会社の車を使うそうである。

       私は若い時、しばらくアメリカにいた。その時にプラット・ホイットニー工場で実習したことがあった。仕事が2分ぐらい早くすんだので手を洗った。ところが、同じ場所で働いていた工員が私に「その時間はお前のものか、会社のものか」と質問した。私はハンマーで頭をなぐられたような気がした。

       電話をかけて話中の時に、交換手は日本では「お話中」と言い、アメリカでは「ライン・ピジー」(電話線は忙しい)と言い、フランスでは「ヌ・パレ・パ」(お話ができない)と言う。いずれが最もよいか、私にはわからないが、アメリカの「電話線は忙しい」ということは、妙味があると思う。

       電話のことで思い出したが、アメリカに自動電話に25セントを入れると10セントのところと話をすれば、15セントお釣がくる。これを取ることを忘れる人があるとみえて、自動電話の釣銭を集める浮浪人体のものが市中にウロチョロする。相当の収入になると言っていた(昭和28年ごろの話)。

      No.9 欧米人の考え方(6)

       アメリカでは週35ないし40時間の勤労であって、土曜と日曜とは休みになるのが一般的である。金曜日は退社の時に、その週の給料をもらって帰宅。収入のよい者、心がけのよい人は、土曜から日曜にかけてレクリエーションを楽しむが、どこの国でも心がけのよい人よりも、よくない人の方が多い例にもれず、アメリカでも下級労働者は金曜の晩に賭け事、よくない映画、酒等に浪費をし、土曜で手一杯に使いはたす。日曜には小わきに抱えきれない何十ページかの新聞を買って、ビルとビルの間からさし込む太陽の光を求め、新聞をひろげ、コッペパンをかじりながら終日を暮す連中がたくさんある。夕刻になって、彼らがどこともわからぬ寝ぐらに引き上げた跡には、新聞紙のはんらんとなり、たまたまそこが高いビル街であれば、おのずから起こるツムジ風で、新聞紙はあおり上げられ、見苦しい街となる。ニューヨーク、シカゴその他の大都市下町の夕暮の一風景である。

       休みの多いことは結機かも知れないが、休養を上回る休日は小遣い銭もまた上回る。6日働いて1日休養をとり、たとえ1坪でも草花、野菜を楽しむことのできる日本の労務者と上にのべたアメリカの労務者と、いずれが幸福かは読者の判断にまかせることにしょう。わが国でも、近ごろ鉄筋コンクリートの団地住宅がアチコチに出来たが、団地の嘆きは土をふむ機会がほとんどないという話である。木造平家の小さい家に住む人は、団地族をうらやむが、人間生活としては土をふむことが出来ないことが、水のない生活に類するものだということを想像して、上記判断の参考にしてもらいたい。

       さる11月23日に、当社の西川課長のあちらの土産話の中で、アメリカ人は欧州人よりも愛想がよいということで思い出したが、26年に私が欧州に行ったときに、抹茶の道具を携帯した。印度洋を飛ぶ飛行機の中で、私は点茶した。湯がなかったから水立てである。同行の菅谷、土屋君らにこれを供したところ、1米人がめずらしそうに見ていたから、一服彼に与えた。彼は1口飲んで妙な顔をしている。私が味はどうかとたずねたら、彼は、“ファイン”(結機)と言ってしぶい顔をしたのが、今も目先にちらつく。その時に、日本人ならどう返事したであろうか。

    • No.10 日本海海戦に憶う

       敵艦見ユトノ報ニ接シ、連合艦隊ハ之ヨリ直チニ出動、以テ敵ヲ撃滅セントス、此ノ日天気晴朗ナレドモ波高シ

       これは、日露両国の主力艦隊が、日本海で遭遇した58年前に、日本連合艦隊司令長官東郷元帥から大本営に打電した文章で、これは世界戦史にも有名となったものである。私はこの名文章を何気なく読んで、中学および専門学校を卒業して横須賀海軍工廠に就職した。就職して2〜3年たったころに、その工廠に赤さびとなって繋留されているロシアからの分捕り船の修復作業に従事させられた。そのころの軍艦は、前後に主力砲があり、舷側に副砲が装備されていることが、世界的常識となっていた。日本でもロシアでもこの常識通りで大砲が装備されていた。

       日本の軍艦は、英国に模範をとっていたから、主砲の構造も英国式で、主砲の回転には上部に回転用コーンローラーを設備し、最下部は支柱をはぶいたものであった。ゆえに砲弾を発射する場合、大砲を目的物に合わすためには、上部にあるコーンローラーによって、砲塔を旋回する設計である。

       これは思うに、英国の艦隊は世界の海を航海するため、荒波にも照準がつけやすくしたものであろう。その代りに、旋回の動作が遅い欠点がある。ロシアの軍盤は、北欧を主として航海するから、ことさらに荒波を考える要がなかったのであろう。その主砲の機造は、旋回の中心を最下部に置いてあった。そのため照準は容易であるが、荒天の時は動福が悪作用して、正しい照準が出来にくい欠点がある。

       「天気は晴期であるが波が高い」日本海海戦では、天佑はまったく、わが国に加勢したと思われる。もし「天気は晴朗で波は静か」であったら、ミッドウェー海戦と同じく、日本の惨敗となっていたかも知れない。連合艦隊司令部が「波が高い」と、とくにつけ加えたことは主砲の構造も算定し、わが艦隊大勝利を予測し、大本営に安心させる計算が加わっていたかどうか知らないが、ロシアの分捕り船を修理しながら考えた私の回想を、ここに思い出して記してみた。

      No.11 創意工夫をこらせ

       亀の甲タワシと味の素
      わが社で、近ごろ職場考案が盛り上がった。まことにうれしい現象である。高等な理論から生まれる発明もよいが、手近でたくさんの人々の役に立つものを考えることは、真に意義のある働きである。

       このころでは、「亀の子タワシ」を使う人は少なくなったが明治、大正のころには、どこの家庭でも台所用品として重宝がられたものである。真否は知らないが、関西のある職人さんが考えたもので、実用新案となり、考案者は巨万の富を得たうえに、家庭婦人に愛用され、日本の津々浦々に行きわたった。きわめて簡単なものであるがなかなか便利なものである。

       味の素は今なお盛んに愛用され、これを知らない日本人はほとんどなく、海外にも盛んに輸出され、また製造者である川崎市所在の味の素の会社は、わが国でも指折りの良い会社である。

       私が横須賀の旧海軍工廠に就職したころは、逗子の海単で創始者の鈴木さんが、家族10数人の協力で海草から採取していられた。遠足の女学生がくると呼び止めて、食事やらお茶の接待をし、その時は味の素とは言わなかった。名前は忘れたが、若干みやげに持たせて帰した。今でいうPRでしょう。それが、現在の盛業になっていることは、多数の人々のためになるものであったからだと思う。

       金星に行くロケットを製作することも良いが、手近で人々のよろこぶもの、ためになるものは宇宙ロケットに遜色のないものである。

       わが社でも、ターボモイスレスのように、むずかしいものに没頭する人々にも敬意を払うべきであるが、仕事場を掃除し、また品物を運搬して会社の作業の増進に努力する人々にも心から尊敬の意を払うべきことと思う。簡単な事務や部品の作業にも、創意と工夫を怠らない人々は、会社の宝と考えてよいのではないか。

      No.12 突き放す教育

       最近は、社内教育が重視されている傾向があるが、それを考えている時に、たまたま私の考えにぴったりした文を読んだので、諸君に紹介したい。それは大要次のようなことである。

       シシは、可愛いい子供を谷底に落し、はい上ったものだけが生き残るから強く、また北方に住むクマの中には、赤ん坊が成長するにつれて半殺しぐらいの動物を運んでやり、それと闘いながらエサとして、自分の生きる道を教えるものがあるという。アメリカの高等学校の生徒も、親からも家庭からも突き放されて生活を送っているという。そういう生徒たちは、休みになってもあまり家庭に帰ろうとせず、機会があればアルバイトをし、その収入で自分の好きな楽器を買ったり、遊んだりして、いかにも「独立した人間」のようにふるまう。

       これに反して日本の親は、大学の入学試験にまでつきそって行くなど、子供に対して保護過剰の傾向が目立っている。これによっていつまでも親によりかかり、甘える人間を作っていないか。やはり独立する人間を育てるためには、賢明な「突き放す教育」を考えるときではないかという文章なのである。

       このことは社会人で構成されている1会社にも言えることだと思う。学歴や勤続年数によって身分が保証されているいままでの人事システムのほかに、真に努力し勉強することによって、実力を身につけた人間が、それにふさわしい地位と仕事を得るというシステムもあってよい。

       この意味で、さきほど社内で行なわれた役付登用試験や職員登用試験も、真に諸君の実力向上の一つのはげみともなれば幸いである。そして今月からはじまった新入社員の教育にかぎらず、社内の教育訓練も上記の文にあるような賢明な突き放す教育であれば、会社発展の一つの方法として、大いに音ぶべきことであるかも知れない。

    • No.13 アイヒマンを裁く人

       今日、エルサレムの文化センター特設公判廷で、第2次世界大戦の時に、ユダヤ人を虐殺した責任を問われて、ドイツ人アイヒマンが、第1回公判に立たされることになった。このユダヤ人虐殺事件については、幾多の出版物で有名になっており、アイヒマンが責任上処刑されることはやむを得ないと思う。しかし大の勝者側にも、アイヒマン事件に類することがないとはいえない。

       日本でもドイツでも、たくさんの人々が戦犯という名の下に処刑された。戦争に敗けたからである。

       私は昭和26年に欧米に行った時に、広島原爆の悲惨な写真を持参した。ロンドン市のアセニアム・クラブでセンピル卿を待つ間に、このクラブに来る人々にこの写真を与えた。彼らは例外なくイヤな顔をした。他の諸国、とくにアメリカでは相当にたくさんこの写真を知人に与えた。何人も面目なさそうな顔をした。

       アイヒマンが裁かれることが正しいとすれば、原爆をわが国に落下した者が、またさせた者が裁かれねばならぬ、と言えないだろうか。ガス炉の殺人よりも、原爆の方がはるかに残酷である。

       終戦後15年も経過しても、なお記憶に新たなることは、無抵抗と知りつつ、わが国内を思う存分に焼土とした米軍。ビルマの野戦病院を終戦と知りつつ、傷病兵を飛行機から掃射して死滅させた英兵。ことに信義を無視し、かつわが降伏のあっせんを拒否し、残虐を欲しいままにしたソ連の満州における暴挙等々に類する「勝てば官軍」そのままのみにくい人間像を、はてしなくくり返す行為は、いつになって止むことであろうか。

      No.14 上役を恐れるな

       大正10年ころ、私が築地にあった海軍航空技術研究所にいたとき、チルドロールの入札があった。この時、住友金属、大同製鋼とともに大谷重工がこれに参加した。私がこれを担当したが、大谷重工が他の2社の半額以下であった。あまりに値段の違いがあるから、社長の大谷米太郎氏を呼んでその理由をたずねたところ、同社は当時また従業員10名ほどの小さい工場で、これを売らなければ年末をすごせない苦肉の策であると、彼は率直に言った。

       金額にして当時3,000円ほどである。私は気の毒になってその工場に行き、いろいろ調べたところ住友、大同等の製品とくらべて遜色のないことを知ったので、その値段を上げて注文した。

       さて現在、大谷重工はたくさんの従業員をかかえた大企業となり、創立者大谷米太郎氏が社長である。

       彼は若い社員に、つねに経営方針の一端として、次のことをのべているということが、『日本工業新聞』に出ていた。「いかに上役に弱いサラリーマンであっても、自分自身が他に比して有能であり、真面目であれば上役を恐れる必要はない。真面目で有能な者を、上役が正当に評価しなかったならば、それは上役が不公正か無能かのいずれかということになる。むしろ真面目に全力をつくし、上役が上役として適格であるかどうかを試して見るくらいの気概が必要である。そうなれば、こわがるのは逆に上役の方だということになる」と。

       私もまったく同感である。すべての企業は、不まじめとか無能な人間を10人集めるよりも、まじめで有能な1人の社員を欲している。その結果企業は栄え、また10倍の給料を当然払ってよいわけである。不まじめな人や無能な人は、企業の足手まといになり有害無益である。

      No.15 出世する人、しない人

       去る6月7日に関東学院大学工学部で、発明思想についての話を学生にした。「発明は決して偶然に生まれるものではない。また金もうけをしようとして出来るものでもない。いろいろの苦心、研究にさらに人類に益せんとする考えがカクテルされて生まれるもので、学生時代にマージャンやパチンコに浮き身をやつしていては生まれない。学生時代は学生の本分を守り、よく勉強すべきである」ということを私は話した。

       多くの人々は、その日その時の享楽、時と金の空費、怠慢、人によく思われたいという媚態、責任の回避、いずれも良くないことは知っている。しかしこれらの悪魔を排する勇気がない。この勇気のある人は出世し、勇気のない人は出世しない。しかもこれは、長い間いるのではなくて、せいぜい15~6歳から40歳ぐらいまでの約25年間だけである。私の知っている人で村岡嘉六という人がいる。年配は80歳前後であろうか。16歳の時に佐賀から名古屋に出て来て、大隅鉄工所の見習工に入った。私は彼が同社の技師として働いていた大正12~3年ごろからの知人であるが、ついに同社の会長、名古屋商工会議所会頭をつとめ、今日の名古屋市とした功績ある人で、たくさんの顕職を兼ねている。これらはすべて、彼が求めるのではなくて、彼の責任感、誠意、功を他人にゆずる謙虚の美徳が、他より推されているのである。

       出世したい人は25年間、すなわち人生の1/3だけで結構だから、もろもろの悪魔を排除したまえ。私はその達成を保証する。

    • No.16 敵を愛せよ(1)

       これは、キリスト教の宣伝ではない。会社経営のコツである。わが社のNRは、いま生産方式、製品の質、生産数、いずれを見ても国内の同業者を5年くらいは引きはなしている。欧米と比較しても遜色がない。しからばといって国内の市場を独占して、商敵を徹底的に打ちのめすことの可否いかんということを考えてみたい。

       進歩は競争相手があってのことである。独占事業は時世に後退する前兆である。商敵に対しても、彼らがさらによきものを作ることを望むことは、タイムレコーダーというものの品質の向上となる。20年ぐらい前に、ある会社が作ったタイムレコーダーは、当社の半額ぐらいで売られた。しかしそれはつねに故障続出であった。当社が販売に出かけても、タイムレコーダーは故障の多いものだということを植えつけられたから、販売に随分苦労した。

       商敵にも従業員、販売ルートにたずさわる人々がいる。商敵を打ちのめして、彼らの生活を根底からおびやかすことは人道ではない。商敵がみずから他に転業すれば別であるが。私はむしろ、商敵と手をつないでお互いに進歩発展し、社会に買献することを願ってやまないものである。

       わが社では、販売部のものに「敵商品をけなすな」ということをしばしば言っている。同業者を悪く言うことは、聞く人に不快の念を起させるだけでなく、さらにその商品全部の価値を低くするもので、決して得にはならないものである。そのため一時は利を得ても水達の繁栄にはならない。

      No.17 敵を愛せよ(2)

       読者は日露戦争といえば、遠い昔のことで徳川時代と混同して考えるかも知れない。しかし、私には中学3年ごろの出来事で、私もすでに従軍せんとしたころであるから、身近に感じている。

       この戦いに、ロシアの軍人がたくさん捕虜となって四国松山に収容されていた。この敵軍の兵士に対して、その地方の人々が戦時中の食糧不足にもかかわらず、自分の食糧を節約して彼らにめぐんだ、という話がいまもって忘れられない。

       この戦いで、旅順の激戦は実にはげしく、日本もロシアもたくさんの戦死者を出し、とくにわが国としては国家存亡の危機であったが、乃木大将はじめ将兵の苦戦で旅順は陥落し、敵将ステッセルは水師営で降伏を約した。その時に乃木将軍は降将ステッセルを厚くもてなし、佩(ハイ)刀を許した美談がある。

       ロシア陸軍が、満州で総敗北した時に、敵軍の師将クロパトキンが帰国後重刑に処せられることを心配して、わが軍の総帥大山元師が、ロシア皇室に書を送って彼の健闘を賞したために、彼はその罪をまぬがれたと聞いている。

       先年の大東亜戦争で、われわれは捕虜に対して、われわれの先人がなした同情があったろうか。南方まで押し寄せた時に、わが軍の将兵が敗軍の将に対して乃木、大山の両将軍がその昔示した武士の情があったろうか。

       私は大東亜戦争の敗因と日露戦争の勝因との分析の中に、このことを反省してみたい。

       ►お断り「屑かごから」は昨年8月から休筆した。理由は諸君の執筆が多いから遠慮した。しかし近ごろ「屑かごから」を継続せよとの投書が、しばしばある由だから、ふたたび筆をとることにした。

      No.18 何故に欧米の機械を買うか

       欧米の工作機械はなるほど優秀である。しかし、日本の工作機械で出来ぬことはない。立派に出来る。わが社の程度では、すぎたくらいに欧米品を入れ、また将来も入れたい。

       その目的は何であるか。仕事がしやすい、付属工具がよい、出来た部品の精度がよい…もある。しかしもっと大きい目的は従業員をだんだん欧米に派遣してアチラの空気を吸わせたいが、そうたくさんにまた全員を出張せしめることは不可能である。

       そこで欧米の一流品を購入し、これを眼を開いて見れば、国産品よりも優れたいろいろの点がわかる。デザイン、塗装、工具、部品の交換性など…、これらを従業員諸君が知りその知識を進め、さらにわが社製品に応用してもらいたいからである。

       研究した人は進んで研究会などで発表し、関係のある人はもちろん、関係のない人でも知ってもらいたい。形の上のすぐれた点だけでなく、そのすぐれたものを作る彼らの心構え、理論や理屈を超越した真摯な人間性にまで思いが到達できれば、私はこの上なくうれしい。その人たちはもはや立派な人格が出来た技術者と見てもよいであろう。

       いまの若い人は、オトギ話のように聞くであろうが、昔は刀剣をきたえる時に、四方に「シメナワ」を張り、そのころの礼服である烏帽子、直垂を着し、斎戒沐浴し、心をしずめ、この刀剣が持つ人の身をまもることを神に祈って仕事をはじめたと聞いている。

       私が30歳ごろ英国に行った時に、ビッカースの工場を参観した。ビッカースは大小の大砲、小銃、機関車の製造では世界で有名である。そこで小銃の銃身の曲り(焼入れ後の変形)を小さいツチで直している中年の工員を見た。彼はこの工場の至宝で、高給を得ていると案内者がいった。

       彼の話によると「この仕事は祖父から引きつがれており、また自分も子供に引きつぐつもりである。自分の父は祖父に毎日弁当を持参しながら、幼い時から目と心とでこの仕事を習った。私も子供に同じように教えている。仕事は理屈を超越したものがある。私は毎朝この仕事にかかる前に、神をうやまい黙とうし、この仕事が人々のためになることを祈ってはじめている」と。いまでもその話が脳底から離れない。

    • No.19 吾当事不為後悔(宮本武蔵)

       人、生をこの世に受けたからには、自らも楽しみ、また他人にも役立つことを心がけるべきである。そのためには漫然と月日をすごしてはならない。その日その日の努力が足りないときは、自ら楽しむことさえも出来ない。まして他人の役に立とうということはトンでもない話である。

       私は宮本武蔵の書を愛読する。太閤秀吉の伝記もきわめて好きだ。前者は剣を持って身をおさめ、後者は天下を統一することに非凡の才を発揮した。しかし、いずれも青年時代は、われわれと同じく凡人であったようであるが、40を出ずして非凡の人物となったのはなぜであろうか。両者の共通点は、毎日毎日の生活を「最高の努力と合理性」に徹したことと、私は考えている。

       頭書した「われ事に当って後悔をせず」は、宮本武蔵の言ったという話を思い出して記したのであるが、このことが言えるのは、そう簡単な心身の鍛錬で出来ることではない。つねに仕事に全知全力をつくして達しうることである。

       日ごろ、無為に時をすごしている者が、思い出したように精を出しても、これは長続きするものではない。少しずつでも努力の継続を習慣とすれば、その積み重ねで非凡となる。その上に合理的に「知」と「力」とを毎日毎日積み重ねて行けば、武蔵や秀吉のように大非凡人にならなくとも、思い残しのない人生をすごし、後悔をすることがない。

       名工は一つ一つの製作に全力を集中し、名優は一幕ごとに懸命となると聞いている。筆者は若いころ、三浦環女史と語ったことがあるが、彼女が歌うことが恐ろしいと言ったことを覚えている。私はこれは一曲ごとに身心を賭けるためだと解した。

       また筆者の居宅に近く、井上正夫氏が住まっていたから、しばしば面接する機会があったが、会うごとに何とも言えぬ風格に打たれた。努力の結集が放つ名香であろう。

       功は一朝一夕に成るものではない。毎日毎日の少しずつの努力の積み重ねと、その努力が効果ある合理性を持つことであり、毎日の悔なき生活の集計であることに疑いはないと思う。読者が改めて「鈍根運」を思い起して下さらば、筆者のよろこびこれにすぎるものはない。

      No.20 米国とわが国との物価とその効果

       アメリカに着いて聞かされたドルと円との比較は、大体1ドルが100円に相当するということであった。わが国から行く書物で200円のものは2ドルで、1,000円のハッピーコートは10ドルで売られている。

       これで貨幣の交換価値から判断すると、アメリカはわが国の3.6倍高い勘定になる。労働賃金も最低1.25ドル(労務者の平均年齢40歳)で、1週に40時間の労働時間であるから月収約220ドルである。日本では22,000円に相当する。大ざっぱに見て勘定が合うことになる。

       ところで、1:3.6の物価に対する日米間の労働効果の比率はどうだろうか。

       自動車の効果――日本は平均速度30マイルであるのにくらべ、アメリカでは70マイル、1:2.3の比率である。自家用車は日本では運転手がほとんど運転するが、アメリカでは自分で運転し、運転手を使わないから、この比率は1:4.6以上となり、日本の方が1:3非能率である。荷車では日本の3倍の積荷をするから1:6.9となり、日本はアメリカの1/3の能率となる。

       会社工場内作業の効果――事務所では書類がよく整とんされているから、必要書類は5分とたたずに出る。たいていの書類は部長の手元にあるか、部長付秘書のそばに置いてある。ちょっと待って下さいと言って、1時間もそれ以上も待たねば出せない書類はないようだ。

       発信書類も秘書を呼んで口述すれば、これまた5分とたたずにタイプしてくる。担当者が起案し、課長、部長と順々に許可を得て発信するのにまる1日以上かかる日本とは、雲泥の差である。私が見た4~5の会社は、いずれも従業員が1,000人から2,000人おり、アメリカでも1流のものであるが、大体事務所では部長と秘書でほとんど仕事を片づけている。課長だ、係長だという人がいない。

       工場はどうだろうかと言えば、アチコチをウロチョロする人が絶対にない。工員はいずれも落着いて仕事をしている。管理者の机は高く、椅子などはもちろん使わない。大体作業場に椅子というものがないから、坐る、立つの動作がゼロである。

       工場内にジュース、牛乳販売機があって、工員はこれを利用しているが飲めばさっさと仕事につく。お互いに話しているのを見たことがない。不良を0.5/1,000すなわち2,000個で1個作れば、いつ解雇してもさしつかえないという規則が、組合の強いアメリカで当然のこととして認められている。機械でも、切りくずが煙を出しているということはない。削り代はきわめて少ない。

       事務および工場の能率は、日本の1に対してアメリカは5以上であると判断する。すなわち絶対給料は3.6倍であるが、効果は5以上であり、アメリカの方が絶対の単価は安い。日本から持っていってなぜ引きあうか、それは販売人件費が先方では段違いに高いからである。

       すなわち製造原価1に対し販売原価は2倍となるのが日本でも一般常識で、1万円で出来たるのは3万円で売る。販売人件費が高いアメリカでは、この2万円の開きでは商売にならない。ここに輸出品メーカーの考える余地がある。

    • 成功する企業家魂はこれだ!!

      (『オール生活』昭和37年7月号掲載)

      本田技研社長 本田宗一郎氏

      天野特殊機械社長 天野修一氏

      資本は8,600倍

      記者 本田さんにしても、天野さんにしても、この10年で非常に飛躍なさった会社ですので、経営者としていかなるねらいで事業をお始めになったか、その途中においてはアイデアというものをいかに重要視なさったか、あるいは人や技術をどういうふうに育ててきたか、さらにまた資金をどういうふうに使ってこられたか、そうしていままでにどういう苦労があったかというふうなお話を伺いたい。

      天野 私の方と本田さんのところとくらべたら月とスッポンみたいなものだが、10年前はあまり違わなかったと思う。私の方が本田さんのところより人数は多かったでしょうね。今は話になりませんよ。本田さんの伸び方というのは何百倍でしょうね。始められたのは22年ごろですか。

      本田 いいえ、ことしの9月でちょうど14年目ですから。前は資本金100万円の会社で、50人かそこらでやっていた。

      天野 そんなものでしょうね。私が見せてもらったときは。今はもう。

      本田 今は6,000人くらいですね。資本がいま86億4,000万円だから、8,640倍になっていますね。生産高は月に大体8万台作っています。それでも在庫品は全然なくて、増産をやっています。だから毎月57~8億円やっているのじゃないですか。

      天野 本田さんの方は実行家だからそうだけれども、私は生産管理とか能率の方の専門屋だから…。

      本田 冗談じゃない。天野さんの方もとにかく貿易自由化を手ぐすね引いて待っていらっしゃるという状態ですからね、これは将来性がますますあるわけだ。

      天野 私の方は本田さんほどそんなに伸びていません。企業の初めからいえば、800円が4億の資本になり4人が750人になっているのだから、資本金は50万倍、人員は約200倍ともいえるでしょうが、昭和27年からは大体人数が10倍、生産高が40倍くらいのもので、ケタが違いますよ。ただ、私は一つの主義があってやっておるんで、大きくしようというのでなくて、人事管理、人の問題をうまくやろう。技術者は、金をもうけることも必要だ、利益を十分得ることも大事だ、しかし若い者が多いですからね、りっぱに仕立て上げようということでやっているわけです。

      本田 うちだって若いですね。ことし新入生が入ったものだから、現在うちの平時年齢は私まで入れて23歳何がしですよ。24歳にならん。だんだん平均年齢が若くなる。だから平均年齢からいくと僕も若いんだ(笑)。

      日本人に合わせたシンガーミシンの脚

      天野 オートバイというのは、本田さんより前にいろいろなところで作っていたのでしょう。

      本田 ええ、われわれより先輩がずっとおるわけですね。

      天野 その先輩よりもずっと伸びられたということに対して、何か秘伝があるのじゃないか。

      本田 結局、秘伝といって、われわれが人の好くものを作ることを絶対条件とした。そのこと以外にはないんじゃないですか。

      記者 オートバイを次の時代の自転車にしてしまうという考え方が飛躍の源になってると思うんですが。

      本田 ええ。今までのオートバイが愛されなかったというのは、でっかいからなんですね。だから小っちゃなエンジンで大馬力が出ればもっと愛されるものになるという考え方です。それを作るのに技術が要ったわけです。どうして馬力を出すかということで研究が始まった。昔でかいインディアンハーレーというのがあったが、それが5馬力、7馬力というと小さなカブで出せる。50CCでね。

      天野 あれは日本人に向くように寸法を直したのですか。

      本田 そうです。それに日本には山坂が非常に多いから、焼けつかないことが条件だった。また日本では荷物を選ぶから、荷物を運べるようなものにするとか、そういうことはみんな大衆の中に入って考えたわけです。だから、今までの研究者というのはほとんどが大衆と遊離しているのですよ。そうじゃなくて、大衆の中に入って、大衆に好かれるものを探し出すということが先決条件だと思うのです。だから、現在はオートバイのメーカーは10社程度に減ってしまったわけですが、ひところは百何十社あったわけです。

      天野 日本だけでね。

      本田 それが減って現在の数になってしまった。自然淘汰というタイプですね。だから私のところへよく、ブームだからいいねという人がいるが、よっぽど間抜けだと思うね。同じ仕事をやっていたって、必ずつぶれるやつもあれば伸びるやつもある。世の中の見方はミソもクソも一緒にしているんですね。だから私に対して、ブームだからいいですね、こういう言葉が出るわけだ。しかし、それは一貫したイデオロギーというものがあるのです。

      天野 シンガーミシンが日本に出ましたね。シンガーミシンが日本に出たということはやはり理由があるからだ。ミシンの足の高さを日本人の足の高さに直していますよ。それを知らずに、シンガーはよく売れる、こういっているんだな。やはり大衆にアピールすることが必要ですね。

      本田 絶対条件ですね。

    • ハーバード大学の教科書

      記者 天野さんの方は、はじめからタイムレコーダーをやってこられたわけですね。

      天野 私は32年前にタイムレコーダーをはじめたのです。そして大体完成して使えるようになりまして、順調にいっていたわけです。ところがだんだん日本が戦争体制に入ったでしょう。そのときに飛行機から魚形水雷を発射しなければならんという案が山本元帥から出たのです。大体日本の魚形水雷は当時1万2,000メートルで命中率は非常によかったわけです。ところがそれを試験する道具を方々の有名な会社に当たった結果、たまたま私の設計がお気に入りまして、試作せよということになったわけです。
      ですから、戦争中は兵器一点ばりでタイムレコーダーは中止したのですが、大体1万台くらい部品があったのです。それを戦後にまた始めました。しかしやはり機械が古いのですね。私のところのタイムレコーダーは昔ながらにガチャンと打つやつですが、向こうのは打つのではなくて、カードをスポッと入れるだけで打てる新式のものができている。日本に帰ってこれをやらなければならんというので、27年から研究をはじめました。それで5〜6年かかって完成しまして、今タイムレコーダーでずっとやっております。ですから、途中でちょっと途切れましたが、最初からタイムレコーダーできているわけです。

      記者 戦争中に兵器を研究したというようなことが技術的に非常に役立っていらっしゃるのじゃないですか。

      天野 そういわれればそうですね。海軍では20年くらいの熟練工がやっていた仕事を私は作業分析をして、学徒動員の高等女学校の4年生にやらしたのです。それが今のタイムレコーダーをやるのに役立ちましたね。今でも作業分析をして、女の子でずっとやっていますよ。
      ですから、その作業法の改善というものが、アマノ・システムというのでハーバード大学のケーススタディになっているのです。この間、ハーバード大学を卒業して生産性本部のコンサルタントをやっている人が補講から帰って来たのですが、私の作業分析をやったということが、ハーバード大学のケーススタディの教科書になっているというんです。これだけは戦争の技術の賜物ですね。

      アプレ精神が発展の原動力

      記者 お二人方とも非常に合理主義的な考え方をお持ちですが、企業の合理的な経営という点で…。

      本田 そうですね。私はもうドライに割り切っています。私はカミナリ族の親玉だというあだ名をもらっているし、また戦後派のいわゆるアプレ企業の親方だといわれている。ではアプレでないというのは何かといえば、今までのものが浪花節的企業だったということなんですよ。いいかえれば、親分子分の関係において仕事をやることなんだ。私はそんなばかなことはやらない。仕事をやるのに親分子分なんどいうものはありっこない。厳然たる人間関係において、人間平等の精神においてやる。
      もう一つ、一番大事なことは、うちの社是を10年前にきめたのですが、その一番はじめに「世界的視野に立って」といぅことをうたっているわけです。世界的視野というのは何かというと、民族をこえ国境をこえ、だれがどこで考えてもうなずけるものだ。日本人だけがわかるとか、そういうもので仕事をしたのでは、とうてい今の新しい教育を受けた若い人には納得できないんだ。やはり納得させる理論というものが必要だ。昔の人だけ納得できて、今の若い人に納得できないものを押しつけて働けといっても、無理な話ですね。
      一つ例をとりますと、とかく今までは何か失敗すると、すみませんですんでいた。ちょうど森の石松が清水の次郎長に「親分、すみません」とあやまるようなるのですよ(笑)。親分の方も、まあしようがない、許してやる、こうなるのですね。こんなことでは中小企業はいつまでたっても大企業になれんと思うのです。やはり真の現代人としてのあり方は、反省するということなんだ。いくら口先で申しわけないといったって、もとへ戻らない。ですから反省するということは、その過程においては個人追求なんですね。どうしてこういう欠陥を生じたか。ところが人間追求になると、日本人は昔からの殻があって、あんなにあやまっているのに、そんなに追求しなくてもいいじゃないか、こうなって、くさいものにはフタということで、これで事件はうやむやになってしまうから、また同じ間違いが起るのです。二度とそういう結果を生まないためには、やはりそこをよく追求して、前進の道を開いて行くということでなくちゃならん。だから理論派でなくちゃならんですよ。たまたま現在は理論派であるとアプレであると片づけられちゃうということですね。だから私はアプレだから伸びたというのです。つまり、これからの企業者は全部アプレであるべし、浪花節経営でやるなというわけですな。(中路)

    • いい機械は新米にまかせろ

      本田 よくうちの下請にこういう連中がいますよ。もう本田さんのためには死んでもやります。損してもやります(笑)。おいおい、よせやい、こっちはうちの仕事をやったことによって君たちがもうかったといってくれることを楽しみにしておるのに、うちの仕事をしたために損をするなんて(笑)。そんなのやめてくれ。そんな下らない、昔の愛国心みたいなことはいうな。そんなでたらめいいやがって、そんな人にかぎってろくなやつはいない。そういう人にかぎって絶対大企業になれないね。

      天野 そう。もうけるために仕事を引き受けるのだから。

      本田 そうですよ。それを、損しても入れますなんて、冗談もほどほどにしておけだ、全く(笑)。
      私がもう一ついいたいことは、中小企業も合理化をやるのがいいというと、金がないからできない。よくこういうことをいいますね。しかし、要するに金がないから合理化をやるのであって、金があってダブダブしているなら合理化なんかやらなくたっていい。合理化の一番の中心は金ではないのですよ。ところが合理化をやれというと、金がないから合理化できません。そういいながら、何かというと自分の邸宅はりっぱなものを作ったり、事務所だけはりっぱなものだったりするのですが、肝心の工場は機械もろくに入れずに、ひっくり返ったような工場をしている。こんなのでは合理化なんてないね。合理化というのはアイデアを使うことです。ただのものを使うのが合理化なのですよ。それを、ただのものを使うときに、それだけではしょうがないから、補いに金がいるというなら話はわかるんだ。ところが最初からアイデアを出さずに、合理化とはコンベアをつけることであり、機械を買うことであるというように考えるような人は、猫に小判、こんなの使えっこないですよ。

      天野 私のところはいい機械ほど未熟練工が使っているのです。ということは、機械が仕事してくれますからね。それで古い悪い機械は熟練工が使う。それは熟練工が使わないと、品物がいいものができませんからね。そういうふうにしています。だから、たとえば外国のボーラーとかそんなものは高校出たてのものがじゃんじゃん使っている。だからうちを見にきた人は変な顔しますけれども、これがほんとうだと思いますね。

      本田 うちなんかそうですよ。そして高い機械ほど、うちはじゃんじゃん使います。だからうちは高い機械は二交代ですよ。新しい機械をじゃんじゃん使って早くペイしなければ損ですよ。
      それで昔はこういう見方をしていたのですね。これは銀行マンの人なんかに聞いた話だが、あそこは償却を終えたただの機械がたくさんある。それでやるから安くできるのだ、だからいいんだというような解釈がある。これは実に危険なんです。というのは、ただの機械でやってやっとこ生命を保つくらいのもうけだったら、新しい機械を入れたら損しちゃうね(笑)。高い、いい機械を入れても、もうかるように合理化されなければダメなんです。

      天野 いい機械を入れれば、しろうとでもっていい品物が一様にできますよ。それをじゃんじゃん使えばいい。ところが、いい機械だと大事にしまっておくところがある。そういう工場は伸びませんね。

      小企業が伸びないのは金のせいじゃない

      本田 よく、中小企業が伸びないのは金のせいだといいますね。そりゃ金も道具の一つでしょう。私だって金に苦労しましたよ。はじめた当時は5万円の金だって銀行で貸してくれない。信用ゼロなんだから、そんなときに借りにいったって貸せるものではないですからね。そこでやはりいい品物を作って、売ったら早く金をとることですよ。時間というものをフルに使うことですよ。それ以外にないですね。金なんか人にたよっていたのではダメ。金というものは、とる権利を生じたものは早くとったらいいのです。吸い上げポンプを使って。

      天野 そういう点はお宅は上手ですね。

      本田 それはそうですよ。とる権利のある、貸してある金をそのまま置いて借りては損ですね。それをどうも中小企業の人は商売と親戚づき合いと一緒にしているね。親戚づき合い、大いにけっこうだと思いますよ。ところが商売となったら、その商売によって大ぜいの人が食っていくということを考えなければならん。だから経営者はしっかりして、とるものはとり、払うものは払ってやらなければならん。それと同時に、社長が勝手に会社の金で遊んではいけないですよ。社用族になってはいけない。遊ぶのなら自分のポケットマネーで遊べばいい。社長が社用族になって芸者をよぶ権利があるなら、一工員だって遊ぶ権利がありますよ。働く権利は平等であるべきものだもの。

      天野 中小企業からだんだん大企業になっていくときに、どうしたら人をうまくコントロールできるかということが一つの悩みだと思うね。

      本田 中小企業から大企業になるときに、中小企業ではなるほど功績があった、しかし大企業になってからはどうもパッとしないという人がある。つまり会社の発展についていけない人があるんですね。

      天野 その解決はどうしていますか。

      本田 私どもはそういう人は命令系統からなるべくはずして、そしてその人のいわゆる功績をたたえるだけの給料を払う。

      天野 嘱託か何かにしておいて。

      本田 嘱託ということじゃなくて、やはりもちろん社員です。そして若い者には、そういう人があるから君たちの現在があるんだよということをよく認識させて、尊敬させるようにしています。

      天野 お宅は新しいからいいのですが。

      本田 いや、新しくて急激に発展しているからそれが一番よく出ているのです。

      天野 だけれども古い会社は、たとえばうちの例でいうと30年でしょう。そのときに私は30歳以下は入れなかったから、今は少なくとも55歳になっている。そういう人は若い者のようにはできない。今は会社についていけないから重役の地位が保てない。これは中小企業から伸びるときにみな悩むことだろうと思いますね。

      本田 私たちもそれが非常に大きな悩みですね。しかし、私はこれは割り切らなければダメだと思う。それをあくまで認めて、スタッフのラインに置いたとしたなら、必ずつぶれちゃうものね。

    • 重役は引き時を考える

      天野 それと本田さん、もう一つは年齢満期みたないものがありますよ。お宅はあるかどうか知らんけれども、うちはだいたい55です。この年齢満期でズバリ切ることは、やはり人情としてしのびないところがある。これがやはり中小企業からだんだん伸びていったときの一つの悩みですね。いわゆる人事問題。

      本田 そういうことはありますね。でも、うちはいろいろな子会社を持っているから、そこへどんどんやる。

      天野 それはいい。

      本田 それに新しい会社を作るたびに、そこに本田イズムといったものを植えつける必要がある。でないとバックボーンが入らないと困るから、そういう連中を持って行くと非常に工合がいいのですね。
      また、やはりこれは考えていかなければいかんことだと思う。ぱっと首切っちゃってはいけない。今は55といったって、実際のところ私が55ですが、まだまだ仕事をやれといわれれば、人に負けませんよ。ことに今は昔より年齢が伸びている のだから、やはりそこまで考えてやらなければならん。しかし、そうかといって60にするのもどうか。60にしたら、私は若い者に気の毒だと思うのですよ。だから、やはりそこは切るのは切っておいて、そしてその人を生かす方法を考えてやる。そのことは必要じゃないかな。
      もう一つ、重役となったら、反省してみずから去っていくことを考えること。このことを考えない人は重役の資格はありませんね。

      天野 そうなんだ。それは必要ですね。

      本田 私は重役の一番大事なことは去る時期を見つけることだと思う。いかに去るかがその重役の値打ちをきめると思うな。私はその点において会長制なんか大きらいだ。前の社長が会長としてシャッポにいたら、いくら有能な社長でも役に立ちゃしない。ほんとうをいったら、ただの取締役になってあとをよく見てやって、そしてこれなら大丈夫だ、不安がないと株主も納得し、従業員も納得するところで、さーっとやめていけばいい。それがシャッポの方にばかり行くものだから、新しい社長はいつも先輩には頭が上がらんことになる。そんなことでは社長として値打ちはない。僕はマッカーサーじゃないけれども、老兵は消えて行くのみだと思うんだ(笑)。

      製品こそすべてだ!!

      天野 日本の中小企業は、たとえば、どっかの大きな会社の資材部長か何かに渡りをつけて仕事をもらってくる。その当座はよいけれども、そのうちに資材部長が転勤にでもなるとヒモが切れてしまうでしょう。そこで仕事がもらえなくなってつぶれるというような問題です。

      本田 ヒモつき企業ね。

      天野 これが多いですね。それを自分で研究して、これは売れるか売れないか、またいくらで売ればいくらもうかるんだというような計算をして企業をやれば、最初から市場性がわかりますね。市場調査ができて原価計算ができる。したがってそれに対して確実な企業になりますわ。そうすると特定のヒモはなくたって、世間一般がヒモだから困らない。

      記者 そうすると、経営者はユメと同時に確固たる独立精神がなくてはダメだということですね。

      本田 やはり土性骨、根性ですね。

      天野 それともう一つ、私は日本の中小企業というものの考え方が問題だと思うのです。日本の人は中小というといかにも小さい。したがってあまりよくないように感ずる。大企業というといかにもえらいように考える。しかし、本田さんを前に置いて悪いようだけれども、本田さんは本田イズムがあって、一つの特異性があってやっている。これはいいと思うのです。けれども小資本でりっぱにやって、そこの品物を買わなければダメだというふうになったら、そこは特異性を持っています。たとえ3人、5人の企業でも、これは大企業に匹敵すると思う。ところが日本では、大企業と中小企業というふうに分けていて、資本金1千万以上、従業員200人以上がどうとかいっていますね。あれはおかしいんです。
      これはバタくさい話ですけれども、外国でははっきりしていますよ。たとえばイギリスではスモール・エンタプライズ(小企業)というものはあるけれども、それは人数が少ないというだけで、決して事業がどうこうだからというので小企業とは言わない。ただ製品がいいか悪いかを問題にするだけです。だからイギリスのシャッポを作る例の有名な会社、あれは小さい会社です。それから私どもの使っているウイスブローという歯切り機械、これはスイスの機械ですが、ここは40人くらいの従業員で、おやじさん自身も工場で働いているような小さな会社です。それが世界のウイスブローですわ。日本だとたいてい何でも自分でやりますが、向うではそういうふうに軸なら軸、歯車なら歯車専門の会社があって、それを集めてやっているのですが、それでも実にりっぱな機械を作っている。
      私はそういう企業がほんとうの企業だと思うのですね。人のまねしてやってみたり、どっかの仕事をもらってきてやったりするのは、私はちょっとおかしいと思う。だから、日本でも今いったような企業がだんだん多くなってくれば、日本の工業もほんとうにしっかりと足が地についた育ち方をするけれども、今みたいにどっかの下請をやらなければならんというから、その親工場が傾くとその企業も傾いてしまうのです。また、そういうものを中小企業庁とか府県にある商工指導所というのが何とかして救い上げようとしているのですね。そこにまた不自然なところがある。

      本田 からだが大きいだけでは大企業といえんでしょうな。それはアメリカも親工場と子工場とありますよ。下請といいますか、たとえば小さい鋳物工場がある。そうするとその鋳物工場の質金と、そこが納めている大企業の賃金と同じなんですね。

      天野 そうそう。かえって小さい方が賃金が上ですよ。

      本田 ええ、かえって高いくらいです。それはなぜかというと、専門化していて、そこで大企業ではできないような仕事をやっている。専門家なるがゆえにもうかっているはずなんですよ。大体そういうものなんですね。ところが日本ではそうでなくて、さっきいったようにおやじそのものずばり苦労せずに、外交方面とかばかり苦労しちゃって、品物の質を上げることをしないものだから、いつまでたってもうだつが上がらんのじゃないかな。
      だから、このごろグランプリ・レースもはじまったわけですが、いつも感じることは、チェーンとタイヤは絶対日本ではダメなんです。材質のいいのを使ったってダメ。英国のレーノルドというチェーン・メーカーがそんなに大きいかというと、そんなに大きくない。しかしそこの製品を使わないと、たとえばマン島のコースを一周すると、日本のものだと引っ切れてしまう。タイヤだと丸坊主になってしまう。一回まわって丸坊主になるならまだいい。スピードを出すから遠心カでゴムとキャンパスは離れてえらいことになる。うちなんかもう少しで一人殺すところでしたよ。大企業だって日本ではそういうものだから、大企業だからいいということはない。そこを勉強すればいくらでも伸びて、小企業でもそこに頼まなければならんようになっちゃう。エーボンという英国の会社はそんなに大きくない。それだって、エーボンのタイヤを使わなければレースに勝てないのだ。

      天野 従業員は200人くらいでしたね。

      本田 ええ、それでも日本の一流メーカーよりりっぱなものを出していますよ。そのくらいまで一生懸命研究して、ほんとうに製品がすべてであるということに徹底しているのですね。だから僕は中小企業に一番いいたいことは、製品がすべてであるということをおやじがまず悟ることであるということなんですよ、一口にいえば。

      記者 それをやったときに金ができる。それから会社が大きくなればさらにいいということなんですね。

      本田 そうなんです。それを製品がすべてでなくて、何々会長という肩書がすべてだと思ったら大間違いなんだ。

      記者 いい結論が出ましたから、この辺で。どうもありがとうございました。

    • 出光佐三氏にもの申す

      『マネージメント・ジャーナル誌』昭和37年6月号掲載

      天野修一

       『マネジメント・ジャーナル』昭和37年2月号で、貴下のご高説「日本の産業の伸長は人間尊重より外はない」を拝読した。貴下は50年間の経営の経験でこのことを確立したとも言われている。貴下は外国人の考えは金本位、物本位だと断定されている。貴下が無名の士ならば一笑に付すべきであるが、今、隆々たる石油界一方の旗頭として著名の士であるため読者の誤解を憂えて私はあえて貴下に直言したい。

       人間尊重は決してわが国の専有物ではない。貴下は恐らく欧米にも行かれたであろう。また貴下が現今主力を傾注しているソ連石油を介してソ連人との交際も豊富であると信ずる。人間尊重は、わが国よりもむしろ欧米人の方がすぐれている。これは私が若いころから今日72歳までの実感であり、幾多の実例を貴下に披れきすることができる。がしかし、ここでは紙面がないから省略することにして、私は貴下の言うがごとく、人々をとくに若い人々を何らの訓練も、指導も与えず放てきすることが人間尊重なりとするならば、これは先輩、年長者としてあまりに無責任であり、独善から割り出した世人を毒する暴言であり、むしろ貴下の浅慮を痛々しく感ずるものである。

       現在貴下の石油事業はきわめて快調であり、莫大な利潤を占め、従業員の勤勉努力なくとも単に取扱油のマージンで経営は十分に立ち行くであろうが、貴下幕下の多数の青年が、出光王国に安座することがあるとすれば、彼らの将来に対する貴下の責任はきわめて重大であることを静かに反省せられたい。

       私は、貴下の人間尊重論は「諸君は勝手に立派な人々になれ」として、部下を投げやりにしているのではないかを憂えるものである。貴社の実際はそうでないであろうが、貴下の文を読むと左様に考えることは、浅才な私だけではないと思う。

       (イ) 勤務時間の放任は、部下に責任感、共同作業感の教養を身につけ、かつ適材を適所に配置して部下を育て上げる貴下の責任のなさではないか(貴下はだれも遅れて来ないのが実情と言われるが、何百何千の、しかも10数ヵ所に散勤している従業員の実情が簡単にキャッチされるだろうか)。

       (ロ) 失敗した責任を追求しない、これは経営者としての常識である。しかし、その失敗の原因を調べ、次の同種の失敗を重ねないようにさせることが部下を愛し育てる道である。

       (ハ) 接待費を「野放し」にして社員の「自主的判断」にまかせていると言われるが、これは特殊業務者に対する取扱いであって、それを何らかの誤りで全社員と記載されたのでなければ、貴社の経理の乱脈を露呈するものである。

       これを要するに、貴下の人間尊重論は、貴下の好みによって変化する危険性をふくむ人間尊重論である。切に貴下の開眼を希望する。

       私は貴下の人間尊重論は「人を経営の道具視する誤びゅう』に直結せんことを恐れて本文をしたためたのであるが、すでに自白せし通り私は日本でのタイムレコーダーの発明者である関係上、本機は人を時間で束縛するものなりとの貴下の断定について貴下の開眼を希望する。

       タイムレコーダーは、1分、2分を争うて人を束縛するものではない。束縛するごとく使用することがあるとすれば、それは真の目的を解せざることである。本機は、個々の性格を調べ、適材を適所に配するいわゆる人事管理を目的とするものである。

       一例をあげれば、毎朝毎ター定の時刻に変化なく出動する者は、きわめて堅実の心構えの人であり、彼には金庫の鍵を渡しても決して失敗はないであろう。しかし、彼に突発的大事件の解決を命じても、それは恐らく達成不可能であろう。これと反対に、出勤、退出が狂うものに金庫の鍵を預けるならば、翌日その金庫は空になるかも知れん。しかし、彼に際物の仕事を命ずれば、何とか達成するであろう。

    • 私の発言

      出光興産(株)出光佐三

       問 職場の欲求不満が企業の大きな問題となっていますが、これについてどういう方法でこの不満を解消し、企業を伸ばしておられるでしょうか。

       私の経営のモットーは「人間尊重」である。この考えを実践するため私は、当社では出勤簿やタイムレコーダーなどというものをおいていない。また本人がほんとうに真剣に仕事と取り組んだ上で、失敗した場合、その責任を追求しないようにしている。このための損失は「人間養成」というか、「社員養成」のための「授業料」と思えば安いものではないか。

       さらにいえば、当社には出張のための旅費などを細かく規定した規則はないし、また業務上の接待費も「野放し」に近い状態である。これはいずれも社員の「自主性」と「自主的判断」を尊重したもので、私の「人間尊重」の考え方を具体化したものだと自負している。

       私が出勤簿制度を設けていないのは本社においてだけでなく、製油所はもちろん各地の営業所もそうで、全国的のものである。どの企業にもたいていは出勤簿とかタイムレコーダーがあり、毎朝1秒でも遅れまいとする従業員がそれにむらがっている様はなんとも不思議で仕方がない。人間はむしろ信頼されることによって、かえって発奮するとわれる。当社で出勤簿を全廃したので、社員がダラダラ出勤するかというと、事実はむいしろ逆だ。誰も遅れて来ないのが実情である。

       当社の業績も幸い、きわめて好調である。これも「人間尊重」の経営に負うところが大きいと思う。社員は経営幹部の信額にこたえ、張り切って仕事をしてくれるからだ。

       ところでこうした出光興産の経営法に対し、いまの若い人は大きな疑問を感ずるようである。アメリカ式の自由思想の影響を受けた若い人達は、古くさい感じのする「人間尊重」という考え方を理解できないのだろうか。「外国人の考え方は金本位、物本位だが、日本人の考え方は人間本位だ」というのが私の見方であり、そこに世界にまれな「日本のよさ」があると信じている。

       私はこの新年、社員に対して「私は過去50年間に“人間尊重”の経営を確立した。あとは君らが引きついでやってくれ」とあいさつした。日本の企業を伸ばし、日本の産業を伸ばすには「人間尊重」の精神以外にないと私は思うのだが、これから社会に出てくる若い人達も、この考え方を引きついでもらいたい。

    • 天野修一氏との結びつき

      川上良兄

       この天野修一氏の自伝編さんにたずさわる好機を与えられたのは、私にとっては、不思議ないきさつがある。

       いまから8年ほど前。私は“マネジメント・コンサルタント”とみずから名乗りを上げてみたが、ほとんど顧みられなかったので、もっと勉強しようと、叔父の明石照男に相談したところ、数人の先人を紹介してくれた。そのうちの1人が天野修一氏であった。

       うかうかと日をすごすうちに、明石照男が死没して、私の手元には天野修一氏紹介の名刺が残った。ある日、天野修一氏が銀座の日本生産性本部に私をおとずれ、『天野特殊機械30年史』の編集を依頼されて来た。その仕事にたずさわった時「冥土からの紹介状です」と明石照男の名刺をお渡ししたのであった。これが天野さんと私とのそもそもの結びつきであった。

       『天野特殊機械年30史』が昭和35年秋に出来上がったころ、天野さんは自伝を書くことを決めておられたようであった。そして私が、昭和36年晩秋、ハーバード大学のビジネススクールに行って、自分の仕事を研究している間に、この自伝の編集が進められ、帰国した私は、『天野特殊機械30年史』のご縁もあって、そのお手伝いをすることになった。これが私とこの自伝との縁である。

       「30年史』の時も今回も、私の本職ではありませんがと申しそえて、あまり用に立たないで心配のみしたのであったが、どうやら発刊にまでこぎつけた。

       私は、いまマネジメント・コンサルタントとしての専門領城を“中小工業の全般的経営”と限定し、日本生産性本部で仕事をしているが、この天野さんのすごされて来た人生、とくにこの本で言えば第2部にあたる経営の戦いの部分は、世の中小企業者の方々のこれからの進路に、大いに役立つものがあると信じている。(筆者は日本生産性本部嘱託)

    • 天野修一略歴
      年代 年月日 経歴

      23. 6.15 三重県鈴鹿郡石薬師村で出生(現在三重県鈴鹿市)
      29. 4. 1 同村尋常小学校入学
      33. 4. 1 同村高等小学校入学
      35. 4. 1 三重県立第一中学校に入学(現在三重県立津高校)
      40. 3 同中学校卒業
      40. 9. 2 大阪高等工業学校機械科入学(現在大阪大学工学部)
      42. 1.22 海軍造兵生徒となる
      43. 7.10 大阪高等工業学校機械科卒業
      43. 7.23 海軍奉職、海軍技手8級俸(月給35円)
      横須賀海軍工廠附を命ぜらる
      43. 9.29 横須賀海軍工廠造兵部附を命ぜらる
      44. 4.11 丹後砲熕公試発射委員附を命ぜらる

      2. 7. 8 はじめての特許「A式綴紙器」を得る
      2. 12. 1 海軍艦政本部附兼造兵監督助手佐世保海軍工廠第一部附を命ぜらる(実際の職務は長崎三菱造船所で建造した「霧島」艤装工事の監督であった)
      4. 4 郷里で結婚式挙げる
      4. 5. 1 横須賀海軍工廠造兵部附を命ぜらる
      4. 11.10 大礼記念章授与大正3〜4年従軍記章授与
      5. 3. 2 軍艦「相模」砲熕公試委員附を命ぜらる
      7.11. 5 海軍技術本部附兼造兵監督助手、第一部附を命ぜられる
      8. 1.17 先妻死す
      8. 4. 1 米国出張を命ぜられる
      9. 5.20 フランス出張を命ぜられる
      9. 8.16 海軍技師に任ぜられ、高等官7等に敍せらる
      海軍航空機試験所員兼造兵監督官に補せらる
      9. 9.10 従7位に敍せらる
      9.11. 1 帰朝を命ぜらる
    • 年代 年月日 経歴

      10. 5.16 大正4年ないし9年戦役の功により勲8等瑞宝章を賜わる
      同従軍記章授与
      10. 8.18 海軍航空機試験所員に補せらる
      10.11.12 戦利航空機実験研究委員を命ぜらる
      11. 7.17 現夫人と結婚
      11. 7.26 勲7等に敍せられ瑞宝章を授けらる
      11. 9.30 高等官6等に敍せらる
      12. 4. 1 海軍艦政本部員兼海軍技術研究所員に補せらる
      戦利航空機実験研究委員を命ぜられる
      12. 6. 4 海軍艦政本部附兼造兵監督官に補せられる
      名古屋に駐在し造兵監督事務を執る
      13. 7.26 勲6等に敍し、瑞宝章を授与せらる
      13.12.11 高等官5等に敍せらる
      13.12.12 従6位に敍せられる 文官分限令第11条第1項第4号により休職を命ぜらる
      14. 6.10 依願免官、正式に海軍を退職
      13.12 名古屋市浅野木工場技師長

      元. 7 同木工場退職
      元. 8 東洋ベニア製作所設立 岩手県宮古近在で従事
      2.10 同所解散
      2. 9.17 各種教員免許取得
      3. 5 東京螺子製作所工場長
      6.10 同所退職
      6.11. 3 天野製作所を東京蒲田に設立
      8. 3. 8 時刻記録時計(タイムレコーダー)の特許を得る
      8. 5 海軍航空技術廠よりはじめて兵器製作を依頼さる
      9. 5 雷道計の試作に着手
      11. 3.17 圧力計に於ける空盒(雷道計)の特許を海軍へ献上
      13. 3. 1 横浜工場建設に着手
      14. 4. 1 株式会社天野製作所設立
      15. 9. 1 天野製作所と株式会社天野製作所を合併資本金70万円に増資
    • 年代 年月日 経歴

      16.10. 1 資本金140万円に増資
      17. 6.30 海軍管理工場に指定さる
      18. 8.16 事業の経営責任者として徴用さる
      18. 8.25 三重工場建設に着手(19.3操業開始)
      19. 7. 1 資本金560万円に増資
      19.11 タイムレコーダーの製作中止
      20. 8.15 終戦と同時に生産を中止
      20.11.22 横浜機器株式会社設立、タイムレコーダーの生産再開
      22. 2.18 株式会社天野製作所180万円に減資
      24. 4. 1 企業再建整備法により株式会社天野製作所解散
      25. 5 日本国有鉄道へタイムレコーダー納入
      26. 5 CIOS会議出席をかね欧米外遊
      27.10 リクレス(ドレーン分離器)誕生
      28. 1 戦後二度目の外遊に出発
      28. 6. 2 天野特殊機械株式会社設立
      31.10. 1 横浜機器株式会社に天野特殊機械株式会社が合併、新たに天野特殊機械株式会社とする
      31.11.26 資本金を4,500万円に3倍増資
      32. 8. 1 新工場、新事務所の建設に着手(33.2完成)
      33. 7.23 株式公開、東京市場で店頭売買
      33.11. 1 新築工事完成披露、創立28周年記念式典挙行
      34. 4. 1 生産奨励金制度発足
      34.11.30 紫綬褒章受賞
      35.11. 3 会社創立30周年記念式典挙行
      36. 1.26 横浜市文化賞受章
      36. 7.10 新工場第二期工事着手(36.12完成)
      37. 5.30 第3回目(戦後)の渡米、つづいて11.4渡米
    • 人物索引

      アイケルパーカー中将
      237
      アイヒマン
      332
      青木 保
      166, 175
      明石照男
      183, 195, 227, 354
      朝比奈貞一
      202
      芦田 均
      321
      天野 杲(三男)
      147, 152, 295, 298
      天野和夫(二男)
      118, 147, 152, 298
      天野郷三(弟)
      48
      天野こたき(祖母)
      5, 8, 10, 24, 46, 162, 316
      天野貞子(妻)
      117, 153, 276, 298
      天野繁松(父)
      5, 7, 9, 27, 31, 38, 68, 73, 92, 108, 130, 317
      天野壮五(弟)
      198
      天野 卓(長男)
      76, 152, 212
      天野田鶴江(亡妻)
      68, 76
      天野 孟(亡児)
      76
      荒木東一郎
      152, 161

      飯田清三
      228
      石川半七
      45, 51, 56
      市村 清
      228
      出光佐三
      351
      伊藤忠兵衛(先代)
      200
      伊藤博文
      62, 322
      井上匡四郎
      146
      井上正夫
      337
      岩村清一
      11, 237

      上田良武
      115, 117, 119, 121, 131, 148, 151
      内山岩太郎
      235

      江戸康継(刀)
      214

      大久保彦左衛門
      308, 321
      大角岑生
      94, 106
      大谷米太郎
      112, 332
      大山 厳
      322
      岡田武松
      161
      尾崎行堆
      232, 239

      賀川豊彦
      182
      片山 潜
      82
      加藤繁雄
      162, 186, 190
      金森徳次郎
      237
      川口千鶴之助(恩師)
      12, 14

      北嶋三省
      236
      木戸孝允
      322
      木村与三
      190, 244

      郷 誠之助
      141
      河野三吉
      108, 115, 119, 121, 131
      後藤新平
      118, 295
      小屋 寿
      120, 149, 151

      西郷南洲
      322

      J・ワトソン
      219
      渋沢敬三
      183, 196
      庄司健吉
      58, 102, 108
      ジョン・ホーリー
      86, 90

      菅谷重平
      252
      杉 政人
      83, 91
      杉山玉夫
      192, 198, 224, 227, 244, 267, 271, 315
      鈴木三郎助(先代)
      330

      瀬川美能留
      228
      センピル大佐
      103, 256, 332

      高橋敏夫
      162, 186, 190, 276
      高松宮殿下
      132
      多胡寅次郎
      181, 208
      田中舘愛橘
      111

      土井直作
      152
      東郷元帥
      36, 137, 214, 329
      東條英機
      210, 321
      頭山 満
      161
      徳川義親
      103
      富塚 清
      290
      豊臣秀吉
      310, 322, 336

      中島久万吉
      142
      中島知久平
      72, 137
      中曽根康弘
      276
      ナポレオン
      322
      奈良原三次
      131
      南里団一
      71, 74

      根上耕一
      161

      長谷川正衛
      190, 199, 243
      八田嘉明
      146
      花島孝一
      102

      ヒトラー
      322
      平賀 穰
      135
      広瀬広八
      59
      弘田竜太郎
      15

      福井菊三郎
      201
      藤川多喜子(長女)
      48, 152, 154, 298
      藤山愛一郎
      202
      藤原銀次郎
      150

      本田宗一郎
      340

      松方五郎
      113, 164
      松崎半三郎
      77
      松田清次郎
      30, 148

      三浦 環
      106, 337
      三富寅吉
      49
      宮川経輝
      33, 39
      宮本武蔵
      310, 336

      武藤稲太郎
      75
      村岡嘉六
      334

      森川覚三
      252

      山県有朋
      322
      山田市作
      159, 162, 186, 190, 199
      山本五十六
      342

      横田成沽
      111
      吉次利二
      248
      米花伊太郎
      53, 117

      和田小六
      111
      渡辺与市
      58, 120, 169
    • (どん)(こん)(うん)――天野修一自伝

      昭和38年1月31日発行

      著者
      天野修一
      横浜市港北区日吉町438
      発行
      天野特殊機械株式会社
      横浜市港北区菊名町
      製作
      株式会社東洋経済新報社
      東京都中央区日本橋本石町1-4

      頒価 1,000円(限定版)